大阪で小笠原美都子さんを偲ぶ会開催

―音楽をとおして日朝友好ひとすじに生きた生涯―

米寿を祝う会での小笠原美都子さん(2008年)

 金日成主席を心からしたい、日朝友好のために献身した歌手の小笠原美都子さんが、7月25日肺炎のため逝去されました。享年100歳でした。
 9月7日、アウィーナ大阪において小笠原美都子さんを偲ぶ会が実行委員会の主催で開かれました。
 小笠原美都子さんは、戦前戦後、歌手として活躍し、とくに60歳をすぎてからは歌をとおして日朝友好運動に力をそそぎました。金日成主席の接見をうけ、平壌で開催される四月の春親善芸術祭典には多くの音楽家を連れて訪朝しました。日朝音楽芸術交流会の会長として、音楽家の訪朝や訪朝報告会、チャリティコンサートの開催、朝鮮学校への支援などの活動をおこなってきました。
 2000年には朝鮮民主主義人民共和国(以下朝鮮)から親善勲章第一級が授与されました。
 偲ぶ会には、小笠原美都子さんのファン、歌手、日朝友好人士、訪朝者など140余名の幅広い人たちが集いました。
 偲ぶ会は、日朝友好市民連帯・大阪の長崎由美子共同代表の司会ですすめられました。
 第一部では、最初に主催者を代表して池辺幸惠・日朝音楽芸術交流会会長が、小笠原美都子さんの思いをうけ継ぎ日朝音楽芸術交流会の活動をいっそう発展させていきたいと挨拶しました。
 小笠原美都子さんを偲んで参加者全員で黙祷しました。
朝鮮芸術交流協会とチュチェ思想国際研究所の尾上健一事務局長から寄せられた メッセージが読み上げられました。

金日成主席へのかわらぬ思い

 夫永旭・在日本朝鮮人総聯合会大阪府本部委員長がつぎのように挨拶しました。
 1978年11月、小笠原先生は神戸敏子さんを団長とする朝鮮の自主的平和統一を支持する大阪婦人の会代表団の一員として平壌を訪れ、金日成主席の接見をうけました。
 小笠原先生は、この訪朝を契機に金日成主席の偉大さに魅了され日朝友好の道を歩みはじめます。
 金日成主席のまえでうたわれた「主席夜も更けました」は、主席へのかわらぬ思いをうたいあげたあまりにも有名な歌になりました。
 毎年4月になると金日成主席が「今年も美都子は来ているのか」と言われたという逸話をよく耳にしてきました。
 日本と朝鮮がきびしい関係にあるなかにおいても40年にわたり小笠原先生は一貫して日朝友好運動に邁進してこられました。
 また、このたびの訃報にふれて金正恩委員長の格別のはからいにより『労働新聞』に写真入りでありし日の先生をたたえる記事が掲載されました。
 いまもわたしたちと朝鮮人民は4月の春にうたわれた小笠原先生の歌声をけっして忘れることはありません。

 つづいて小笠原美都子先生を偲ぶコンサート第一部~代表曲メドレー~がおこなわれ、歌が披露されました。
 「十三夜」をかわたり京子さん、「皇国の星」を小野口有情さん、「アユチャの町」を北山一郎さん、「琵琶湖哀歌」を牧内正文さんと仁木佳代子さん、「ああ想い出の十三夜」を牧内正文さんがうたいました。
 髙瀨晴彦さんが小笠原美都子さんの歌手としての業績をつぎのように紹介しました。
 昭和クラシック会に所属していた300名も小笠原先生の情熱的な日朝音楽芸術交流会の活動に賛同し、何回かすばらしいコンサートやイベントをさせていただきました。
金日成主席に会わせるからとよく言っておられました。昭和クラシック会として、小笠原先生とお近づきになり、交流していただいたことはたいへんな幸せだと思っております。

四月の春親善芸術祭典曲がうたわれる

 第二部では、まず小笠原美都子さんが歌手として、そして、日朝音楽芸術交流会会長として活躍されていた姿が映像で紹介されました。
 つづいて、4月の春親善芸術祭典曲が披露されました。

 「主席夜も更けました」を康順愛さんが、藤本幸さんが「懐かしい故郷の家」をピアノ演奏しました。姜錫子さんが「イムジンガン」をうたいました。
 作詞家のもず昌平さんがつぎのように挨拶しました。
 歌や音楽は楽々と国境をこえられるのに、どうしてわれわれ人類はそういかないのかなということを深く感じております。
 歌謡曲であれクラシックであれ、歌と音楽の力で小笠原美都子さんの足跡をたどりながら国境をこえたいと思っております。
 みなさん、これからも歌は心の架け橋になると思います。何かの折に、手助けすることがあればわたくしの喜びとするところでございます。

小笠原先生の意志を継いで

 歌手の遠山洋子さんが小笠原美都子さんについてつぎのように話しました。
 平壌では2年に1回、4月の春親善芸術祭典を開催しています。この春の祭典は、1981年に小笠原先生が芸術団をひきいて訪朝した際に当時の文化庁にいらっしゃった張徹先生にお会いしてからはじまったとうかがっております。
当時、64歳の小笠原美都子先生が金日成主席のまえでとてもすばらしい歌声を披露されました。先生はいまからでもおそくはない、音楽をとおして真に生きがいのある人生をおくりたいという気持ちで「朝鮮の星」をうたわれました。
 金日成主席が逝去されたあとも、小笠原先生はずっと主席のために、そして朝鮮人民のために、もちろん日本のみなさんのために、心をこめて歌をうたいつづけました。
 小笠原美都子先生が生涯、愛してやまなかったように、わたしも、言葉にあらわせない思いをいだいて、小笠原先生のように歌もうたえる活動家になろうと思ってがんばっていますが、なかなか小笠原先生の足元にもおよびません。でも本日こうして小笠原先生のために集まってくださったみなさん、そして日朝音楽芸術交流会会長の池辺幸惠先生、みなさんの声や行動があればすばらしい活動ができるのではないかと思います。
 つぎに池辺幸惠・日朝音楽芸術交流会会長が、「平壌慕情」と「平壌賛歌」をピアノで弾き語り、「アリラン変奏曲」をピアノ演奏しました。

音楽は国境をこえて

 閉会の挨拶を日朝音楽芸術交流会理事の松尾明子さんがつぎのように話しました。
小笠原美都子先生とは40年前に中国関西音楽団の一員として中国を訪問した際にはじめてお会いしました。
 1980年に日朝音楽芸術交流会を発足いたしました。そして15年たって平壌から芸術家を呼ぼうということになり、大阪・平壌親善国際芸術音楽会を開催しました。
 先生は、音楽は国境をこえるのだからもっと音楽をとおしてアジア諸国との友好親善を目標にしよう、とわたしの眼をむけさせてくれました。
本日は先生がおっしゃっていた、みなさんの歌にかこまれて逝きたいという思いが実現し、ほんとうにすばらしい素敵な一生を終えられたと思っています。

 最後に、参加者全員で「アリラン」をうたい、幕を閉じました。