人間愛にあふれた主席との出会い  
 朝鮮女性と連帯する日本婦人連絡会代表 清水澄子
 

-日朝ピョンヤン宣言9周年記念シンポジウム「激動の2012年 日朝関係打開への道」で主催者を代表して挨拶する(2011年9月3日)

 わたしはこれまで長いあいだ、日朝友好運動に一貫してとりくんできました。日朝関係の運動をしていると日本の政治がみえてきます。朝鮮のことがわかる以上に日本のことがわかります。
 わたしは、いろいろな代表団で何度も訪朝していますが、
キムイルソン主席と直接お話ができたのは、1972年、最初に女性活動家代表団で訪朝したときと、1992年ピョンヤンでおこなわれた「アジアの平和と女性の役割シンポジウム」に参加するために訪朝したときの2度です。
 1972年に南北共同声明が発表された当時、日本婦人会議議長で参議院議員であった田中寿美子先生に、朝鮮から女性活動家代表団を迎えたいという招待状が届きました。わたしたちは、ソ連や中国など他の社会主義国については訪問し交流もしていたのでその国柄を多少知っていましたが、朝鮮についてはまったく白紙でイメージすらありませんでした。それで、評論家の藤島宇内さんを呼んで日朝関係の歴史的な勉強をしたり、当時の
 社会党の成田知巳さんや飛鳥田一雄さんたちが発表した日朝共同声明等を読んだりしました。
 
女性解放をすすめるキムイルソン主席
 
 1972年10月にわたしは田中寿美子参議院議員を団長とする女性活動家代表団の一員として初めて訪朝しました。わたしたちは女性代表団でしたので、朝鮮側も朝鮮民主女性同盟の方たちが対応してくださり、滞在中いろいろなお話をうかがうことができました。
 わたしたちは朝鮮における女性解放について関心があったので、朝鮮の女性解放政策や方針などを知りたいという要望をだしました。
 各地を参観し説明をうけるうちに、朝鮮ではあらゆる部署に女性の幹部がおり女性たちが国の柱となって働いており社会進出がすすんでいる、しかもこの国の女性解放は国の政策によってなされており、そのすべてにキムイルソン主席の指導がつらぬかれていることがわかりました。ですからわたしたちは、そのような指導をされている主席に直接お会いして、ぜひお話をうかがい、どのような方なのか知りたいという気持ちがつのってきて、毎日担当の方に帰国するまでに主席にお会いしたいとお願いをしていました。
 すると10月23日、幸いなことにキムイルソン主席とお会いすることができるようになり、外務省からの出迎えの車で主席が待っていらっしゃる建物にむかいました。
 エレベーターであがり、とびらが開くと、そこには主席が立っておられました。主席は、わたしたちをわざわざ出迎え、1人ひとりに握手され、「よくいらしてくれました」と声をかけてくださいました。
 主席との会見の冒頭、田中寿美子先生が「朝鮮にきて各地を参観して、女性解放の政策がりっぱにおこなわれていることにひじょうに驚きました」と感想を述べました。
 すると主席はメモ一つ見ることもなく、一時間ほど朝鮮における女性解放の状況と抱負を一気に話され、わたしたちはとても感激しました。
 キムイルソン主席はつぎのようなお話をされました。
 “わが国にはすばらしい女性が多くいます。しかしまだわが国の女性解放はすすんでいません。男性の意識がかわらないからです。女性解放の第一の課題は男性の意識をかえることです”
 その言葉を聞いたわたしたち女性はみな驚きました。そのような言葉を日本の男性から聞いたことがなかったからです。まだ72年当時は、女性解放のために男性の意識がかわらなければならないということを言う人はいませんでした。
 一国の指導者が、女性解放のためには男性の意識をかえなければならない、それが第一の課題だといわれたことは、わたしたちにとって忘れられないことになりました。
 
