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『金日成回顧録―世紀とともに』 第7章「人民の天下」より |
ソビエトか、人民革命政府か? |
キムイルソン |
遊撃区で極左病がもっともはなはだしく現れたのは政権建設分野であった。政権建設における極左的偏向は、教条主義、事大主義、冒険主義に毒された人たちの小ブルジョア的性急さの所産といえるソビエト建設路線と、ソビエトの名で実施された一部の施策に集中的に現れた。 政権建設をめぐる問題はすでに「トゥ・ドゥ」(打倒帝国主義同盟)のころからわれわれの論議の対象となり、誰も無視できない重要な論題となっていた。朝鮮青年にとって、政権問題は独立後に上程してもよい将来のことであり、また国権回復が実現したあとでのみ建設に着手できる理念上の問題だと主張する人もいたが、われわれはそうした見解に同意しなかった。政権の形態にかんする見解は、とりもなおさず、それがいかなる性格の革命を追求するかという問題に直結しているというのが、われわれの立場であった。 政権問題がわれわれの政治生活でもっとも激烈な論議の対象となったのは、 吉林の青年は、それぞれのレベルと利害の違いによって、王政を支持する者、ブルジョア共和制に未練をいだく者、ソ連式社会主義に拍手を送る者など、まちまちであった。 その後、われわれはカリュン会議で朝鮮革命の性格を反帝反封建民主主義革命と定義づけ、それにもとづいて共産主義者が解放後の祖国に樹立すべき政権は当然、王政やブルジョア議会制政治を排除した人民のための政治制度、すなわち労働者、農民、勤労インテリ、民族資本家、宗教人をはじめ広範な勤労者大衆の利益を擁護する民主主義政権であるべきだと強調した。1931年12月の冬の こうした必要性からして、東満州地方で活動していた共産主義者は、1932年の秋から遊撃区域で政権樹立の歴史的な道に踏み出した。その年の10月革命記念日を契機に、 最初はわたしも、遊撃根拠地にソビエト政権が樹立されたことをうれしく思った。名称はどうであれ、人民の利益を擁護する政権であるならそれでよいと思ったのである。当時は「ソビエト熱風」が東満州全域に吹きまくっていたときである。ソビエトを樹立することは、社会主義共産主義を志向する世界各国の革命闘士と進歩的人民にとって一つの公認された思潮として流行し伝播していた。この熱風はヨーロッパとアジアとを選ばなかった。中国 コミンテルンの本部に常駐していた朝鮮人の ロシアに樹立された新生ソビエト政権は、打倒された搾取階級の反乱を粉砕して帝国主義連合の侵略から祖国を守り、経済を復旧し社会主義建設を推進するうえで、かつてのいかなる政権もなしえなかった絶大な生命力を発揮した。ソビエト社会主義のこうした凱旋行進は、人びとのソビエトにたいする崇敬の念を幻想の境地にまで昇華させていた。人類がソ連を灯台と仰ぎ、ソビエトをすべての政権形態のうちでもっともすぐれた先進的なものとして受けとめたのは、決して無理なことではなかった。ソ連と隣り合わせの地帯であり、また新生ソ連の影響をいろいろと受けていた間島地方で、ソビエトにたいする幻想が人びとの頭を支配するようになったのは当然なことであった。 南満州と北満州への遠征を終えて汪清に帰還したわたしは、ソビエトの施策にたいする不満の声が遊撃区のいたるところからわき起こっている現実を目撃して、唖然とせざるをえなかった。それらの声には、見過ごすことのできない深刻な問題が内在していた。彼らのとりとめのない陰口に真実がひそんでいることを、われわれはすぐに見てとった。 わたしは遊撃区域をまわりながら、ソビエトにたいする人びとの考えを詳しく調べた。数十数百人の人民との不断の接触と腹を打ちわっての真しな対話の過程で、わたしはソビエト政権の極左的施策がまねいた重大な結果を全面的に把握することができた。