いま更めて問う日本の侵略戦争責任
朝鮮の自主的平和統一を支持する徳島県民の
会会長篠原晴美


  1、はじめに

「過去に目をつぶる者は、未来が見えない」これは元ドイツ大統領ワイツゼッカーの言葉である。 わが国日本とともに第2次世界大戦を引き起こしたドイツは、大戦時のナチス政権がヨーロッパ諸国を侵略し、殺りくの限りをつくした。

日本も朝鮮や中国をはじめアジア諸国を侵略し、支配し、数千万人を虐殺した。

とくにドイツの残虐行為としては、ヨーロッパにいる1100万人のユダヤ人すべてを殺りくする計画をCLASS="NOB">ヒットラー自らがたて、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所だけでも200万人、全体で600万人のユダヤ人をガス室に送りこむなどして虐殺した。

大戦後のドイツは、国民と国家の強固な合意によって、「記憶、責任、そして未来」という基本理念を確立し、大戦後60年近くの今日もナチスの犯罪を追いつづけ、東欧諸国民を虐殺したり、強制労働させた補償をなしつづけ、すでに6兆数千億円を支払っている。

わが国日本はどうなのか。アジア諸国を侵略し、略奪し、殺りくしたことへの反省と償いの基本理念も国民的合意も形成されず、したがって戦争犯罪や植民地支配に対する明確な謝罪も賠償もしないまま60年を過ごし、今日に至っているのである。

私が思うに、日本においてドイツとは逆に侵略戦争責任の反省と償い、すなわち戦後処理がほとんどなされなかった原因として、国際的には米ソ冷戦構造をうまく利用して無賃乗車(安保ただ乗り論)をしたことにあり、国内的には日本国民とその社会が、広島原爆被害や沖縄戦の惨禍を強調するなかで、結果的に被害者意識が強調増幅されて、日本の侵略戦争によって朝鮮や中国をはじめとするアジア諸国の国民にはかりしれない損害と苦痛を与えた加害者意識が希薄になったことにあるのではなかったか。

侵略戦争を起こした側が、戦争犯罪を忘却の彼方に押しやっても、侵略された側がその苦痛を忘れることは絶対にあり得ない。また、戦争の惨禍を全面的に受ける一般国民にとって勝者もなければ敗者もないとよく言われるが、侵略者と侵略された者との関係は歴然である。

2、侵略された中国の国民意識の今

中国の政府系シンクタンクである社会科学院日本研究所が、2004年11月23日に、中国国民の対日意識調査の結果を発表した。調査は同年9月から10月にかけて全国の約3200人を対象に実施したもので、有効回答は約2900人だった。その結果は、「日本に親しみを感じる」は6%なのに対し、「感じない」が54%で、2年前に比べて約10%上昇しており、対日感情が冷え込んでいるのが分かった。また日本の首相の靖国神社参拝については、42%が「どのような状況でも認められない」と答えたが、「侵略を謝罪すれば可能」が9%、「戦犯を分祠すれば可能」も17%あった。「親しみを感じない」の理由では、「中国を侵略した」が26%、「侵略の歴史を反省していない」が62%で、あわせて9割近くを占めた。

その結果から見れば、中国国民は冷静かつ科学的に問題を見つめていることが分かる。だが、侵略した側の日本政府やマスコミは、「中国政府が意識的に対日批判を強めているから」とし、事の本質を正しく理解しようとしないばかりか対中非難を強化して、意図的に憲法9条改悪と軍事力増強に結びつけている。さらに在日アメリカ軍は、アフリカや中東まで攻撃の対象とする軍司令部を日本にもってこようとするなど日米軍事一体化を積極的におしすすめ、日米が共同して世界の軍事的支配を狙っているようである。わが国日本のこの動きはどう考えてみても第2次世界大戦前夜を思わしめるもので背筋を寒くする。イラク戦争やパレスチナ紛争をみると、すでに第3次世界大戦に突入しているかの様相である。

最近、中国の胡錦涛国家主席や温家宝首相が直接、小泉首相に対し重ねて「靖国神社にはA級戦犯が祀られており、中国人民には受け入れることはできない」と靖国参拝を強く非難し中止を要求した。それに対し小泉首相は「参拝は不戦の誓いのため」などと、例によって的はずれの言葉で応じ、参拝継続の意を示した。温家宝中国首相はまた、日本政府内で政府開発援助(ODA)廃止論が出ていることに対して「中国は国交正常化にあたり賠償金を一切求めなかった」ことに言及し、対中ODAには賠償金の意味合いも含められているとの認識を示唆し、強い不快感を示したという。

