M・L派系の分派分子は5・30暴動の失敗から教訓を汲みとろうとせず、1930年8月1日、国際反戦デーと前後して吉敦鉄道沿線地方を中心にまたも無謀な暴動を起こした。
暴動によって、革命の前には重大な難関が立ちはだかった。5・30暴動以来、地下に深く入っていた残り少ない組織も露呈した。わたしが出獄して各地を巡り、かろうじて立て直した組織も、再度の打撃で破壊された。満州各地で、すぐれた指導中核が大挙逮捕され、処刑された。敵は共産主義を中傷し、共産主義運動を弾圧する格好の口実を得た。
この暴動が日帝の民族離間策をどれほど助けたかということは、多言を要しないであろう。2回の暴動によって、中国人は朝鮮人を不信の目で見るようになった。その後われわれは、遊撃闘争をしながら苦労して中国人の信頼を回復した。
東満州の朝鮮人は8・1暴動を経験したあとで極左冒険主義の危険性をしだいに悟り、大衆を無謀な暴動に駆り立てる分派事大主義者を遠ざけるようになった。
わたしはただちに暴動のあった地域に工作員を派遣し、これ以上革命大衆が分派分子の扇動にあざむかれないよう措置を講じた。
わたしも吉林 |