基地移設反対は県民の意思
金日成金正日主義研究沖縄連絡会代表 佐久川政一

本日は「自主ぬ道 櫓舵さだみてぃ 明日を拓くチュチェ思想セミナー」に参加するために遠路はるばる日本列島の最南端である沖縄までおいでくださり、心から感謝申しあげます。

本日のセミナーは、1月8日に名古屋で開催された「早春 日朝友好芸術の夕べ」「金日成金正日主義研究全国連絡会総会と各界懇談会」にひきつづいて、金正恩第一書記の誕生を祝賀する一連の催しとして開催されました。

1.沖縄県知事選挙と衆議院議員選挙結果が示したこと

辺野古新基地建設に沖縄県民は「ノー」

沖縄は、日本のアメリカとの政治的、経済的、軍事的従属関係が象徴的にあらわれている地域であり、県民がたたかっている地域です。

辺野古新基地建設に県民は「ノー」の意思を示しました。

2014年1月23日、名護市長選挙で辺野古新基地建設反対をかかげた現職の稲嶺進氏が2期目の当選をしました。名護市長選においても名護市に普天間飛行場を移設するかどうかが大きな争点になりました。結果は、きれいな海を汚染させたくないと主張し名護市への移設反対をとなえた辺野古新基地建設反対派が勝利しました。

また2014年11月におこなわれた名護市選挙区での県議会議員補欠選挙でも辺野古新基地建設反対派の候補者が当選しました。

2014年11月16日におこなわれた沖縄県知事選では、那覇市長であった翁長雄志氏が市長を辞めて立候補し、現職知事に約10万票の差をつけて当選しました。沖縄県知事選挙で勝利した翁長雄志氏は自民党系ですが、普天間基地の辺野古移設に反対の立場を表明しているため、共産党や社大党、社民党をはじめ自民党に信条的に反対の人たちも翁長氏を支持しました。

これまでの選挙は革新対保守という対立の構図のなかでおこなわれました。今回の県知事選は、普天間の米軍飛行場を名護市辺野古沿岸に移設するという日米合意にもとづいて、日本政府が辺野古基地移設を強行しようとするなかでおこなわれました。もっとも大きな争点は、普天間基地の辺野古移設を県民が認めるか否かということでした。結果は、革新、保守を問わず沖縄県民をあげて辺野古への移設に反対する翁長氏を支持しました。

また2014年12月14日におこなわれた衆議院議員選挙では、沖縄にある4つの小選挙区すべてで、普天間基地飛行場の辺野古移設を支持していた自民党の立候補者が敗れました。彼らは、沖縄選挙区では落選し比例区で復活当選しました。衆議院議員選挙の4選挙区すべてで、新基地建設反対の野党候補者が当選したのは、知事選挙勝利の勢いがそのままつづいたことのあらわれです。

県知事、県議会、市町村長を含めた県民の総意は、普天間の代替基地を沖縄にはつくらせないということです。辺野古移設を支持する候補者は沖縄選挙区ではすべて落選してしまった結果からも、沖縄県民は辺野古新基地建設に反対していることが明らかです。

一連の選挙結果をふりかえってみると、選挙戦の過程で県民は基地はいらないという意思をつらぬき、沖縄には自己決定権が確立されつつあるといえます。

沖縄の民衆は基地はもうごめんだという意思を明確にしました。米軍基地はこれ以上必要ないというのが県民の総意になりつつあります。今回の選挙結果は、県民の自己決定権、自主性のあらわれであり大きな前進だと思います。

沖縄県知事選挙は、オール沖縄で島ぐるみ的に一致してたたかえば勝利することを示しました。

また選挙を含め運動をすすめるには、県民が沖縄のことは自分たちが決めるという自己決定権を確立してたたかうことが大事であることを示しました。

沖縄が自主・平和の道をすすむためには、県民が沖縄の進路をきり拓いていく主体として登場していくことが重要です。

日本政府に翻弄された沖縄の近代史

沖縄の歴史をふりかえると、1879年(明治12年)、明治政府は軍隊と警察をともない首里城に乗り込み、琉球王国に琉球藩の廃止と沖縄県の設置を通告します(琉球処分、廃琉置県ともいう)。1879年まで独立国家であった琉球王国に日本政府が軍隊と警官をひきつれてきて日本の一県になることを強制していき、500年あまりつづいた琉球王国は滅亡します。