日中国交正常化は、1972年9月29日、北京人民大会堂において中国・周恩来首相と日本・田中角栄首相の共同声明調印によって実現した。

それに先立つこと7ヶ月の1972年2月21日、アメリカのニクソン大統領が北京を電撃的に訪問して毛沢東主席や周恩来首相と会談し、一気に米中国交正常化をはかった。

いわゆる「頭越し外交」である。それまでアメリカの意を受けて中国敵視政策をとりつづけてきたわが国日本は、あわてふためいての田中首相訪中となったのである。「アメリカが変われば日本も変わる」と今もなお外国から揶揄されているゆえんはここにある。

その日中国交正常化にあたって日本側は、「過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し深く反省する」と詫びた。それに対し中国側は、「日本の侵略によって中国人民にはかりしれない損害と苦痛をもたらしたが、それは軍部指導者がやったことで日本人民を責めるつもりはない。日本が平和国家の道を歩み、中日の永久的平和友好関係を樹立するなかで償っていくべき」との立場を表明したと言われている。それを知った当時の日本国民は、中国の寛大さに強く打たれ、日中不戦の誓いを新たにし、末永い日中平和友好関係のなかで精神的、経済的償いを果たしていこうと誓い合ったものである。その日本人の思いが、1978年8月12日の日中平和友好条約締結につながっていくのである。

しかるに日本は、そのときの全国民的合意を忘れ去って、A級戦犯を靖国神社に合祀するとともに、歴代首相の多くが、閣僚を引き連れて参拝するが、国内外の批判を受けて中止するのが常だった。だが小泉首相は違った。「外国からとやかく言われる問題ではない」と開き直って強行しつづけているのである。その上に中国への敵対心をあおって軍事力の強化をはかり、ついに憲法9条の改悪をめざして着々とその手続きを進めているのである。また、小泉内閣の関係閣僚が中国向けODA廃止を口にするようになった。日中平和友好条約を踏みにじる日本の危険な動きとマスコミ操作を大戦で侵略を受けた側の中国国民が鋭敏にとらえ、それが先に記した意識調査に明確な形であらわれているのである。

私たち日本人は、このような中国国民の対日意識を鏡にして己が身を正さなければならないものを逆に中国批判にのめりこみ敵対心を高める結果となっている。

3、日本の植民地支配とアメリカの南北 分断への批判が激化する韓国

アメリカは1945年の第2次世界大戦終結後、戦犯国日本の朝鮮植民地支配の責任を問わないままに、こともあろうにやっと解放されたばかりの朝鮮民族とその国土を南北に分断した。日本は、植民地統治の反省と賠償を一切しないばかりか、アメリカの南北分断に手を貸した。アメリカは、自らの手でつくった南の韓国を同盟国の美名のもとに日本に代わって新たなる植民地支配をし、冷戦構造のもとアジア大陸に巨大な前線基地を構築した。北の朝鮮民主主義人民共和国に対しては徹底的な敵対関係におき、強固な政治的経済的封鎖を一貫して取りつづけた。ついに1950年6月には朝鮮戦争を引き起こし、日本を基地とした巨大なアメリカ軍が朝鮮半島になだれ込んだ。そのときアメリカは、日本の警察力増強という名の再軍備を求め、吉田茂内閣はそれに応じて国会審議を経ないまま警察予備隊を新設し、それが今日の自衛隊という名の軍隊となった。まさに再軍備の始まりであった。生まれたばかりの新生中国は危機感をもって義勇軍を派遣してアメリカ軍に立ち向かったためアメリカは北の共和国占領による全朝鮮半島支配を断念し、1953年7月、アメリカは初めての勝利なき戦争といわれる朝鮮戦争の停戦に応じざるを得なかった。共和国が休戦協定を平和協定にといくら呼びかけても、アメリカは一切応じず、朝鮮戦争は51年後の今日も一時停戦のままにある。