遊撃区の住民がソビエトをけむたがりはじめたのは、政府が社会主義の即時実現という極左的なスローガンのもとに私有財産の廃絶を宣言し、土地や食糧をはじめ、鎌、手ぐわ、フォークなどの農具まで、個人所有になっていた動産、不動産をいっさい共同所有に変えてしまったときからであった。ソビエト政府は財産の共有化を一挙に強行したあと、遊撃区内のすべての住民に老若男女を問わず共同生活、共同労働、共同分配の新秩序を強要した。これが、いわゆるソビエト急進論者が口ぐせのように唱えていた「アルテリ」の生活というものであった。これは、幼稚園の児童が小学校、中学校、高等学校をへずに大学に進学したようなものであった。 ソビエト政府はまた、大地主、小地主、親日地主、反日地主の別なく遊撃区内のすべての地主と富農の土地を無償で没収し、牛馬や食糧までも一律に収奪した。東満州がいわゆる「赤色区域」と「白色区域」に分離されたのち、敵区へ行かずに遊撃区域に留まった地主はほとんどが反日感情の強い愛国的な地主であった。共産主義者が汪清一帯で武装隊伍を組織したとき、彼らは遊撃隊の援護にも誠意を示した。そういう地主の中に、 「遊撃区のだんながた、わたしは日本人を見るのがいやでここに留まった人間です。あの悪鬼のようなやつらを大肚川市内からだけでもなんとか追い出してくださいな!」 遊撃隊員が義援金を募りに行くと、張時明はこう頼むのであった。遊撃区の住民と彼との仲は非常によかった。ところが、ソビエト政権はこの地主までも敵区へ追いやってしまった。張時明は遊撃区域に留まれるよう考えてほしいと懇願したが、ソビエトはそれを許さなかった。 「ソビエト政権は地主の財産をいっさい没収することにした。あなたは反日精神が強い人で、これまで遊撃区の仕事をいろいろと助けてくれたのは確かだが、搾取階級に属する人間であるから、粛清しないわけにはいかなくなった。だからここから早く立ち去れ」 これが反日地主に下したソビエトの宣告であった。誠心誠意革命を援護した張時明の財産は即座に没収され、ソビエト政府の管轄下にある倉庫に全部納められた。裸同然の身になった彼は、涙ながらに日本軍の駐屯している大肚川へ去って行った。そのとき粛清工作に動員された者たちは、地主の 1930年代の前半期は、東満州地方の極左が絶頂に達した時期であり、極左の専横の中で神聖な革命的原則が試練をへていたときである。どうして極左病がこのように東満州を吹きまくることができたのであろうか。間島の遊撃区域に集まった革命家はみな無頼漢か、それとも理性を失った狂人であったというのであろうか。そうではない。遊撃区を治めていた絶対多数の共産主義者は気高い革命的理想と道義に徹したりっぱな人間であった。彼らは誰よりも人間を深く愛し、正義への志向が熱烈であった。にもかかわらず、あれほど人情に厚く分別のある人たちが、なぜ極左路線の提唱者、実行者となり、取り返しのつかない失策を犯すようになってしまったのであろうか。われわれはその原因を路線に求め、その路線を作成した人たちの思想的未熟さに求めた。実情にうとい人たちがトップの座にあぐらをかき、古典の一般的原則と先行者の経験をそっくり直輸入した現実性のない指令を乱発したため、実践的には無理が生じざるをえなかったのである。むやみに排斥し、手当たり次第に一掃し、打倒し、葬り去るのがもっとも徹底した階級性とみなされ、もっとも前衛的な革命家の表徴と評されている時期であった。 極左がいかに神聖視されていたかを示すこんな事実もあった。汪清のある寡婦が機織りをして稼いだ小銭を農民に貸し付けたところ、農民はそれを高利貸しだと決めつけて借用書を焼き捨て、元金まで踏み倒してしまったというのである。背後であやつる者がいなければ、純朴な農民にこんなさもしいことができるはずはない。 いつか、わたしは汪清で 極左を戒め、容認してはならないというわたしの決心は、間島に来ていっそうかたくなった。