―わたしたちは40年ほどまえからチュチェ思想の研究普及活動をおこなってきています。もちろん日朝友好をすすめていくということもありますが、日本の社会をよくしていくうえではチュチェ思想が重要だと思いチュチェ思想研究普及活動をつづけています。
まずスカルノ・インドネシア大統領は
1965年4月13日にインドネシアでバンドン会議10周年記念行事が開催されたとき、
わたくしは、
わたくしは40年間インドネシアやフランスのパリ、ニューヨークなど外国に住んでいましたが、2000年に日本に戻ってきました。その間もふくめ、スカルノ大統領と
わたくしは朝鮮労働党の招待で2003年に初めて訪朝しました。そのときは朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議議長常任委員会のキムヨンナム委員長を表敬訪問しました。以来、朝鮮の方々と親しくおつきあいさせていただいています。2005年に訪朝したときは、スカルノ大統領の長女であるメガワティ・スカルノ・プトゥリ大統領(当時)も朝鮮を訪問されていました。そのときわたくしはメガワティ大統領とともに、
わたくしはスカルノ元大統領夫人ですので、朝鮮とインドネシアの交流活動の一端として、
わたくしは2003年に最初の訪朝をしたときから、毎年のように訪朝し、すでに7回を数えています。
インドネシアと朝鮮はたいへん友好的な関係にあります。朝鮮にはメガワティ大統領を始め、妹のラッハマワティ・スカルノ大学総長、弟のグル・スカルノ国会議員も行っています。
毎年1回、4月13日にピョンヤンで
朝鮮の姿に感動した若者たち
―先生は2010年4月に青年たちといっしょに訪朝されましたが、そのことについてお聞かせください。
日本の人たちが、マスメディアの影響をうけて朝鮮のことについて誤解した見解、印象をもっていることは、ほんとうに悲しいことです。
2010年4月、
彼らたちのなかにはイヤリングをつけた男性や金髪に染めた女性もいましたので、資本主義社会の廃退した文化の申し子のようにとられ、朝鮮の方が快くうけいれてくれないのではないかと心配していましたが、すぐに杞憂であることがわかりました。
彼らたちもピョンヤンの街に1歩ふみだすと、「マスコミが言っているのと全然ちがう」と驚いていました。わたくしがうれしく思ったのは、わが目で見、わが耳で聞き、自分たちの手や心でえた感触やふれあいで、真実の朝鮮をつかんでくれたことです。
この若者たちは、最初「抗日」という言葉すら知りませんでした。朝鮮の先生方や参観地での案内の女性が説明されるなかで、繰り返し「抗日戦」「抗日運動」といった言葉を耳にしても、最初は何のことかわかりませんでした。彼らたちは、日本の学校ではけっして教わることのなかった、かつて日本人が朝鮮の人々におこなった残虐な行為を朝鮮で知ることになりました。また日本の植民地支配に反対してたたかった朝鮮人民の抗日運動があった事実に驚くととともに、それを素直にうけとめていました。
ピョンヤンの本屋さんで『消えない日本の犯罪』という英語版のDVDを買い、滞在中の夜にわたくしの部屋にみんなが集まって鑑賞しました。そのビデオには日本がいかにして朝鮮半島を攻めいろいろな策謀を屈指して王国をのっとったかが描かれており、彼らたちは初めて知る事実に愕然としていました。その夜、わたくしたちは遅くまで話し合いをしましたが、みんな「このままではいけない。なんとかしなくてはいけない」という気持ちになっていました。
若者たちが朝鮮で見たこと、聞いたこと、経験したことを、10人の人に伝え、またその10人がさらに10人の人に伝えていけば、だんだんと大きな輪が日本に広がっていくことでしょう。このような地道な努力によって朝鮮と日本の歴史を理解する方がどんどん増えていけばと思います。
日本のマスメディアは、朝鮮の人たちが朝鮮の政府によってブレインウォッシュ(洗脳)されていると言いますが、日本の政府こそ人々をブレインウォッシュしています。朝鮮に行ったこともなく、何も知らないのに、毎日洪水のごとく流されるマスメディアの誹謗中傷の報道によって、ほとんど日本の人たちは朝鮮にたいしてたいへん悪いイメージをもつようになっています。
彼らたちは日本のマスメディアの言っていることと、実際に自分の目で見たことはまったく異なると驚いていました。
このとき訪朝した若者は、
今年4月、
いつも人民のことを考える指導者
―いまキムジョンウン同志が最高司令官に就任され、
最初、
日本のマスメディアの報道はひどすぎます。あのように毎日さわぐこと自体、逆に
―朝鮮では指導者と民衆が一つになっていると思います。先生はこのような社会について、どのようにお考えでしょうか。
朝鮮においては指導者が人々から心より尊敬され、敬慕され、親しまれています。そんな政治家は日本にはいません。だから朝鮮のことが信じられずウソにしか見えないのです。
わたくしはインドネシアでスカルノ大統領が、どんなに人々に崇拝・尊敬され、どんなに敬慕されていたかみてきました。スカルノ大統領の葬儀のときは何百万人という人が街や道路にあふれ、スカルノ大統領の霊柩車を1目見ようと電信柱に登る人もいました。
わたくしは拉致問題を含め、日本と朝鮮のあいだのさまざまな懸案を解決するためには、日本と朝鮮の人々が許しあい、友好関係をきずき、国交を正常化することがいちばんの近道だと思っています。多くの日本と朝鮮の人が自由に行き来し、政治、経済、文化などいろいろな側面で交流をおこなえば理解しあえるし真実がわかります。