休戦協定成立後来日したニクソン副大統領は、日本の憲法に非武装(第9条第2項)を盛り込んだことは誤りだったと述べ、日本の再軍備強化を促した。

以来、強化しつづけた日本軍と日本や韓国に駐留するアメリカ軍が北の共和国を脅かしつづけてきた。そんな状況下の1965年、アメリカの介入によって日本の佐藤自民党政権と韓国の朴正熙軍事独裁政権との間に「日韓基本条約」が締結された。日韓両国民衆の激しい抵抗を排除しての強行であった。「日韓基本条約」は、韓国進出を期待する日本資本、日本の資本で近代化を推進して権力基盤を強化したい朴正熙政権、それに北東アジアに反共の強固な橋頭堡を築きたいアメリカ、それらのどす黒い意図が絡み合っていた。

この条約の骨子は、①日韓併合条約の無効確認、②韓国が朝鮮半島における唯一の合法政権であることの確認、③無償3億ドル、有償2億ドル、民間信用供与3億ドル以上の経済協力、④対日請求権(植民地支配の損害賠償)の放棄、在日韓国人の法的地位、漁業問題合意などであった。この条約によって共和国の存在を全面否定するとともに、日米韓の軍事一体化を完成させるものであった。また、日本の植民地支配の賠償責任を消し去るものでもあった。

かくのごとき朝鮮半島情勢に歴史的転換のときがきたのである。南北分断と対立に終止符を打って、和解と統一への道をきりひらく新しい歴史の第1歩が刻まれた。

それが2000年6月、ピョンヤン空港での金正日朝鮮労働党総書記とキムデジュン韓国大統領の握手であり、6・15南北共同宣言であった。

 60年前、8・15解放のとき、全朝鮮民族がめざした統一独立国家づくりへの胎動が全朝鮮半島で再び始まったのである。そこで、まず韓国で何が起こっているかを具体的にみることにしよう。

①過去の歴史を清算する「親日糾明法」の成立

盧武鉉政権下の韓国では今、過去の歴史を清算する問題が、「国家保安法」の改廃問題とともに、最大の社会的政治的課題となり、全国民的議論を呼んでいる。

8・15解放後、北の共和国では親日・民族反逆者は刑罰、公職追放、公民権停止など徹底的に清算された。しかし南ではアメリカ占領軍の指令によって日本の植民地支配の統治機構とその要員はそっくり温存され李承晩政権に引き継がれた。かくして韓国では、日本植民地支配の手先となって地位、権力、利益の分け前に預かっていた親日派たちは、親米派・反共主義者に転身し、以後の朴正熙、全斗煥、盧泰愚とつづく軍事政権下の中枢に位置し肥大してきた。

それから40年、軍事政権下の「暗黒の時代」を経て、文民統治と言われた金泳三政権下の1993年頃から親日反民族行為清算の動きが起こり、現在の盧武鉉政権になって、それが急激に燃え広がり、全国民的課題となった。2004年3月には、「日帝占領下の親日反民族行為の真相糾明法」を成立させるに至った。

野党ハンナラ党代表朴槿恵が「親日糾明法」反対の先頭に立っているのは、父親の朴正熙元大統領が日本陸軍士官学校の出身であり、維新軍事独裁政権の圧政とともに国民の審判を受けるのを恐れるからである。一方で与党ウリ党代表の辛基南議長の父親が日本軍憲兵伍長であったことが後になって分かって議長を辞任するなどの波乱も起きているが、過去の歴史を清算する動きはむしろ加速している。

②植民地支配下の強制連行真相究明の動き活発化

2004年2月には、「日帝強占下強制動員被害真相究明等に関する特別法」が賛成169名、反対1名、棄権5名というほぼ満場一致の形で韓国国会で成立した。

この特別法令によって、1931年の満州事変以後太平洋戦争に至る時期に、日本植民地支配によって強制動員された軍属、労務者、従軍慰安婦などが受けた生命、身体、財産などの被害について国家次元で真相調査することになった。

この法の施行は、日本の植民地支配による被害者問題の解決のため最初のボタンをかけたに過ぎない。これに関連する資料の大部分は日本にあり、一部はアメリカにあると推測される。よって日本政府及び市民団体の協力が不可欠となる。だが、その日本では靖国参拝や歴史教科書歪曲問題等が起き、強制連行問題も隠蔽しようとする政治的社会的意識が強い。