わたしはそのとき以来、一生のあいだ極左とのたたかいをつづけてきた。間島時代の体験は解放後、極左を防ぎ、官僚主義を一掃する闘争に大いに役立った。 もっともらしい革命的言辞とはねあがったスローガンの裏で、極左はつねに大衆を愚弄し、抑圧し欺き、功名と栄達を夢見るものである。その功名と栄達のために、自分を最前線で突進する戦車や装甲車でもあるかのように描写するのが極左なのだ。変装した反革命が極左に早変わりするのはそのためである。それゆえ共産主義者はつねに警戒心を高め、自己の陣地に極左の足がかりとなるようなすきを与えてはならないのである。 極左的なソビエト施策がまねいた禍のため、遊撃根拠地では収拾しがたい動揺と混乱が生じた。多くの家族がソビエト施策に不満をいだいて敵区へ移って行った。ある晩、わたしは隊員を率いて第二中隊の政治指導員 「あなたはどんな罪を犯したのですか?」 わたしは寒さにふるえている3人の子どもを一人一人抱き寄せながら、おだやかに尋ねた。 「いや、何も罪は犯しておりません」 「それでは、なぜ遊撃区を離れようとするのですか」 「ここではもう息がつまりそうなので…」 「では、どこへ行くつもりですか? 敵区へ行ってはここよりもっと息がつまるはずなのに」 「日本人にさんざんひどい目にあわされて遊撃区にやってきたわたしらが、またやつらのところへもどっていくなんてとんでもないことです。人のいない深い谷間へ行って、焼き畑でも起こして暮らしていくつもりです。そうすれば心だけでも休まるではありませんか」 わたしは胸がふさがる思いだった。この 「まだ氷も解けていないし、草の芽も生えていないというのに、それまでの食糧はなんとかなるんですか?」 「食べ物なんてあるわけがありません。気力がつきるまで生きられれば生きるし、死ねば死ぬし…仕方がないでしょう。もう命がつながっているのが煩わしいくらいです」 かたわらの彼の妻が突然、肩をふるわせてむせんだ。すると、わたしの胸に抱かれていた3人の子どもらも、せきを切ったように泣きだすのであった。わたしは頬を伝う涙を唇で噛み殺し、暗闇の中に呆然と立ちつくしていた。こうして一人二人と立ち去ってしまうなら、最後は誰に頼って革命をすればよいのか。朝鮮革命はなにゆえにこのように索漠とした窮地に落ちこんでしまったのだろうか。ソビエトの無謀な施策がもたらした結果は、このように破局的なものであった。 「もう少しすれば世の中もおさまりがつくようになるでしょうから、あまり気を落とさずにわれわれと一緒に時勢が改まる日を待ちましょう」 わたしは、その家族を家に連れて帰るよう隊員に命じた。そして第二中隊の兵舎で泊まることにしていた予定を変更し、 「ご老人、最近はいかがお過ごしですか」 わたしの挨拶に老人は「命がつながっているから、生きておるようなもんじゃ」と無愛想に答えるのだった。わたしはその無愛想な口調が遊撃区の民心を代弁しているように思えたので、いま一度問いかけた。 「遊撃区の生活がそんなに苦しいのですか?」 すると、 「ソビエト政府が役畜や農具を集めていくときはまだわしも我慢した。ロシアでも農業の集団化というのをやるときはそんなことをしたんで、わしらもそれに見習ったんだろうと思った。ところが、何日か前に共同食堂を経営するとかで、さじや箸まで集めに来たのにはへどが出たよ。『わしら老人たちが共同食事のために日に3回、自分の家のオンドル部屋をおいて外へ行ったり来たりしろというのか。こんなやり方はもう我慢できん。コンミューンだのアルテリだの、そんな化物の巣窟みたいな世の中をつくるのなら若い者だけでやれ。わしらは息が苦しくてついていけん』といってやった。すると、今度は封建粛清だのなんだのといって、年寄りたちを大衆集会に引き出して、嫁たちに批判させるじゃないか。朝鮮の歴史はざっと5千年を数えるというが、どの時代にこんな奇怪千万なことがあったというのか。