家事労働の負担からの解放
 
 主席は、さらにつづけてお話しされました。
 “わたしは朝、車に乗って朝鮮労働党本部に行きます。車の中から市内の通勤の様子を見ると、男性は手ぶらで歩いているのに、女性は子どもをおぶって、片手に子どものおむつや着替え、もう一つの手にはごはんを入れる入れ物を持っています。女性の荷物一つでも持とうという気持ちがないのが、いまの朝鮮の男性です。家庭の中でも男性は女性に協力していません”
 当時は、日本の男性もまったく同じでしたから、このようなお話をされる指導者がいることに強い衝撃をうけました。
 つづいてキムイルソン主席は、どのようにして女性解放をなしとげるかというお話をされました。
 “朝鮮では資本主義社会の搾取や抑圧からは女性を解放することができましたが、まだ家事と育児の重い負担から解放することはできていません。当面は家事と育児から女性を解放しなければなりません。新しい世代である子どもを育てるのは国の責任です。すべての地域で早急に託児所を建設する予定です。この課題は2、3年後に達成するので、ぜひまた見に来てください”
 また主席は、女性が朝鮮の社会主義建設において果たしている役割について述べられました。
 “協同農場で働く女性をはじめ、女性たちは各職場、各部署ですばらしい活動家、働き手として活躍しています。女性たちは仕事をまじめにていねいに、一生懸命おこない損失が少ないといえます。
 しかし女性は昼間男性と同じく働きながら、家に帰ると、頭に「かめ」をのせて水をくみ食事をつくらなければならず、そのような家事の重い労働から女性を解放しなければ、女性が社会主義建設のために自分の能力をいかすことができません”
 家事から解放するための具体的施策の一つは、ごはん工場で食事をつくり各家庭に供給するということです。住宅地の一角にあるごはん工場では、ごはんを炊いて、24種類のおかずと7種類のスープとキムチをつくっています。あらかじめ注文しておいて、入れ物やお皿をもっていけばすぐに持ち帰って食べられるということです。朝、女性が片手にもっている入れ物は、ごはん工場で炊きたてのごはんを持ち帰るためなのです。
 当時は「3大技術革命」がおしすすめられているときでした。重労働と軽労働の差、工業労働と農業労働の差をなくすこと、女性を家事労働の重い負担から解放するということがスローガンとしてうちだされ、街のいたるところにかかげてありました。わたしたちは、3大技術革命という国の基本方針の中に、女性を家事と育児の重い負担から解放することが提起されていることに驚きを禁じえませんでした。
 キムイルソン主席は、自宅に帰って15分ほどで食事の準備ができるようにしたいと言われていました。そのようなところまで考えをめぐらせ、実現しようとしている指導者が他にいるでしょうか。フランスの技術者を呼んで、少し手をくわえればすぐに食べられるような半加工の食品工場をつくることも考えているとのことでした。さらに技術革新をすすめて、早く料理をあたためたり、お湯をわかしたりできる電気製品をつくりたいと言われていました。
 協同農場などの職場では、そこで働く人たちが食堂で1日1食は食べられるようにするということでした。朝は自宅で食事をし、昼は職場の食堂で食事をとり、夜はごはん工場でつくったもので食事づくりの時間を短くするのです。
 このような考え方からもわかるように、女性を家事の重い負担から解放する課題が、朝鮮の社会主義建設にとって重要な政策の柱となっていました。
 一般的には、社会主義建設というとインフラ建設について考えるかもしれませんが、キムイルソン主席は、人間を中心にした女性解放とつぎの世代を育てるということを重視しておられました。教育や福祉、医療についてあとまわしにし、お金もうけを追求する資本主義国の考え方とはまったく異なります。さらに女性の能力を活かすことに力点をおき、それを実現するための政策をおこなってきました。このことは女性を幸せにしたいという愛情の表現でもあると思います。
 
