回顧録
革命の根をつちかい
-『金日成回顧録-世紀とともに』
第8巻(続編)の「国際反帝勢力と連合して」より-
金日成

革命とは闘争のみを意味するものではありません。 革命には闘争もあり、 生活もあります。 闘争と 生活を融合させ、 闘争のなかで美しい生活を創造し、 社会の進歩と繁栄をとげていくのが、 まさに共 産主義者の志向する革命なのです。

抗日革命闘士は、 人間の想像を絶する艱難かんなん辛苦をなめながらも、 共産主義者のみが設計できる気高 く美しい生活を創造し、 いたるところに道徳・信義の理想郷を建設しました。 彼らは闘争のなかで愛し 合い、 夫婦にもなりました。 闘士たちの生活には詩や歌もあり、 涙も喜びもありました。

朝鮮革命は 1940 年代に入って新しい意味と内容をもち、 さらに実り多い発展の道をたどりました。

いよいよ抗日革命の最後の勝利に向かって前進していた 1940 年代に、 われわれに新たな希望と喜びを 与えたのは、 革命の2世が生まれたことでした。

金正日は 1942年 2月 16 日の明け方、 白頭密営で生まれました。 金正日の誕生はわが一家にとって、 またとない大慶事でした。 わたしと金正淑は、 銃声の絶えない戦場で朝鮮の男児と して生まれた金正日の将来を熱い心で祝福しました。

金正日が生まれたとき、 わたしは父と母が生きていたならどんなに喜んでくれただろうか と考えたものです。 祖父母が初孫、 初孫といってわたしを可愛がってくれたように、 こよなく可愛が ったことでしょう。 孫は子よりも可愛いと言いますが、 彼には祖父母がいませんでした。 曽祖父母は いましたが、 はるか遠くの故郷にいたので、 ひい孫の誕生を知らせる術もありませんでした。

わたしは幼いころ家族からとても可愛がられました。 十人を超す大家庭の家族みんなが、 わたしを 一門の柱だと言って格別に見守ってくれました。 村人たちの愛情も一通りではありませんでした。 独 立運動に身を投じた家庭の子孫だからと、 なおさら愛情をそそいでくれたのでしょう。

ところが金正日は、 そういう愛情を知らずに育ちました。 彼が幼年時代のほとんどを過ご した白頭密営と極東の訓練基地には、 人家すらありませんでした。 われわれは住所も番地もない丸木 小屋やテントで、 ときには氷雪におおわれた露天で青春時代を過ごしました。

金正日の幼年時代は軍服を来た人たちのなかで流れました。 彼は家族から受けられなかっ た愛情をわたしの戦友から受けたのです。 金正日はわたしの愛情よりパルチザン隊員の愛情 のなかで成長しました。 戦友たちは、 白頭山にもう一人の未来の将軍が生まれたと喜びを隠しきれま せんでした。 金策は幼年時代の金正日をいつも 「幼い将軍」 と呼びました。

朝鮮人民革命軍の隊員は、 誰もが抗日の炎のなかで朝鮮革命の新世代が生まれ、 白頭山のカラマツ のようにすくすくと育っているのを見て、 朝鮮革命の洋々たる前途を確信し、 幾百倍の力と勇気と闘 志をいだいて祖国解放の日を早めるためさらに力強く戦うようになりました。

金正日の誕生を共同の慶事とし、 彼に私心のない愛情をそそいでくれる戦友の姿から、 わ たしの一家への彼らの愛情が代を継いでつづく真の愛情であることを胸熱く感じました。

前にも述べたことですが、 わたしは一生を同志たちの愛情のなかで生きてきました。 わたしがこれ まで健康な体で革命と建設を指導してくることができたのは、 ひとえに同志と人民のおかげです。 わ たしは 14 歳のときに母の膝元を離れて以来、 ずっと人民と同志のなかで暮らしてきました。 抗日革命 の日々にも、 新しい祖国建設の日々にも、 祖国解放戦争の日々にも、 同志たちは終始一貫、 わたしを 誠心誠意助け、 守ってくれました。 盾となって敵弾を防ぎ、 雪や雨、 病魔も防いでくれました。 気苦 労をするときも、 同志と人民が力になってくれました。 わたしも力が尽きたり辛いことがあるときは、 まず同志と人民を訪ねました。 彼らがいれば、 力も湧き、 前途も明るくなり、 いかに困難なことでも 十分やりとげられるという自信も生まれました。

ここで、 みなさんに、 極東の訓練基地でのことを少し話そうと思います。

国際連合軍を編制し、 われわれが北キャンプに集結したその年の冬、 満州や極東地方には雪がたく さん降りました。 ひどい積雪のため、 山の獣まで餌を求めて民家に下りてくる始末でした。 膝までく る雪のため、 しばらくは自動車も通えないありさまでした。