わが国日本が侵略戦争犯罪をしっかりと調査し、反省し、償うことは、日本と被害国の関係にとどまるものではなく、東北アジアの平和と安定にとってもっとも重要な基本的条件である。韓国国民はそう思っている。

③韓国政府は「日韓基本条約」の外交文書公開、日本は反対の意向

最近の韓国マスコミ報道によれば、韓国政府は1965年の日韓基本条約締結までの外交文書の一部を年内に公開する方針を固め、最近日本に通告したという。

この条約は要するに、アメリカの指示介入によって結ばれたもので、朝鮮半島唯一合法の政権は韓国とし、北の共和国の存在を認めず、また日本の侵略責任を全面放棄するものであった。来年は40周年になる。日本政府は、日韓関係を揺るぎないものにした条約と宣伝し、大々的な記念行事を計画しているようだが、韓国の方では売国的屈辱条約との見方が強まり、その見直しの声も高まっている。

日本政府は、韓国政府からの外交文書公開通告に対し、共和国と国交正常化交渉をおこなっていることや韓国内でこの条約の見直しの声が高まる恐れがあることなどを考慮して文書を公開しないよう韓国に要請したという。

日本外交がいかに無節操であるかが分かる。いま韓国では、前項で記述したように特別法令までつくって強制連行被害調査を進めており、被害内容が確定されれば、次にくる問題は、日韓基本条約で処理済とされているところの謝罪と賠償問題と考えられている。わが国日本は、素直に外交文書公開を認めるべきであろう。

④人民弾圧の「国家保安法」廃止へ韓国世論急速に高まる

1948年、アメリカの手によって朝鮮半島南半部につくられた韓国の李承晩政権下、日本の「治安維持法」を下書きにしてつくられた「国家保安法」は、世界でも恐れられる人民弾圧法である。この法律を武器にして人民弾圧の限りを尽くしてきたのが、これまた悪名高いKCIA(韓国中央情報部)である。

KCIAは、アメリカのCIA(中央情報局)の指導で1961年につくられた。朴正熙大統領の直属機関で、正式部員2万人、情報を提供させるスパイは約3万人と言われてきた。朴政権のファッショ支配に批判的意見をもつとみれば真夜中でも連行して拷問を加えた。韓国内だけでなく日本やアメリカに住む韓国・朝鮮人にまで手を伸ばし、1973年のキムデジュン拉致事件のような他国の主権侵害、国際的謀略事件をしばしば繰り返してきた。とくに南北和解と統一を願う人士には徹底的な弾圧を加えた。文化人の表現の自由をも束縛した。その元凶がこの「国家保安法」である。

自由と平和、民族和解と統一への気運が高まってきた今日でもなお厳然と存在し、韓国民を呪縛しつづけている。

「6・15南北共同宣言」以後、この法の廃止を求める声が急速に高まった。さらに盧武鉉大統領のもとでの総選挙で与党ウリ党と民主労働党が勝利した結果、その声は国民的大合唱になってきた。

盧武鉉大統領自らも次のように発言した。「国家保安法は、現在では使うこともできない独裁時代の遺物。国民主権時代、人権尊重の時代に進むのであれば、このような古い遺物は廃棄するのが好ましい」

また韓国青年団体協議会議長も「同法の廃止こそ植民地時代と独裁の歴史を正し、民族和解の時代を引き寄せる第1歩だ」と指摘した。

そんな情勢のなかでも野党ハンナラ党の朴槿恵代表はかたくなに保安法維持の立場を崩していないが、若手議員のなかに強い反発もあって党内部は一枚岩ではない。

この「国家保安法」の廃止は、朝鮮民主主義人民共和国を「北半部を不法に占拠した反国家団体」と規定した韓国憲法の改正にもつながり、ひいては「米韓相互防衛条約」など冷戦時代に形成された共和国敵視の法律や条約の改廃をともなうことになるだけに、今後の動きが注目される。ここまで盛り上がった国民的要求を食い止めることはできないだろうと言われている。

4、東北アジアの非核平和と朝日国交正常化をめざす朝鮮民主主義人民共和国

朝鮮半島がいかに分断されたかを先に南の視点で見たが、ここでもう1度北の共和国からの視点で考えてみる。

1910年、日本は李王朝下の朝鮮を植民地支配する。李氏朝鮮王政は屈服し崩壊するが、あくまで民族の独立を求める民衆は義兵を組織して激しく抵抗する。しかし数万人が殺され抵抗力を失っていく。