日朝関係を改善しなければならない
―インドネシアと朝鮮は友好関係をきずいていますが、日本は朝鮮と友好関係をきずこうとしません。このことについてどのようにお考えでしょうか。
日本と朝鮮はもっとも近い国であり、また歴史的にも文化的にも近い関係にあるにもかかわらず、いまは国交もなく行き来もとだえています。このような非正常な関係を改善しなければならないと思い、わたくしは活動しています。
2002年9月17日、小泉純一郎首相が朝鮮を訪問して、
昨年12月17日、
わたくしは、拉致問題が未解決だという口実で日朝ピョンヤン宣言を履行せず、国交正常化をしないということはまちがっていると思います。
かつて日本は朝鮮半島から何百万人にものぼる朝鮮の人たちを強制連行して、日本中の炭鉱やトンネル工事など土木現場の労働力として使い、日本兵を守るために前線に徴兵した朝鮮の人たちを送りこみました。朝鮮の人たちは、朝鮮人としての名前をとりあげられ、日本名に無理やりかえさせられた日とたちもいます。それにより、誰がどこでどのように亡くなったかという記録すらない状況が生まれたのです。日本政府は、そのような事実には完全に目をつぶっています。
日本の人たちにこのような歴史の事実を説明すれば、一方的に朝鮮を非難することができなくなります。
もちろん拉致はあってはいけないことです。わたくしは拉致を奨励しているわけでもないし、拉致を正当化するわけでもありません。
しかし日朝ピョンヤン宣言がなされたときに拉致問題は基本的に解決されているはずなのです。日本の一部の政治家は解決されていないとし、拉致問題を政治的に利用し、この問題をとりあげることを通じて売名行為をおこなっている人もいるのです。マスメディアも朝鮮を悪く書けば本が売れるので誹謗する記事を書きたてています。
このように日朝国交正常化をはばんでいる人たちがいるのにたいして、朝鮮を正しく知らせ理解を深める努力をしながら、日本と朝鮮の国交正常化をすすめていかなければならないと思います。
わたくしは高校無償化から朝鮮高校を除外していることは問題だと思っております。在日朝鮮人にも、日本人と同じように課税し税金を納めさせています。しかし高校無償化は除外する。これはすごく不公平なことです。
日本国憲法は思想の自由を保障しています。朝鮮学校の人たちが祖国の伝統や文化、思想を学ぶことは保障されるべきです。
そもそもどうして在日朝鮮人が何十万もこんにちにいたるまで日本に暮らしているのか、考える必要があります。日本人が強制して連れてきたのです。そうしたことを考えもせず、マスメディアは何も真実を書こうとしない。ほんとうにおかしいことです。朝鮮総聯が何か発表しても、まったく無視してテレビでも放映せず新聞なども載せません。それどころか朝鮮を誹謗中傷する報道をマスメディアは流しつづけて、日本人をブレインウォッシュしているのです。
「為せば成る。為さねば成らぬ何事も」
日本の政治家やマスメディアはひどいと思います。日本はいつか首相を国民直接総選挙で選べるような時代がこなければいけないと思います。
いま日本は少子化問題をかかえています。日本の人口が減少し、日本の文化、伝統を継承していく人もいなくなっていくかもしれません。日本人としての気概や威厳もなくなってきつつあります。わたくしはあまり日本に期待できなくなっています。
若い人たちに期待したいと思います。いまツィッターなどインターネットを使った情報発信の方法もありますので、日本のマスメディアがとりあつかわなくても、ネット、ツィッターを使って正しい情報をどんどん流せばよいのではないでしょうか。
わたくしは『デヴィ・スカルノ回想記』(草思社)のあとがきに、
「私は、人の3倍 勉強して
人の3倍 働いて
人の3倍 努力して
睡眠は人の3分の1で来ました。そして今でもそうです」
と書きました。
人間は一生のうち何回もチャンスが与えられると思います。チャンスが与えられたら、それをつかむ。つかんだら自分のすべての能力と時間をつぎこんで、英知を発揮し努力して成功を維持しなければなりません。
わたくしの座右の銘は、「為せば成る。為さねば成らぬ何事も」です。
実際に行動をおこしていけば、インポッシブル(不可能)なこともポッシブル(可能)になるということです。できないのは能力がないからではなく、やるまえに不可能だと言って、何もしないからなのです。わたくしは「為せば成る」という思いで、これからも生きていきたいと思います。
日本と朝鮮の関係をよくするために、自分の行動で少しでもかえていけたらと思います。
(編集部でインタビュー)
〈デヴィ夫人のプロフィール〉
本名 ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ
東京都麻布で生まれる。国際文化人。
インドネシア・スカルノ元大統領夫人であり、政変後1970年パリに亡命。社交界で「東洋の真珠」とうたわれる。
1990年にニューヨークに移住、国連環境計画の特別顧問として活躍。
現在は活動拠点を日本におき、「デヴィ夫人」の愛称で親しまれている。
また国際的な基盤を生かして、NPOアースエイド・ソサエティを発足。地球規模で慈善活動をおこなっている。
また