琉球王国の滅亡以降、沖縄は日本のなかの一県となり、独自の方向性をうちだすことはできなくなり、つねに日本政府の支配のもとにありました。

日本は海外侵略をもくろみ戦争の道に突入し、その後、1945年には敗戦をむかえます。日本が敗戦したとき、わたしは小学校5年生でした。わたしは敗戦の小学校5年生まで軍国主義教育をうけました。戦前の教育は、方言が禁止され家庭内でも標準語で話すことが奨励され、街頭にも標準語で話そうと書いた看板がたてられ、徹底したものでした。当時、学校では方言札が罰則として設けられました。方言をつかう生徒にはかまぼこ板くらいの大きさの「方言札」と墨書した板を首から下げさせ、方言を話した他の生徒が見つかるまで下げさせました。日本語は標準語のみとされ、方言をつかうことは許されませんでした。

当時、小学校の学芸会のときなども琉球色のあるものはまったく演じることができませんでした。琉球文化は低くみられ、琉球方言もいっさい禁止され、同化政策が強力にすすめられました。

運動会のときには「鬼畜米英撃ちてし止まん(撃ちつづけて止めるな)」という国策にもとづいて、生徒にやりをもたせ、用意ドンの合図と同時に、50m先に置いてあるルーズベルト、チャーチル、蔣介石の写真をめがけて走らせ、写真をパンと突かせたうえで折り返しつぎの生徒に渡すという競技がありました。平和とは無縁の教育が徹底されていました。

つづり方では、「戦地の兵隊さんありがとう」という兵隊に感謝する文章を書かされたのを覚えています。

1945年に日本は敗戦し、新しい教育がはじまります。敗戦直後は、何もない状況のなかで、戦前の国語の教科書の軍国主義的な表記の部分を墨で線をひき、ぬりつぶしてつかうといった状況でした。

沖縄の戦後のたたかいで一番果敢におこなわれたのは復帰闘争だといえます。米軍統治下では米兵による事件事故が頻繁におき、銃剣とブルドーザーによって土地も全部とりあげられました。わたしも嘉手納飛行場のなかで生まれ土地を所有していましたが、米軍が占有していたため一坪もつかうことができませんでした。アメリカは、最初は地代も支払いませんでしたし、後になって払うようになっても非常に少ない額でした。

1950年ころ、復帰運動がさかんになりました。復帰闘争は乳飲み子が母親の乳房をもとめることにたとえられていました。

沖縄の本土復帰は沖縄の教職員会が中心になって復帰運動にとりくみ、島ぐるみでたたかって実現しました。自民党の一部の保守的な人たちは、米軍が沖縄から撤退すれば基地関連の収益や補助がなくなり、県民はイモを食べはだしの生活にもどる(芋はだし論)と主張しました。教職員をはじめほとんどの労働者は復帰すべきだと主張しました。現行のままでは日本国憲法も適用されず、アメリカの大統領行政命令により米軍の高等弁務官が一方的に布告・布令を発布し沖縄を統治するという状況がつづきます。復帰しなければ憲法の恩恵もうけることなく人権もまったくないがしろにされる状況であり、県民はこれ以上黙っておれないということで立ち上がり、島ぐるみで復帰闘争をおこなったのです。

当時、アメリカはニクソン大統領がベトナム戦争をおこなっていた時代であり、戦争で莫大なカネをつかい余裕がなくなっていました。沖縄の米軍基地を維持するにも統治するにもカネがかかるので何とかしたいと思っていたときでした。

1969年7月、ニクソン大統領がグアム島で外交政策の基本路線として、アジアでの過度な介入を抑制し同盟国に役割の分担を求めたニクソン・ドクトリンをうちだし、1972年に沖縄の本土復帰が実現しました。