チュチェ思想は実践の哲学
 
 人間中心の思想といわれるチュチェ思想は、人間愛や民族への愛、祖国への愛など、愛情を革命の中心的なものとしてとらえています。
 チュチェ思想について理論的な解説を聞かなくても、朝鮮社会の中でチュチェ思想を具現している政策について主席が情熱的に語られるのを聞くと、素直にチュチェ思想をうけとめられるようになりました。
 主席のお話を聞くと、主席の人柄と革命思想が一体となって感じられます。主席は、チュチェ思想を思想理論として創始されただけではなく、それを現実の国づくりの柱にすえて、具体的な政策として実践しておられる、まさに革命的指導者でした。
 主席はまた、「女性の革命化」がいかに重要かというお話をされました。新しい世代である子どもを育成し、夫の思想を革命化し、家庭を革命化するうえで、女性に大きな期待をよせられていました。
 キムイルソン主席は、朝鮮革命の主体に女性を位置づけて、社会変革の役割を女性が担うように導いておられました。
 朝鮮の女性たちが、主席とお会いするとみんな涙を流して抱きついていく光景をよく目にします。主席にお会いする前は、なぜそこまでするのだろうかとよく理解できませんでした。
 しかし、主席に1度お目にかかっただけで、人々にたいする愛にあふれ本当に父親と話しているような気持ちになりました。朝鮮においては、革命の中で愛が思想化され理論化され政策化されています。主席が愛を実践されるため、朝鮮人民が主席のことを心から慕うのだと思います。とくに女性たちが主席を慕い感激するというのは、とてもよくわかる感情だと思っています。
 ですから主席とお会いした方は、どこの国の人たちも主席の人柄に魅了されます。
 主席は一人ひとりを尊重されます。人を大切にする思想を身につけておられる方だと思います。主席は地位の高い低いに関係なく、世界の誰にでも会われます。それは、不正義とたたかう共通の志をもってたたかっている者への愛だと思います。
 主席との会見は10分ぐらいだと思っていましたが、主席は一時間近く女性の解放についてつぎからつぎへとお話されました。そしてお話が終わったとき“ずいぶん長くお話ししました。疲れませんでしたか。何か質問がありますか”と言われました。
 こうしたとき質問をしたほうがよいのか、しないほうがよいのか、よく迷うことがあります。そのときわたしは、何が礼儀かを考える間もなく、すぐに手をあげ、「主席が創始されたチュチェ思想は生産の現場ではどのようにいかされているのでしょうか。具体的な例がありましたらお聞きしたいと思います」と質問したのです。
 主席は少し考えておられましたが、いっしょにいた方が主席に時間がない旨を告げました。一時間も話をされましたし、わたしたちは感謝の言葉を述べて宿所であるモランボン迎賓館に帰っていきました。
 わたしたちは1日の日程を終え、みちたりた気持ちで夕食をしていました。主席のような指導者は日本にも世界にもいない、主席と握手した手は洗わないで寝ようなどとみんな青春時代にもどったように感情を高ぶらせていました。
 そのとき主席から迎賓館に電話がはいりました。“いま、労働党中央委員会委員たちといっしょに演劇を観ているところですが、この演劇の内容がきょう日本の女性からうけた質問への答えになるかもしれないと思ったので、2幕目にはいるところですがとめています。もし観られるようでしたらいらしてください”と言われました。
 わたしたちは、「行きます」とすぐにお返事をしました。会場へ行こうとしましたが、1日のスケジュールがすべて終わっていたため、車が全部帰ってしまったあとで迎賓館には車がありませんでした。主席はすぐに人民軍のジープを手配され無事会場に行くことができました。そのときも主席はエレベータの前で待ってくださっていて、わたしたちはふたたび驚き感動したのでした。
 わたしたちは主席と並んで「恩恵の太陽の中で」という演劇を一幕目から鑑賞しました。その演劇は、地方の演劇サークルが演出したもので、寒冷地でお米のとれない貧しい農村の協同農場での実話です。
 その地域はとうがらししかできないと昔からいわれていたところでした。主人公である協同農場管理委員長の女性は、なんとかして米をつくって人民に供給したい、主席の人民にたいする思いを実現するために貢献したいという願いをもっていました。しかし一生懸命研究しても水が冷たく米が実らないことがつづきました。協同農場の人たちは“米をつくろうとしてもだめだ。ここは昔からとうがらししかとれない。無謀なことだ”といって誰も相手にしなくなり、なかには他の協同農場に移っていく人もいました。
 管理委員長は温度計を片手に、どうにかして米をつくろうとします。米をつくるためには冷たい水を常温にしなければならず、失敗をかさねながらも研究をつづけました。その結果、水路を蛇行させて、太陽熱で長い時間をかけてあたためながら田んぼに水を引くようにしました。そしてついに彼女は寒冷地で米をつくることに成功しました。収穫された米を納め、喜びが最高になります。
 離れていった仲間たちもいたが、管理委員長は自分の知恵と努力で試行錯誤しながら最後にりっぱに志をなしとげたというお話でした。
 わたしはそれを観たとき「これがチュチェだ」と思いました。チュチェというのは、人間の意識をかえていき自分自身に自信をもち、信念をもって実践をする哲学だとうけとめました。
 主席のわたしたちへの配慮や演劇の内容から、チュチェ思想は机上の学問ではなく実践することを教える哲学だとわかりました。そしてわたし自身の哲学としてチュチェ思想をうけとめたのです。
 チュチェ思想はまさに生きた哲学でした。主席は日本の無名の女性活動家が、生産現場でどのようにチュチェ思想が実践されているのかと質問したひと言を心の中にとどめ、理屈ではなく演劇で回答されたのでした。革命的指導者というのは主席のような人のことだと深く感激しました。
 チュチェ思想は、キムイルソン主席が抗日武装闘争と社会主義建設の中で実践的につくりあげた実践哲学だと思います。
 主席は、わたしたちがどうすればチュチェ思想を理解できるかと心をくだき、回答を求めている者にたいしてこまやかな心づかいをしてくださったと思います。チュチェ思想は朝鮮を解放し社会主義建設をすすめるたたかいの中でつちかわれてきた思想であり、朝鮮革命をなしとげた原動力です。またこのような主席だからこそ、人民は心から尊敬の念をいだき、主席とともに祖国を解放し分断を終わらせ、朝鮮革命をなしとげたいという強い志と主席と祖国への忠誠心がつくりあげられていったのだと思います。
 いままでさまざまな革命家の本を読んだり、中国などの指導者とはお会いしたりしたこともありますが、主席のように人間へのあたたかい愛情をもち、こまやかな配慮をされる方にはお会いしたことがありません。
 キムイルソン主席は、具体的に実践で女性が社会の主人となっている姿、解放されている姿を見せてくださいました。いま世界ですすめられている性別役割の撤廃・共同参画、ジェンダー平等という社会変革の内容についてまだ誰も発言していなかった1972年の時点で主席はお話され、また具体的な姿で見せてくださいました。
 キムイルソン主席と会えば、誰もがその人間性に魅了され、その指導性に感嘆するとわたしは確信をもつようになりました。
 演劇の終わったあと、控え室に移り主席から“どうでしたか”と感想を聞かれました。そこにいま公演を終えたばかりの演劇サークルの人たちが入ってきました。主席はすぐに立ち上がって“いい演劇だったよ”とねぎらいの言葉をかけました。みんな泣きながら主席に抱きついていきました。主席は1人ひとりの肩をだき背をなでながら“よかったよ、よかったよ”と声をかけられました。わたしたちはその光景を見て思わず涙がでてしまいました。
 「指導者と人民との関係」、ここに言葉はいらない。そこには指導者と人民が一つの心で結ばれ大きな愛につつまれている姿がありました。主席の大きな人間性、包容力が感じられました。1人ずつ背中をなでながらねぎらう主席、その主席に安心して身をゆだねる人民。本当に自然な姿でした。
 わたしは、この主席の人民への愛情、指導性と革命性を世界の人たちと結びつけられたらどんなにすばらしいことだろうかと思いました。
 キムイルソン主席は、世界の指導者として世界の人々から尊敬され慕われています。2012年4月15日には世界の人々は主席の生誕100周年を心から祝賀し主席の業績に熱い思いを抱くことでしょう。
 