そんなときに、 小部隊工作に出ていた金一が重い米袋を担いで基地に帰り、 金正淑に会いに来まし た。 彼は、 パン食がほとんどの基地の状況を考えて米を少し手に入れてきたから、 他には使わず司令 官にぜひご飯を炊いて差し上げるようにと頼んだのです。 金一がわたしのために米を担いで来たのは 一度や二度ではありません。 自分は毎日、 粒トウモロコシを食べながらも、 わたしには何とかして白 米のご飯を食べさせようといつも気をつかったものです。

柳京守も兵站部から米が少しずつ供給されると金正淑の所に持ってきては、 他言せずにわたしにご 飯の食事をさせるよう頼むのでした。

わたしと戦友との間に行き交った革命的同志愛と共産主義的道徳・信義は、 金正日の誕生後、 金正淑と金正日への道徳・信義としても表現されました。

金正日が生まれると、 金正淑は、 わたしと自分の軍服をほどいてつくった服を着せました。

訓練基地にいたときも、 事情は同じでした。 当時はソビエト人も戦争のため満足に食べられませんで した。 少なく食べ、 少し寝、 地味に着る、 というのが彼らのスローガンでした。 そのため、 おくるみ と布団、 帽子もととのえることができませんでした。 それで、 女子隊員たちが布の切れ端をつぎ合わ せて布団をつくってくれたのです。 金正日は祖国が解放されるまで、 その布団を使いました。

戦友たちは、 司令官の息子がつぎ合わせの布団を使っているのをいつも心づらく思っていました。

それがいたく胸にこびりついていたためか、 解放後林春秋は中国東北地方で活動中、 休暇で帰国する とき、 わたしと金正淑への贈物として毛布を 500 枚も買ってきました。 わたしはそれを、 万景台革命 学院に贈りました。

生活が困難をきわめたころでしたが、 朝鮮人民革命軍の隊員は、 真心をこめて金正淑と金正日の面倒をみてくれました。 とくに女子隊員たちには苦労をかけました。 彼女らは金正淑の面倒をよくみてくれました。

金正日は幼年時代から軍隊を慕い、 軍人の世界にあこがれました。 それでわたしの戦友た ちは、 彼と会えばまず軍帽をかぶせてやったものです。 ある隊員は、 彼に贈ろうと、 敵地工作の合間 合間に木を削って、 おもちゃのピストルをつくったりしました。 白頭密営とは違って極東にいたとき は、 部隊がわたしの家の近くに位置していたので、 訓練の余暇や休息の日には多くの隊員がわたしの 家を訪ね、 金正日を抱きとってあんよをさせ、 肩車をしたり歌を教えたりしました。 ときに は、 アムール川のほとりに連れていき、 水上を走る発動機船や空を飛ぶ渡り鳥を見せたりしました。

パルチザンの息子に生まれ、 砲煙にくすんだ服を着、 軍糧を食べ、 突撃の号令を聞きながら育った 彼の人生は、 最初から並のものではありませんでした。

金正日が幼いころから剛直で腹がすわっていたのは先天的であるともいえるでしょうが、 それよりも彼がこの世でもっとも強い正義感と信念をもった闘士たちのふところで、 闘争と生活の真 理を学び、 何の屈託もなくのびのびと育ったからです。 金正日が幼いときから年のわりに精 神的にませていたのも、 パルチザンの影響を受けて育ったからだと思います。 パルチザンの高潔な感 情や情操は、 豊かな滋養となって彼の魂にそそがれ、 白頭山頂の岩のようにたくましい彼らの気質は、 男児としての彼の性格に血と肉を補ったのです。

金正淑と金正日を助けるうえでは男子隊員たちもひけをとりませんでした。 多くの男子隊 員がわたしの家に来て、 金正淑の労を省こうといろいろと世話をやきました。 白頭密営でもそうでし たが、 極東の訓練基地にしても栄養剤らしいものは別にありませんでした。 みんなが窮乏生活に耐え ている時期だったので、 助けたい気持ちはあっても、 実際には何とも方法がありませんでした。 そん なときに林春秋をはじめ多くの戦友が、 自分にあてがわれたパンを少しずつ取っておいては金正淑に 持ってくるのでした。 独ソ戦線の支援で誰もが空腹に耐えていたときですが、 彼らは毎日のようにパ ンを集めてくれました。 金正淑はそのうちの一部だけを消費し、 あとは残しておいて彼らに返しまし た。