日本の朝鮮植民地統治は、世界でも類例をみない過酷なもので、農民から土地を奪い、民族企業をつぶして、日本から資本と経営者を連れ込む。一切の民族言論機関をつぶして官制報道を一方的に押しつける。ついには朝鮮の民族語を禁じ、日本語を強制し、創氏改名によって朝鮮名を日本名に変えさせるという世界史上例をみない植民地統治をおこなう。

生きる術を失った朝鮮人たちは、日本からきた口入れ屋の言うがままに、集団で日本に渡り職を求めざるを得なかった。日本に渡航したとて変わりはなく、炭抗夫や屑拾い、糞尿くみ取りなどきわめて危険で劣悪な労働条件のもとで働くしかなかった。また、あからさまな民族差別のなかでお互いに肩を寄せ合って生きざるを得なかった。それがまた、不逞鮮人集団として蔑まれ危険視された。

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の時には、軍隊と警察が意図的に「不逞鮮人が徒党を組んで来襲し、井戸への投毒、放火、強盗、強姦している」とのデマをまき散らし、それにあおられた群衆は、自警団をつくって朝鮮人を駆り出し、有無を言わせず手当たり次第に殺害した。その残忍な殺人手口と数の多さはまさに戦場のようだったと言い伝えられている。殺害した朝鮮人は6000人を超えることが、後世の学者、弁護士などの調査で明らかになっている。だが、80年余を過ぎた今日、日本の政府・司法は歴史の暗闇に隠し通している。

いかに時が過ぎようとも、白日のもとにすべてをさらけ出して、朝鮮民族に詫び、償わなければならない人間としての責任が私たち日本人すべてにある。

さて、その頃、植民地統治下の朝鮮では各地に反日独立武装闘争が激発するようになる。その指導者こそが、日本の軍や警察から「白頭ペクトゥの虎」と恐れられた金日成将軍であった。

「日本帝国主義に打ち勝つ力は、朝鮮人民自身のなかにある」というチュチェ思想を説きながら朝鮮人民革命軍を創設し、組織的な抗日遊撃戦を全朝鮮半島の至るところで展開した。

そして1945年8月15日、日本帝国主義は敗北崩壊し、朝鮮民族は解放される。

8・15解放直後から、堰を切ったように統一独立国家創建に向けての全民族的大衆闘争が金日成将軍の指導のもとに朝鮮半島全域で展開される。8・15解放のその日をもって、朝鮮人自身の手による統一独立国家が創建されるべきであり、そのはずであった。

しかるに、この朝鮮人民の意志を踏みにじって38度線の南にアメリカ軍が、北の方にソビエト・ロシア軍が進駐した。米ソ両軍の進駐目的は、在朝鮮日本軍の武装解除と日本の朝鮮植民地統治機構の解体、そして全朝鮮を統一した自由な独立国家創建にあったはずであった。

だが、南朝鮮に進駐してきたアメリカ占領軍は、進駐目的を転換して旧朝鮮総督府など日本の植民地統治機構をそのまま温存し、もとの日本人官吏までも残してしまった。次第に強まっていく冷戦構造のなかで、アジア大陸の一角に拠点を確保したかったアメリカは、38度線の南の占領地域に亡命先のアメリカから帰ってきた李承晩を大統領とする大韓民国(韓国)をつくってしまう。アメリカによる新しい植民地支配政策反対を叫ぶ広範な南朝鮮人民の武装蜂起を鎮圧しての韓国建国であった。済州島で3分の1の島民が犠牲になったのもこのときのことである。

38度線以北ではそんな情勢下においても全朝鮮を代表する立場を堅持して南朝鮮代表360人、北朝鮮から212人の代議員を選出しピョンヤンに結集して朝鮮民主主義人民共和国が創建されたのである。そして金日成首相を選出した。

かくして全朝鮮統一独立国家づくりを夢見た朝鮮人民の願いは踏みにじられ、朝鮮半島南半部に韓国、北半部に朝鮮民主主義人民共和国の、同族分断国家がつくられ今日に至る。アメリカの手によってつくられた韓国憲法には、北の共和国を「北半部を不法に占拠した反国家的団体」と規定されたままである。