うちの仁俊はそれでもわしに、ソビエトを誹謗しちゃいかんと説教しよる。それでわしは、仁俊の背骨を叩き折るところだった」 遊撃隊指揮官の父親がソビエトの施策に背を向けるくらいだから、他の住民の動向は調べてみるまでもなかった。その後、遊撃区での反民生団闘争が極左的に展開された恐怖の時期と、遊撃区の解散をひかえて軍隊と人民が涙のうちに惜別の悲しみを分かち合った日々に、胸を叩いて時勢を痛嘆したこの老人の訴えをわたしはしばしば思い起こしたものである。 ソビエト政府が樹立されて半年足らずのあいだに、朝中人民の関係は再び急激に悪化した。粛清された地主の大部分が中国人であっただけに、5・30暴動のときと同じような葛藤が再燃したのは当然の結果であった。反日部隊は以前のように再び朝鮮の共産主義者を敵視するようになった。日本軍と満州国軍に加えて、救国軍も、中国人地主も敵に回すようになったのである。 抗日遊撃隊は、小規模の秘密遊撃隊のように他人の家の裏部屋に隠れていた創建初期と同様の境遇になり、朝鮮人の集落に用心深くひそんでいた。だからといって、別働隊という看板を復活させるわけにもいかなかった。救国軍はわれわれに出会うと「 ソビエトの施策をめぐって、われわれの隊伍のあいだにも分解作用がはじまっていた。こんなことなら、いっそのことロシアへ行って革命のやり方を学んでから再出発しようという者もいれば、間島人のやり方どおりにしては革命もなにもみな台無しになってしまうから振り出しにもどってわれわれだけでたたかおうという者もおり、つまらない革命をするくらいなら家へ帰って親孝行でもした方がましだという者もいた。それで、家へ帰りたがっている中国人の一人は家に帰らせ、ソ連へ行って勉強したがっている別の中国人はソ連へ送ることにした。 こうした事態にあっても、遊撃区の運命に責任を負うべき人たちは政策転換を断行する決心を下せずにいた。東満特委が指導機関として存在していたが、コミンテルンの施政方針に修正を加えるだけの路線をもっていなかった。誰かが、右翼の極印を押される危険を冒してでも、果敢に立ちあがって混乱した時局をただし、遊撃区を崩壊の危機から救い出さなければならなかった。そのためには、極左的なソビエト路線に対抗する決断と新しいテーゼが必要であった。わたしが、セクト主義の一掃と革命隊伍の統一団結の強化にかんする論文をパンフレットにして発表したのは、ちょうどそのころのことだった。 わたしは政権建設問題をめぐって、馬村で わたしは彼に、どういう理由でソビエトの建設が時期尚早だと主張したのかと尋ねた。彼は「理由というのは単純ですよ。カヤホーに行っていたとき農民とよく語り合ったのですが、彼らはそもそもソビエトがなんであるのか、その言葉の意味すら知らないではありませんか。人民が知りもしないソビエトを建設するというので、無謀に思えて時期尚早だといったのですよ」と簡単に答えた。 人民にはソビエトがなんであるのかわからなかったというのは、当時の実態をありのままに反映した言葉であった。区ソビエト選挙に参加した呀河の老人たちは、ソビエトをソクセポ(速射砲)と混同していた。 「ソビエトが出てくるというので、日本軍をうんとやっつけるソクセポが出てくるのかと思って演壇を見つめていると、なんと、ソクセポではなくて赤旗が出てきましたわい」というのが老人たちの言葉であった。汪清二区のソビエト創立行事に参加した馬村の有権者の中には、ソビエトをセボチ(金だらい)と勘違いしている人もいた。ある村の人たちは、ソビエトの選挙に出かける有権者に、「ソビエトがどんな形のものなのかよく見てきなされ。大きいもんか小さいもんか」と頼んだという。またある村では『ソビエトという偉い人が来るそうだが、もてなすものがなくて困った」といって、かごを手にして山菜を摘みに出かける人がいたという話もある。 