いつのことだったか、 林春秋が無線通信機を背負って満州へ小部隊工作に出たことがあります。 彼 は司令部と無線通信で連絡をとりながら、 数か月政治工作をつづけました。 そのとき彼は、 任務もり っぱに遂行しましたが、 基地へ帰るときにはタマゴを何十個も手に入れて来ました。 小部隊の工作地 から訓練基地までは距離が遠いうえに、 通う道も平坦な大道ではなく、 銃剣の林立するまさに死地で した。 ですから、 自分一人の身をかばうのもむずかしいのに、 無線通信機を背にしてタマゴまで持っ てくるのに、 どんなに苦労したかがうかがわれます。

彼がタマゴの包みを持って現れたとき、 わたしは金正淑と金正日のためを思う彼の真心に 胸を熱くしました。

事実、 林春秋と金正淑は古くからの友情でつながっていました。 金正淑が符岩洞で夜学に通ってい たとき、 林春秋は郭池山と一緒に講師を務めました。 彼は病気で苦しんでいる人びとへの医療奉仕に も熱心でした。 金正淑の家族も彼に治療を受けたことがあります。 いつだったか、 病気にかかった金 正淑を介護したのも林春秋であったそうです。

彼は国際連合軍時代だけでなく、 一生涯わたしと金正淑と金正日のために尽くした人です。

国が解放されるや、 林春秋は金正淑の一家、 親類を捜すためにもいろいろと心を砕きました。

彼は次代に、 金正淑、 金哲柱、 金基松の生涯と闘争業績を紹介し宣伝することを義務とし、 幾年も の間資料を集めて、 彼らにかんする本も何冊か著しました。

林春秋は武器を手にして戦うかたわら、 知識をもってわたしの活動を補佐した代表的なインテリで す。彼は該博な知識をもって、 抗日武装闘争の初期から歴史の記録と著述活動をおこないました。 彼 が歴史家としての第一歩を踏み出したのは、 わたしが延吉県朝陽川でおこなった党および共青幹部と の談話を記録に残したときからだといえます。 それ以来、 彼は朝鮮人民革命軍の従軍史家として、 南 湖頭会議と南牌子会議、 小哈爾巴嶺会議など、 主要会議には欠かさず参加し、 忠実に会議の記録を残 しました。

林春秋はコミンテルン関係の出版物にも数件、 投稿しました。 どの年であったか、 『太平洋』 誌に その雑誌の特派員と林春秋との会見記が載ったことがあります。 わたしはそれを読んで、 林春秋が特 派員にわれわれの部隊をさかんに自慢したことを知りました。 彼は、 朝鮮人民革命軍は綿密な戦闘計 画とすぐれた戦術、 迅速さと正確さ、 勇敢さのため失敗したことがなく、 隊伍は独自性が強く、 文化 的で楽天的であると指摘していました。 また特派員は会見記で、 林春秋が朝鮮人民革命軍の戦果にか んする記事や、 児童団員金今順の英雄的最期についての文を投稿したことまで叙述していました。

林春秋はいつも戦友たちに、 隊内出版物の運営も重要であり、 コミンテルンに送る報告書や文書の 作成も、 革命軍の戦果を資料として総合するのも重要だが、 それよりさらに重要なのは、 朝鮮共産主 義運動とわが国の民族解放闘争にかかわるキム司令の闘争史を体系的に記録しておくことである、 た とえ筆致はにぶく、 知識も浅薄であっても、 金日成同志の伝記を書いて後世に末長く伝えたい、 とよく言っていました。

パルチザンのなかには、 武器を手にして革命偉業に貢献した人は多くいましたが、 林春秋のように かたい信念をいだいて自発的にパルチザンの歴史を収録し、 後世に残した人はまれです。

林春秋は党活動経歴の古い老練な政治幹部です。 にもかかわらず、 わたしが林春秋を政治幹部とし てより、 文筆家、 史家として引き立てるのは、 われわれの革命活動史の定立において彼のなしとげた ことが何ものにも替えがたい大きな貢献となるからです。 彼は豊富な史料をもって、 われわれの革命 活動史を総合、 体系化し、 掘り下げて考証しました。 彼が抗日武装闘争についてそのような考証がで きたのは、 いつも日記を書いていたからです。 林春秋のような文筆家、 史家が抗日武装闘争期の資料 を整理しなかったら、 われわれの活動史のうち多くの部分が日の目を見ずに終わってしまったことで しょう。

林春秋はわれわれの革命活動史の定立においてのみでなく、 その紹介・宣伝においても大きな役割を 果たしました。 解放直後、 平安南道党委員会で党活動にたずさわっていた彼は、 趙基天、 鄭寛澈など 多くの作家、 芸術家に、 普天堡戦闘をはじめ抗日パルチザン闘争の話を多く聞かせました。 林春秋は、 革命伝統を基本内容とする図書や数多くの回想記を執筆し、 わが党の歴史文書庫を豊かにするのに貢 献しました。