主席への手紙が届き
 女性のシンポジウムが実現する

 
 2回目にキムイルソン主席とお会いしたのは、日本と朝鮮と韓国の女性が連帯して「アジアの平和と女性の役割シンポジウム」を1992年9月にピョンヤンで開催したときです。
 「アジアの平和と女性の役割シンポジウム」は1991年5月に日本でおこない、同年11月にはソウルでおこないました。シンポジウム開催へいたる過程は夢のようでした。
 韓国は戦後、朴正煕政権、全斗煥政権と独裁政権がつづきました。1980年には民主化を求める民衆を武力で弾圧し8000人もの人たちが殺されるという光州事件がおこりました。80年代に高まった韓国民衆の民主化要求におされ全斗煥政権は退陣し、1987年に大統領選挙がおこなわれ、翌年、盧泰愚政権となりました。
 そのような時期に、李愚貞(初代韓国女性団体連合会会長)さんが、原水爆禁止世界大会に韓国から初めて参加しました。わたしのように訪朝したことのある者と韓国の民主化闘争をおこなっている活動家が接触するならば、かつてはたいへんな弾圧をうけました。わたしたちも、相手に迷惑をかけてはいけないと思って交流することをあえてさけていました。
 わたしは初めて韓国の女性が原水禁大会に来られたので、どうしても会いたくなり滞在しているホテルに電話をかけて連絡をとりました。李愚貞さんは、「清水澄子さんですか。知っていますよ。お会いしたいです」と言われました。「でも、わたしと会ったら韓国に帰ったとき逮捕されるかもしれません」と言うと、「いいですよ。わたしは今まで何度も投獄されています。逮捕されても別にどうということはありません。ぜひ来てください」と言われるので、わたしはホテルを訪ねました。
 わたしは、民主化闘争については文献では読んでいましたが、韓国の女性たちがどのようなたたかいをしてきたのか直接聞きたいと思っていました。ところがこちらが質問するより先に李愚貞さんから「清水先生、あなたは共和国に何度も行っているでしょう。キムイルソン主席はどのような指導者ですか。共和国はどのような国ですか。人々はどのような生活をしているのですか」とつぎつぎと質問攻めにあいました。夜おそかったので帰らないといけませんので、共和国を訪問した報告書『わたしたちが見た朝鮮』を4~5冊お渡しし読んでもらうようにしました。彼女は植民地時代を生きた方ですから日本語がわかります。
 彼女は5日間ほど滞在されるということでしたが、その本を一晩で読んで翌日返してこられました。共和国についての本を持っていたらKCIA(韓国中央情報部)につかまる口実を与え危険なので、徹夜で読み頭の中にすべて入れました、と言われました。
 