このように人民がソビエトについて自分なりに解釈し、それに人びとの笑いを誘うコミカルな注釈まで加えるようになったのは、無知がもたらした当然の結果ではあるが、大衆を指導する人たちの宣伝活動が正しく進められなかったからである。当時の宣伝テキストというのは、およそ題目からして大衆に理解できない外来語だらけのもので、「ソビエトとはなにか?」「コルホーズとはなにか?」「コンミューンとはなにか?」といった類のものだった。ソビエトにたいする概念は宣伝員自身でさえあいまいな有様であった。極左の毒素に侵された急進分子は、このように人民にはわかりもしないソビエトを各地にうち立て、労働者と貧農、雇農の独裁を叫び、革命が成功したかのように虚勢を張っていた。 わたしは汪清の同志たちの忠告を無視し、 「間島の一角に革命政権が誕生し、その存在をこの世に宣言したのはまったく喜ばしいことです。ところで 「統一戦線路線が侵害されている? それはなにを念頭においてのことですか」 「明月溝でも話したことがありますが、われわれは朝鮮革命に利害をもつすべての反日愛国勢力を一つの強力な政治勢力として結集する路線をうちだし、その実現のために数年間、国内と満州地方で血みどろのたたかいを展開してきました。その過程で、われわれは多数の大衆を結集しました。その大衆の中には愛国的な宗教人もいれば商工人や下級官吏もおり、ひいては地主までいます。ところが、ソビエトの施策は彼らを一律に排斥してしまいました。きのうまでの革命の支持者、共鳴者が、きょうは革命に背を向け、反対する立場に立っているのです。朝中人民の関係も再び悪化しています」 「それはありうることであり、また本質的な問題でもありません。肝心なのは、ソビエト政権が人民の望んでいたことをすべて解決してやったということです。革命も上昇一路をたどっています。労働者、農民をはじめとする絶対多数の大衆はソビエト政権を支持しています。なにも恐れることはありません。労働者と農民さえいればいかなる革命でもできるというのがわたしの主張です。少々の損失は覚悟すべきではないですか」 「損失がありうることは認めます。しかし、味方にできる人を押しやる必要はないでしょう。われわれの総体的な戦略は、敵を最大限に孤立させ、絶対多数の大衆はすべて獲得しようというものです。それでこの1年間、危険を冒して反日部隊の工作も進めてきたのです。5・30暴動を契機に失墜した共産主義者の体面もやっと回復し、朝中両国人民のあいだに生じた不和も辛苦の末に取り除かれたというのに、あれほど骨をおって積みあげた塔が、一朝にして崩れ去る危機が再び生じているのです」 「 「違います。わたしはもともと何事でも楽観的に考察するたちです。革命はもちろんこれからも上昇一路をたどるでしょう。しかし、東満州に生じている極左的施策の結果については深く憂慮せざるをえません。東満特委はこの問題にたいし、当然熟考する必要があると思います」 「ということは、施策を再検討すべきだということですか?」 「そうです。施策を再検討し、その施策を生み出している政権形態について再検討すべきです」 「 論争はつづいた。 その後、わたしは再び 「ソビエトが東満州の実情に合わないものであり、またソビエトの一部の施策が革命に損失を与えたということはわたしも認めます。この前、 特委書記の見解に生じた変化はわたしをほっとさせた。その日の 「これまで人類が発見した労働者階級の政権形態は、コンミューンとソビエトしかないではありませんか」 「それなら、実情に合った形態をわれわれの力でつくりだしてみようではありませんか」 「われわれがつくるというのですか? 悲しいことに、わたしはそれほどの天才ではありません。マルクス主義の古典にもないものをどうつくりだせるというのですか」 ある問題を固定不変のものとして絶対化し、それに自分を縛りつけようとする、そんな部類の見解と立場にわたしは同感することができなかった。 