南半部に事実上の植民地をつくったアメリカは、野望の赴くまま1950年6月に朝鮮戦争を引き起こして全朝鮮半島支配を目論むが、中国義勇軍の参戦もあってアメリカは初めての勝利なき停戦としてほぼもとの38度線近くを停戦ラインとする協定に調印せざるを得なかった。

アメリカ占領軍の統治下にあった日本もその占領軍なるアメリカの指示によって再軍備し、北の共和国と対峙するようになる。

1965年にはアメリカの介入のもと、日本の佐藤自民党政権と朴正熙韓国軍事政権によって問題の「日韓基本条約」が締結される。その条約によって韓国を朝鮮半島における唯一の合法政権とし、北の共和国の存在すら否定し、北の共和国に対しては一切の戦後処理をおこなわず、植民地支配、被支配の関係のまま今に至る。

そんなことが今日の国際社会で許されるはずがない。共和国の孤立政策を言うが、事実として今日、世界から、とくにアジアから孤立しているのはアメリカと日本である。

それを知らぬほど小泉首相は外交無能力者ではあるまい。

だからこそ小泉首相はピョンヤンに飛び、金正日総書記との首脳会談で日本の総理大臣として植民地支配を詫び、誠意と信頼をもって国交正常化をはかると世界に誓約したのではなかったか。

こんにち、日朝両国の関係は戦争状態にあるが、その責任はまさに日本側にある。国交正常化を実現するには、日本が植民地支配によってはかりしれない損害と苦痛を朝鮮人民に与えてきたことへの反省と賠償が大前提であることは言うまでもない。

拉致問題も、戦後60年一切の戦後処理をおこなわず、敵視政策によって日朝関係を戦争状態においてきた日本側にも責任がある。だから拉致問題は、国交正常化実現のなかでしか解決はあり得ない。共和国をとやかく言う前に、日本は己が身を正さなければならない。

5、おわりに

2004年10月、私はピョンヤンを訪れて、対日外交の責任者とも言われているキムヨンイル外務次官(第1回6者協議共和国首席代表)と率直に話し合った。外務次官とは2001年以来、毎年会見して忌憚のない意見交換をしてきた。そのキムヨンイル次官は、次のように述べた。

「1番近い国で歴史と文化を共有してきたわが国と日本が国交がないなどあっていいはずがありません。隣同士の国が行き来できない垣根をつくっては双方の人民にとって不幸なことは言うまでもありません。必ず朝日両国人民は国交を樹立するでしょう。そして平和友好の新時代が必ずきます。それを1日でも早めることです。また東北アジア地域の非核平和は、わが国が一貫して主張してきたことであり、何としても実現しなければなりません。」

小泉首相が、任期2年のうちに、できれば1年以内に日朝国交正常化を実現したいと言っているが、できるだろうか、との私たちの質問には次のように答えた。

「外交は一筋縄ではいかないことは十分承知をしています。また小泉首相の足を引っ張る勢力もたくさんいることも知っています。でも外交というものは、お互いに信頼しあう上にしか成り立ちません。小泉首相の言葉を信頼して実現のためにわが国も精一杯の努力をします」

その率直な言葉は、まさに共和国の基本的な立場と意志に違いない。

こんにちまで日朝関係をきわめて不正常な状態に放置してきた責任がある日本側として、この機会をとらえずして、いつ国交正常化をはかることができるというのか。

日朝の国交正常化から、さらにその先の平和友好条約を結んで、日朝の信頼関係を取り戻すことは、世界の国々から信頼を取り戻すことでもある。

ここで再び、ドイツの指導者の言葉を借りる。シュミット元大統領は、おりにふれて、こう言っている。

「日本とドイツは、同じ第2次大戦の敗戦国としてスタートし、経済大国になったが、両国の間には大きな違いがある。それは日本は世界のなかに真の友人をもっていないのに対し、ドイツには信頼できる多くの友人がいることだ」

私はこの言葉の重さをかみしめる。

私は2005年の年賀状に、次の言葉を書き添えた。

   侵略と支配と殺りくの歴史を

   恥じず省みず償わず

   再び侵略戦争への道を行く

   日本人なる我を許せず

(2004年12月18日)