不可能を可能にするために
 
 李愚貞さんは、「あなたに頼みたいことがある」と言われました。わたしは、こんなところで話をしていると誰が聞いているかわからないので、「長崎で会いましょう」と提案しました。原水禁大会は東京から広島、長崎へと行事が移行していきます。長崎では夜、船で米軍の軍港を見ます。「船のうえで会えば安全です。船には原水禁大会に参加した者しか乗らないので、デッキがあるので話しましょう」と約束して別れたのです。
 そして、わたしたちは長崎に行き、真っ暗な船のデッキで2人並んで話をしました。わたしが改めて「何の話ですか」と聞くと、「清水先生にお願いしたいことがあります。わたしたちを北の同胞と会わせてください」と言うのです。わたしは、「共和国に自由に電話して日本に来てくださいと言える関係ではありません。日本と共和国は国交がなく、敵対関係にあります。共和国は簡単に自国の人が韓国の人と日本で会うことを許可しないでしょう。それは南北朝鮮のいまの状況からみても危険なことです」と答えました。「そんなに会いたい人は誰ですか」と聞くと、「呂燕9さんです」という答えが返ってきました。
 呂燕9さんは、李承晩政権が成立する直前に暗殺された朝鮮建国準備委員会の民族独立運動家、呂運亨の娘さんです。
 呂運亨は朝鮮が日本から解放されたあと、キムイルソン主席と会って、朝鮮の統一した政権を樹立するために努力していましたが、彼は米軍政府の南北朝鮮の分断固定化への策動により、暗殺の危機を察知し、3人の子どもを北に送り、キムイルソン主席に託したのです。
 呂燕9さんは主席の養女としてうけいれられ、主席の配慮の中で育ち、モスクワ大学を卒業した後、外交部門の仕事をしていました。当時、呂燕9さんは最高人民会議副議長をしており、そのような人をわたしが日本に迎える力はなくむずかしいと説明しましたが、わかってもらえませんでした。
 「清水先生ならできる」と言われ、わたしも何もせずにできないというのも情けないと思ったので、「努力してみます。しかし、不可能と思ってください」と念をおしました。
 3者が会うためには、さまざまな難関を克服しなければなりません。共和国にどのように伝えられるのか、韓国政府が日本に代表を派遣するのを許可するのか、日本政府が南北朝鮮の代表が入国するのをうけいれるのか、といったことでした。日本政府と韓国政府という大きな政治権力が手を結んでおり、その背後にはアメリカがいます。日本が共和国にたいして敵視政策をしている中で、どのようにしてそれらの課題を克服し出会いを実現できるのか、まったく見通しは立ちませんでしたが、やってみるしかありませんでした。
 李愚貞さんが、「わたしたちは祖国分断以来、一度もわが祖国、共和国のことを知る機会がありませんでした。世界中のどこの国についても知ることができますし、行くこともできます。しかしわが祖国、共和国のことだけは何もわかりません」と言われたとき、わたしはできないと言う言葉をだせませんでした。朝鮮分断の原因は日本にあり、日本は戦後ずっと共和国を敵視しています。
 3者の女性が出会う場として何かの集まりを合同で開催できるようになれば、これほどすばらしいことはありません。しかし集まりの名前一つをつけるにしても、日本と共和国、韓国に関係する言葉がはいると開催がむずかしくなります。
 船のうえでどのような名称にしようかと相談したときに、李愚貞さんが、「アジアの平和と女性の役割シンポジウム」という名称を提案しました。この名称だと確かにわたしたちの目的はわかりません。
 わたしは韓国の民主化闘争をたたかっている人たちが、これほど共和国の同胞と会いたがっていること、朝鮮の統一を望んでいることを知り、本当に身につまされました。
 わたしは信頼のおける日本婦人会議事務局のメンバーに3者合同の集まりを実現させたいと相談をもちかけました。みんなは「そんなことできるわけがない」と言って頭をかかえこんでしまいました。
 まずおこなわなければならないことは、共和国から代表を派遣してもらうことです。共和国が代表派遣を許さないことにはシンポジウムの実現はできないことです。いろいろと考えたあげく、キムイルソン主席にお願いするしかないという結論に達しました。
 当時は朝鮮労働党代表団や社会科学者協会代表団、農業代表団などがよく来日されていましたから、代表団が宿泊しているホテルを訪ねてキムイルソン主席に手紙を届けてもらうという方法を考えました。その手紙には、韓国の李愚貞という女性から呂燕9さんに会いたいと要望された、むずかしいこととは思うけれども命がけで民主化闘争をたたかい、祖国統一をめざす志をもった人たちの願いを何とか実現させたい、呂燕9さんを日本に派遣していただきたい、その願いが実現するならば、つぎは韓国の女性たちを日本に迎えるために準備します。ぜひ主席のご尽力をお願いしたい、と書きました。代表団が来日するたびに主席に渡してくださいと言って手紙を託しました。簡単に手紙が届くとも思っていませんでしたが、何も反応がありませんでした。
 7、8回手紙を渡したあとでしょうか。代表を送るという返事がきて驚き感激しました。
 呂燕9さんが成田空港に着かれたとき、わたしは迎えに行きました。そのときに呂燕9さんは、「わたしは日本には来るつもりはありませんでした。日本の地にはわが同胞の血がにじんでいます。いまだ何も問題が解決していないのに、なぜわたしが日本に来なければならないのか、とてもいやでした」と言われました。
 わたしは、わたしたちのした努力よりも、朝鮮の人たちの日本に反対する気持ちの深さを考え、本当に心が痛みました。呂燕9さんはとくに父親が殺されており、日本の植民地時代の支配を知っています。
 そして、「キムイルソン主席が、ぜひ行ってらっしゃいと言われたので来ました」とあいさつされました。その言葉から主席に手紙が届いたことがわかりました。
 