沖縄県民は日本に復帰すれば本土並みに基地も整理縮小されるとうけとめていました。しかしまったく基地には手をつけず返還され、米軍は従前通り基地をつかいつづけてきました。沖縄県民が米軍基地はいらないと要求しても、米軍が撤退することはありませんでした。

沖縄問題の解決にあたっては何ら県民の意思は反映されず、いつも日米合意のもとで他律的に決められてきました。普天間基地の辺野古移設も県民がどれほど反対しても、すでに日米合意で決まったことだとして無視しました。沖縄はまるで日米の植民地同様のあつかいがなされています。

わたしは、今回の選挙のように、島ぐるみで一心団結してたたかえば、県民の要求は実現できると思います。たとえば、1956年にアメリカ施政権下にあった沖縄で島ぐるみ闘争とよばれる大規模な反基地闘争がおこなわれました。戦後、アメリカが半永久的に沖縄の土地を収用し、安い土地代で使用しつづけるということがうちだされたことにたいして沖縄県民は敢然とたたかいました。当時、土地代を請求したところコカ・コーラを買うくらいのわずかな土地代しか支払われませんでした。そのため県民はアメリカが安い土地で基地として使用しつづけることに猛反対し、一定程度の土地代を支払わせるようにさせたのです。

現在、沖縄での選挙結果にかかわらず、安倍首相は侵略戦争を推進するための集団的自衛権を行使し、特定秘密保護法を実施するなど大きく舵を右にきっています。憲法を改悪し、アメリカに追随して世界に軍隊を派兵しようともくろんでいるのです。

安倍政権は、新基地建設反対の運動をすすめる運動や平和勢力への弾圧を強めようとしています。このような動きは、平和と人権尊重を希求して止まない沖縄県民にとってけっしてあってはならない動きであります。

2.世界情勢の潮流は自主

こんにち、自主をめざす潮流が世界のさまざまな地域、国においてまきおこり、おしとどめることのできない流れとなっています。

朝鮮をはじめ自主勢力が世界で台頭し、帝国主義を衰退に追いやっていることが、現代の情勢の大きな特徴といえます。

アメリカの一極支配が終わり、各国は自国を自主化するうえで重要な時期を迎えています。世界はいま、侵略の道か、自主・平和の道かの大きな岐路に立っています。中国、インド、ロシアは市場経済をとりいれており、社会主義とはいえませんが、アメリカにたいしては従属することなく自主の政治姿勢をとっています。アメリカにとって中国、インド、ロシアは無視できない存在になっています。

中東諸国には団結して帝国主義とたたかう勢力があります。イラン、シリア、レバノンのヒズボラはたがいの絆が急速に高まり、鉄の三角同盟といわれています。イスラム教の国々には社会主義を標榜している国もありますが、マルクスが明らかにした社会主義ではありません。しかしアメリカの圧力にたいして屈服するのではなく、自主の立場が鮮明となっている国が生まれてきています。

ラテンアメリカでは、シモン・ボリバル(1783~1830年)の思想が人々のなかに息づき、反帝自主をかかげる国が大勢となっています。

さらに自主の流れを特徴づけたのはヨーロッパ統合という歴史的できごとでした。

また、こんにちの自主の流れを特徴づけているのは、BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)をはじめとする新興諸国の動きです。BRICSはめざましい経済成長をとげています。

自主の潮流を先導する朝鮮

帝国主義にたいして一歩もひくことなく敢然とたちむかい、うち負かすことのできる自主勢力の存在によってはじめて、自主時代をきり拓くことができます。

自主時代は、帝国主義とのたたかいに勝利した金日成主席によってきり拓かれました。

主席は自力更生の精神で武器をはじめあらゆるものを自分たちでつくり、20年近く日本帝国主義とたたかい、1945年、朝鮮を独立に導きました。

朝鮮戦争(1950~1953年)では、武力が圧倒的に優勢であったアメリカとその追随国を相手に一国だけで果敢にたたかい、アメリカに停戦協定を締結させました。朝鮮戦争の勝利は、帝国主義の頭目としてのアメリカ帝国主義が歴史的に下り坂を歩む端緒となりました。