「 彼が沈黙を守っているのはじれったかったが、わたしの言葉に反駁しないのは好ましい兆だと思った。 わたしの説明を聞いた同志たちは、これですべてが明白になった、各階層の人民というカテゴリーには労働者と貧農、雇農以外の広範な勤労者大衆も包括されるのだから、彼らの利益を擁護する政府は統一戦線的な政府であるべきではないか、統一戦線的政権こそは反帝反封建民主主義革命の性格に適合した政権だ、そういう政権ならもろ手をあげて賛成だ、といって歓声をあげるのだった。わたしは彼らに、統一戦線的政府を樹立するとしても、労農同盟にもとづく統一戦線的人民革命政府を樹立すべきだと再三力説した。これが今日、歴史の本に人民革命政府路線と記されている政権建設路線である。 採決の結果は明白なので、説明するまでもないであろう。われわれが朝鮮人住民の多い東満州地方に適合した政権形態として人民革命政府を選択したのは、それが反帝反封建民主主義を目的とする朝鮮革命の性格に合い、人民の要求にもかなったもっとも理想的な形態であると考えたからである。われわれは政権形態の基準を人民の要求に求め、人民の利益をいかに擁護しりっぱに代弁するかに求めた。 こうして政権形態が人民革命政府に決まったのち、われわれはある一点にまずモデルをつくり、それがよいと認められれば他の革命組織にも一般化することに合意をみた。モデル・ケースとしては五区が選定された。わたしは汪清五区へ行き、 五区ソビエト政府の会長であった 「われわれはソビエト政府のかわりに新しい政府をうち立てることにしました。しかし、この政府はみなさんの意思にかなったものでなければなりません。どんな政府にするのがよいでしょうか」 わたしがこう問いかけると、一人の老人が立ちあがって、「みんなが気苦労をせずに暮らしていけるようにしてくれる政府さえ立ててくれれば、言うことはありません」と答えた。 わたしは、ソビエト政府に代わる政府として人民革命政府をうち立てるということ、そしてこの政府は世界政権史上はじめての真の人民の政府になるはずだということを感情をこめて宣言した。 「この政府は、祖国を愛し同胞を愛するすべての人の利益を代弁し擁護し、その宿望を実現させるでしょう。みなさんの宿望はなんでしょうか? 土地を持つこと、労働の権利を持つこと、子どもを教育すること、万民が平等に暮らすこと… 人民革命政府はそういう願いをすべてかなえるでしょう」 カヤホーの人民は人民革命政府路線についてのわたしの説明を聞いて、それをひとしく支持した。 われわれは人民革命政府の誕生を宣言する儀式に先立ち、ソビエト政府が没収した個人の財産をいっさい元の地主に返還した。没収した物の中には、破損したり消費してしまったものもあった。それを償うため、 この日の集会では、人民革命政府は真の人民の政権であるという内容のわたしの演説のあとで、10か条からなる政府政綱の内容が説明された。この政綱の内容は、後日、祖国光復会の十大綱領にほとんどそのまま反映された。 泗水坪村での印象のうちで、いまでもありありと思い浮かぶのは、県党書記 「みんな踊っているというのに、どうしたんだね」 「あの人たちはなぜ、わたしに唾をかけないのだろうか。汪清の人たちが極左病に苦しめられたのは、みんなわたしのせいではないか。だというのに、この村の人たちはきょうわたしに、礼をいうではないか。実際のところ、礼をいうなら金隊長にいわねばならないのに…」 「朝鮮人民は情に厚く度量のある人民なのだ。彼らが過去にこだわらず書記に感謝したのは人民革命政府路線を喜んで受け入れたことを意味するわけだ。これからはみんなで、明日のことだけを考えよう」 「わたしはこれまで自分の信念をもたず、ひとの言いなりになってきた。あなたはわたしに本当に貴い真理を悟らせてくれた。人民のために生きよう! 