女性の力はすばらしい
 
 呂燕九さんが来日されることが確実になり、すぐにシンポジウムをいつどこで開催するかを決める必要がでてきました。シンポジウムの開催を成功させるために考えついたのが、3木武夫元首相夫人の三木睦子さんに協力してもらうことでした。
 わたしは、三木睦子さんとはまったく面識はありませんでしたが、協力してもらわなければとても南北朝鮮の女性をいっしょに招いてシンポジウムを開催することは不可能だと思いました。
 当時、3木武夫元首相のいちばん弟子である海部俊樹氏が首相でした。三木睦子さんの名前があれば韓国政府もシンポジウムに参加する女性たちを出国させる許可もだしやすく、日本政府もビザを発行すると思いました。KCIAなどによって不測の事態がおきたとき、社会党関係だけでは困難でも、三木睦子さんが協力して頂ければ海部さんにお願いすることもできます。わたしはなかまのみんなに相談すると反対されるかもしれず、またひきうけてくださるかもわからないので、1人で三木睦子さんの家を訪ねることにしました。三木睦子さんのご自宅は広くゆったりしていましたが、とても質素な生活ぶりでした。
 三木睦子さんには率直にお力を借りたいと、つぎのようにお話しました。「日本は朝鮮を植民地にして、長いあいだ朝鮮の人々を苦しめてきた。日本が敗戦した後も米ソ冷戦体制の中で植民地支配をされた朝鮮が南北に分断され苦しんでいる。本来、朝鮮は分断される理由はなく、もし分断されるとするならドイツが東西に分断されたように、敗戦国である日本が分断されなければならなかった。分断の悲劇をすべて朝鮮におしつけている。わたしは自由に朝鮮に行けるが、共和国と韓国の人たちは自分の祖国に往来すらできない。わたしは日本人として、朝鮮にたいする過去の侵略、植民地政策の責任、反省の意味も含めて今回、日本と共和国、韓国の女性たちによるシンポジウムをぜひ実現させたいのだが、社会党関係の力だけではむずかしい。三木睦子さんに実行委員会の呼びかけ人の1人になってもらい、力を貸していただきたい」と主旨を説明しました。
 三木睦子さんは初めて聞く話ばかりだったようで驚いておられました。
 さらにわたしは、「朝鮮が南北に分断されているが、日本は韓国しか国家として認めておらず、共和国にたいしては国交正常化をしないどころか、敵視政策をとりつづけている。隣国との友好関係をきずきアジアの平和をつくりだすことは日本にとって重要な課題であり、『シンポジウム』の開催は、女性の力でその1歩をきずくということで、たいへん大きな意味がある」とさとしました。
 三木睦子さんは真剣に聞いておられましたが、「このようなお話を初めて聞きました。一晩考えさせてください」と言われました。
 わたしは「南北朝鮮の女性たちの気持ちを理解できる日本人としての行動が実現できるよう願っています」と言って帰りました。
 翌日の朝10時にわたしは祈るような気持ちで三木睦子さんに電話しました。3木さんは「わたしでお役に立つのでしょうか」と言われながら、ひきうけてくださいました。本当に嬉しく感謝の気持ちでいっぱいでした。
 しかし、わたしのまわりでは自民党関係者にたいしてはあまりよい感情をもっていませんでした。三木睦子さんは自分の立場や党派のちがいをこえて、南北朝鮮の女性の願いを実現する道を選択されました。わたしはその人間としての度量の大きさと人間性に感動し多くのことを学びました。わたしは、三木睦子さんとの出会いによって、人を1面的に評価をするのではなく、その人間的な教養の深さを見なければいけないと痛感したものです。
 キムイルソン主席は、民族主義者であれ右翼といわれる人であれ信頼し包摂し依拠する中で困難な革命の道をきりひらかれました。
 わたしは三木睦子さんにとても大事なことを学んだと感謝しています。
 三木睦子さんは、何の偏見もなく運動にかかわるようになり、呼びかけ人代表を引きうけてくださいました。他にも自民党参議院議員の大鷹淑子さん、社会党党首の土井たか子さん、そしてわたしが事務局長になりました。わたしの名前もありましたが、KCIAも気がつかなかったようです。
 シンポジウム開催3日ほど前に韓国大使館から電話がはいり、わたしたちも参加してよいかと問い合わせがありました。シンポジウムの準備がすすんでおり隠すわけにはいかず、わたしたちは堂々とお迎えしようと考え、スタッフの1人に韓国大使館に説明に行かせたところ、大使館は出席を遠慮されました。やはり三木睦子さんが呼びかけ人代表になっていたので、意見がわれたようです。事実がわかったあとも韓国大使館は妨害するわけにはいかなくなってしまいました。
 「アジアの平和と女性の役割シンポジウム」は東京・日暮里のホテルのホールで、800人規模でおこないました。共和国から3名、韓国から3名の代表が参加しました。3名の代表の訪日にかかる費用すべてをわたしたちは自力で集めました。外にもれることをおそれて公開的に文書で集めることができなかったので、口コミだけで集めました。
 わたしはシンポジウムを準備する過程で、困難なことにであうとキムイルソン主席が“女性の力はすばらしい”と言われた言葉をいつも思いだし励まされていました。そして、本当に女性の力はすばらしいと実感しました。よくお金も集め、準備ができたものだと。
 共和国の代表の呂燕9さんたちは、シンポジウム前日に着きましたが、韓国の女性たちはまだ許可がおりませんでした。同日夕方、やっと許可が下りて来日されました。
 会う前は南北朝鮮の代表とも、おたがいに考え方がちがいすぎ理解しあえないのではないかと心配していましたが、会った瞬間抱きあい喜びの涙を流し、言葉は通じるので親しく交流していました。やはり一つの民族であることを実感した瞬間でした。
 