朝鮮が日本とアメリカの二つの帝国主義とのたたかいに勝利したことにより、自主時代が幕を開けました。朝鮮の勝利は、いかに小さな国であっても民衆を団結させ、正義と祖国のためにたたかえば、かならず勝利するという信念と勇気を世界人民にあたえました。

比類ない困難な抗日武装闘争の過程で、金日成主席によって民衆中心のチュチェ思想が創始されました。主席は困難であればあるほど民衆のなかにはいり、民衆を信頼し、たたかいに立ち上がるようにはたらきかけ、民衆の自覚的熱意に依拠し、民衆の力を結集してたたかいをおしすすめていきました。

チュチェ思想は、金正日総書記によって発展豊富化されました。

1990年代、アメリカは、ソ連東欧社会主義の崩壊による経済的打撃やたびかさなる自然災害に遭遇した朝鮮を崩壊させようと策動を強めましたが、主席逝去後、先軍政治をうちだした金正日総書記は、帝国主義の朝鮮瓦解策動を粉砕していきました。

朝鮮は、帝国主義の瓦解策動から自主の道、社会主義の道を守るために先軍の道をすすんでいます。

3.チュチェ思想は自主をめざすたたかいの指導思想

金正恩第一書記は2012年4月6日に発表した朝鮮労働党中央委員会責任幹部への談話「金正日同志をわが党の永遠なる総書記として高くいただきチュチェの革命偉業をりっぱになしとげよう」で、金日成金正日主義はチュチェの思想、理論、方法の全一的体系であり、チュチェ時代を代表する革命思想であると述べています。

金日成金正日主義は、金日成主席と金正日総書記の革命思想の総体を統一的に表現したものです。

金正恩第一書記は、主席と総書記の思想と業績はたがいに分けることができないとし、金日成金正日主義と定式化しました。

チュチェの思想・理論・方法の全一的体系ということは、チュチェ思想とそれにもとづいて解明された革命理論と指導方法を構成部分としていることを意味します。

朝鮮の歴史は金日成金正日主義を指針として革命と建設を勝利させてきた歴史です。

金正恩第一書記は、2014年2月25日に開催された朝鮮労働党第8回思想活動家大会でおこなった演説「革命的な思想攻勢によって最後の勝利をはやめよう」において、朝鮮の革命家は思想の力によって同志を得、武器も解決し、帝国主義強敵をうちやぶり、富強な社会主義を建設してきたと述べています。

朝鮮は革命理論を体系化しただけでなく、実践により金日成金正日主義の優越性、生活力を示しています。金日成金正日主義は世界人民が求めている思想です。金日成金正日主義のみが人類の明るい未来をさし示しています。

金正恩第一書記は、金日成金正日主義の本質は民衆第一主義であると述べています。金正恩第一書記は主席と総書記の以民為天の思想を継承し、主席と総書記が歩んだ道を民衆第一主義をかかげてまっすぐにすすんでいます。民衆第一主義は、人民を天のように崇拝し、人民のために献身的に奉仕することを要求する思想です。第一書記は「すべてを人民のために、すべてを人民大衆に依拠して」というスローガンをうちだし、民衆を徹底して主人としておしたて服務しています。

チュチェ思想は、革命と建設の指導思想であり、民衆主体の社会主義を建設し、民衆の幸せを実現するための指針です。

チュチェ思想に学び、それを普及することは、日本の社会を自主的で一人ひとりが主人となった社会をつくるうえでたいへん重要です。

日本はいったい独立国なのか、日本はアメリカの属国ではないかと世界の識者からよく指摘されています。

チュチェ思想は沖縄闘争の思想的武器となります。沖縄は県民の要求と意思にもとづき、沖縄の歴史をきりひらいてきたのではなく、アメリカと日本政府によってある意味で植民地といっても過言ではないようにあつかわれてきました。

沖縄を沖縄の人々の自主性が政治的に実現される沖縄にすることが求められています。そのためにも次世代の若い人たちがチュチェ思想を学べるように広めていくことが重要です。

金正恩第一書記が体系化した金日成金正日主義に学び、チュチェ思想の旗をかかげて自主・平和の日本と沖縄をめざしていきましょう。