平凡なこの一言にどれほど深い意味がこめられていることか。わたしは一生この言葉を忘れはしない」 だが、彼はこの誓いを実践に移せずに終わった。東満特委が彼を県党書記の職責から解任する措置をとったのである。東満特委は、 五区に人民革命政府が樹立されてまもなく、わたしを訪ねてきた 「 この年の夏、路線転換問題を討議する重要な会議が開かれた。この会議には、路線転換にかんする文書を携えて東満州地方に来たコミンテルンの派遣員も参加した。 わたしはこの会議で、労農同盟にもとづく統一戦線的政府としての人民革命政府路線を提示し、政府の施政方針にかんする案を改めて明らかにした。その案には、土地改革をはじめ経済、教育、文化、保健医療、軍事などの各分野にわたって政府が遂行すべき民主的諸施策が明示されていた。われわれの案はコミンテルンの新しい路線とも合致するものであった。コミンテルンの派遣員は、われわれが提唱した人民革命政府路線を全面的に賛同した。深刻な論争と思想闘争の雰囲気の中で会期を延長してつづけられた会議では、われわれの提示した人民革命政府路線にもとづき、ソビエトを人民革命政府に改編し、遊撃区の全地域でソビエト路線の極左的偏向を正す闘争を展開するという決定を採択した。 この会議以後、東満州地方のすべてのソビエトは人民革命政府に改編された。条件のととのっていないところでは、過渡的形態として農民委員会を組織し、徐々に人民革命政府に改編することにした。私有財産撤廃の名目で没収し、遊撃区の人民が消費した財産にたいしては、人民革命政府が現金と現物で補償した。人民革命政府は人民が主人となって統轄する政府として、絶対多数の民衆には民主主義を実施し、敵には独裁を実施した。 カヤホーでの人民革命政府の樹立と路線転換会議を契機に、東満州各県の革命組織区には区人民革命政府が誕生し、村ごとに村人民革命政府が出現した。区人民革命政府には、会長、副会長、9〜11名の執行委員をおき、土地部、軍事部、経済部、食糧部、通信部、医療部などの部署をおいた。これが解放後に誕生した人民政権の萌芽であり、原型であった。 人民革命政府は農民に土地を無償で分与し、遊撃区内の全域で8時間労働制を実施した。当時、小汪清遊撃根拠地には一千余名の労働者がいた。彼らの大部分は伐採、筏流し、炭焼きなどの労働に従事していた。そのうちの五百余名は二区所在地の三次島で、あとの5百余名は 人民革命政府は遊撃区周辺の山林も管轄下において統制し、政府の承認なしには1本の樹木も伐採できなくした。この措置が効力を発揮しはじめると、大肚川にあった親和木材所の日本人所長と中国人の材木商は遊撃区にやってきて、伐採許可を得ようと交渉を求めてきた。その交渉があって以来、木材業者や材木商は樹木1本当たり1円の計算で、それに相当する被服、食糧、日用品などを遊撃区に納入して樹木を伐採していった。 人民革命政府は遊撃区の各集落に児童団学校をたてて無料教育を実施し、 遊撃区の文化は、朝鮮人民が数千年の先までうたえる数多くの名歌謡を生みだし、『血の海』『ある自衛団員の運命』へとつながる演劇芸術の開花期をもたらした。 不人情と収奪の代名詞となっていたソビエトという言葉は、古傷をうずかせる一つの小さな破片として残されるだけになった。極左的なソビエト施策の被害をこうむるまいと敵区へ行った人も、一人二人と遊撃区にもどってくるようになった。老人たちは腰にキセルを差して、なんの屈託もなく隣近所を訪ね合った。遊撃区は再び信頼し親しみ合い、ほがらかに笑いさざめく睦まじい大家庭になった。きびしい冬にうちかった汪清の谷間と尾根には、山河を美しく彩る無数の花のつぼみのほころびとともに、新しい生活が力強く胎動しはじめていた。その生活がいかに羨ましかったのか、柴司令部隊によって人質として小汪清に連れてこられたある地主の息子は、遊撃区から自分を追い払わないでほしいと哀願するほどだった。 |