世界の指導者として尊敬される主席
 
 第1回目の「アジアの平和と女性の役割シンポジウム」は1991年5月、東京で開催しました。2回目は同年11月ソウルで開き、3回目は1992年9月ピョンヤンで開催しました。
 ピョンヤンでのシンポジウムには、韓国からバス1台、約50人が軍事境界線をこえて北の祖国に足を踏みいれました。3日間のシンポジウムが終わったあと、主席が日本代表団、韓国代表団とそれぞれ別の日に昼食会をひらいてくださいました。日本代表団との昼食会のときに、主席を真中にして三木睦子さんとわたしがはさんで座り、いっしょに楽しく食事をしました。主席は食事しながらいろいろ話されました。
 主席は“前日、韓国の女性と昼食をしたときに、彼女たちから、祖国の大事な宝である金剛山の岸壁に文字を彫るのはやめてください、いまケーブルカーをつくる工事をしていることについても金剛山の自然そのものの美しさを残してくださいと言われた”とのことでした。
 主席は“そのような意見は初めて聞いたので、夕べからずっと考えていたが、今朝、現場に連絡しケーブルカーの工事を中止するよう指示したとのことで、今後については再度みんなで協議しようと思っている”と言われていました。これには本当に驚きました。韓国の女性たちの言葉を真剣にうけとめ悩まれている主席は、いつも人民とともにおられるのだと思いました。
 同胞から民族の宝をそのままの姿でのこしてほしいと言われ、一生懸命考える指導者。主席は真に人民の指導者です。
 1994年7月8日、キムイルソン主席は急逝されました。わたしは悲しくて何日も涙を流しました。このときにシンポジウムに参加していた韓国の梨花女子大学教授の李効再さんから手紙がきました。「わたしが主席にお目にかかったのはたったの1回だけです。しかし、どうしてか来る日も来る日も涙があふれて、主席を慕う気持ちが日ごとに強まるのでしょうか。それは、ひきさかれた南北朝鮮の人々の心を一つに結びつけ、そして統一へと導かれるために、日夜、心を砕き努力を重ねてこられた主席の優しいお父さんのような民族愛・祖国愛がわたしの心をつかんではなさないのだと思います」
 この手紙からもキムイルソン主席の人柄の中に人民愛、民族愛、同胞愛など人間的な愛情があふれていて、それが誰の心をも惹きつけていることがわかります。主席に、肉親の愛を覚え、指導者への尊敬、あこがれの心が沸いてくるのです。キムイルソン主席の中に、チュチェの人間像がみごとに体現されていると思います。チュチェ思想の最大の真髄は、人間にたいする愛だと思っています。
 わたしにとって、このようにすばらしい革命家であり指導者であるキムイルソン主席とお会いし、直接お話ができたことは、何よりも幸せなことだと思っています。すぐれた指導者というのは、主席のような資質、人格をそなえていなければならないと感じます。朝鮮革命の指導者であるキムイルソン主席は、朝鮮人民のみならず世界の人々の指導者として尊敬されるということを、わたし自身が実感したことです。
 キムイルソン主席は、抗日闘争の中で女性たちの献身的なたたかいぶりを目にして、女性はすばらしい存在であるということを認めています。そして、女性は社会主義建設における片方の車輪という言葉で、女性の果たす重要な役割について述べておられます。
 
わたしの生き方を決めた主席との出会い
 
 1972年に初めて朝鮮に行きましたが、わたしは日本と朝鮮との関係についてまったく無知でした。訪朝をとおして、日本の中でも実際に朝鮮との友好関係を築いていかなければならないということに目覚めました。抗日闘争の指導者がキムイルソン主席であり、その後の社会主義建設を指導されているのもキムイルソン主席です。りっぱな人格者、指導者が朝鮮を指導しておられることを知り、1日も早く、日本の政策をかえなければいけないと思いました。日本はあまりにも朝鮮を差別しており、朝鮮から学ぶという意識はまったくありません。
 日本と朝鮮との友好関係をきずくうえでも、まず人民の中で友好運動をつくりあげる必要があります。わたしたちの女性の運動の中にも、平和運動の中にも、朝鮮との友好、交流をかかげなければなりません。当時は戦争反対、原爆反対という運動はありましたが、日本の植民地支配にたいする反省という課題をかかげる運動はありませんでした。
 わたしは訪朝することをとおして、この日本の現状と平和運動に歴史認識を踏まえた新たな運動を提起し実践しなければならないということにめざめました。日本に帰ってきてからは、「朝鮮女性と連帯する会」を全国に組織しました。そして、朝鮮がなぜ南北に分断されたのかということや日本の過去の歴史を学びました。結局朝鮮問題は日本の問題であり、歴史認識をわたしたちがしっかりと認識し、朝鮮とさらにアジア諸国とどのような関係をきずくのかというわたしたち自身の課題なのです。
 わたしはキムイルソン主席と直接お話できたことで、その思想や考え方をわたし自身の中でうけとめることができ、わたしのライフスタイルや考え方の基本となりました。わたしは日本のなかに朝鮮のことを正しく伝え、日本と朝鮮の正しい関係をきずいていくことに寄与していく役割があると確信しています。
 これまで、チュチェ思想にもとづいてキムイルソン主席とキムジョンイル総書記が、朝鮮の革命と祖国統一にむけた指導指針をうちだし、多くの苦労をされながらも力強く導いてこられました。現在はキムジョンウン朝鮮人民軍最高司令官が、主席と総書記の遺訓をひきつぎ、それをかならず実現するという強い意志をもって努力されています。
 日本にいると朝鮮の姿はなかなか見えないかもしれませんが、チュチェ思想というりっぱな思想があり、それにもとづく政策があり、すばらしい国づくりをおこなっています。それを実現させないよう妨害しているのが、アメリカとそれに追随する日本や韓国の対策です。わたしたち日本人からすれば大変申しわけないことだと思います。主席と総書記の2世代にわたって実現できなかった日朝国交正常化、日本の過去の歴史の清算という課題は、わたしたち自身が成し遂げなければならない課題です。
 いまキムジョンウン最高司令官がりっぱに主席と総書記の遺訓を貫徹するよう指導されています。また朝鮮人民は、キムジョンウン最高司令官のもとで心を一つにして主席と総書記の遺訓を実現していくことを朝鮮人民自身のいちばんの課題、義務として力強くたたかっています。
 わたしは朝鮮のことを正しく伝え、日朝国交正常化の実現、東アジアの平和のためにさらなる努力をしていかなければと決意しております。