彼は領袖の革命思想と革命活動史、 わが党の革命伝統を擁護し輝かすことであれば、 いかなる障害 もはねのけました。 林春秋は国際連合軍時代、 わたしの論文 『朝鮮共産主義者の任務』 をもって政治 講義をしたことがあります。 そのとき、 他の国の一部の指揮官は、 この論文を講義案に含めるのは考 慮すべきではなかろうかと言うのでした。 しかし林春秋は、 われわれはすでに以前から金日成 司令官を朝鮮民族の指導者、 領袖として戴いている、 自分の領袖の著作をもって講義するのに雑音が 多すぎる、 と言って、『朝鮮共産主義者の任務』の講義をつづけたのです。

林春秋はわたしの健康のためにもたいへん気をつかいました。 彼が連隊党書記を務めていたとき、 会議で討議された問題だと言ってわたしに通知してくれたことがあります。 どんな問題かというと、 わたしが絶対に背のうを背負ってはならないということでした。 わたしは彼を呼び出し、 きみは革命 参加の年期も古いのに、 なぜ会議でそんな問題まで討議するのか、 と質問しました。 すると彼は、 こ れは党員の要求です、 司令官が背のうを背負って歩くのを人が見れば、 われわれが後ろ指をさされま す、 大衆の意思ですから受け入れなければなりません、 と言うのでした。

林春秋はわたしに献身的であったように、 金正日同志の指導にも忠実でした。

それでは、 どうして林春秋が領袖と指導者を熱烈に敬慕し、 その指導に忠実な革命家になれたので しょうか。 それは、 彼が金赫、 車光秀や金策のように分派の弊害をよく認識し、 実際の体験を通じて 領袖の貴さを誰よりも骨身にしみて痛感したからです。

金正日同志は林春秋を革命の第一世代におし立て、 敬いました。 林春秋にたいする彼の愛 情と配慮は格別なものでした。 林春秋が外国駐在大使として原則を守り、 駐在国の当局者と激しく争 って帰国したとき、 党内に潜入していた分派・事大主義者は、 外交慣例にありえないことをしたとし、 処分を適用すべきだと主張しました。 しかし、 金正日同志は、 林春秋が現代修正主義者とり っぱにたたかい、 朝鮮人の気概を示したと評価し、 庭園の旬のすぎた桃を贈りました。 彼は、 林春秋 が革命闘争の初期からともに戦った数多くの革命烈士の闘争を考証してわが党の歴史的財宝にしただ けでなく、 海外で外交代表として活動する期間、 国宝的価値を有する図書『抗日武装闘争期を回想し て』を完成し、 抗日武装闘争をわたしの闘争史、 朝鮮人民革命軍の闘争史として定義づけ、 総合的に体 系化したことを高く評価し、 その労をねぎらいました。

林春秋は著述活動において、 金正日同志の指導と後援を大いに受け、 その過程で 金正日同志の人間的魅力に感服し、 彼を師とあおぎ、 指導者としてしたがい、 欽慕するよう になりました。 それ以来、 林春秋は活動と生活で提起されるすべての問題を金正日同志に報 告し、 その結論にしたがって動くようになり、 行く先々で彼の偉大さを宣伝する講演もおこない、 本 も著しました。

林春秋が著述活動に専念していた 1960 年代の後半期、 国際共産主義運動内では革命偉業の継承問題、 とくに後継者の問題が論議の焦点となり、 時代の要請として提起されていました。 後継者の正しい選 定は、 革命と建設、 国と人民の明日の運命を決める根本問題です。 後継者の選定を誤って革命を台無 しにし、 国を滅ぼした例はいくらでもあります。

10 月革命以後、 ソ連人民が短期間に国を世界的な強国に築きあげた基本的要因は、 レーニンが後継 者を正しく選んだからです。 レーニンの忠実な戦友であり教え子であるスターリンは、 一生涯、 領袖 の偉業に忠実でありました。 レーニンの死後、 スターリンは彼の棺の前で6項目の誓いを立てました。

その後、 彼は革命と建設を指導する過程でその誓いをすべて実践に移したのです。

ドイツ軍がモスクワ近郊にまで進攻したときも、 スターリンは政治局員や他の幹部は疎開させなが ら、 自分はクレムリンに残って前線の指揮にあたりました。 スターリンの生存中は、 ソ連で万事がス ムーズに運びました。 ところが、 フルシチョーフが執権して以来、 事がもつれはじめました。 そのと きから、 ソ連党内に現代修正主義が台頭し、 ソビエト人は思想的に変質しはじめたのです。 フルシチ ョーフは自分を育ててくれた領袖の恩も忘れ、 個人崇拝にかこつけてスターリンを中傷し、 スターリ ンに忠実であった老革命家もすべて政治局から排除し、 党隊列からも除名してしまいました。

その後、 林春秋はモスクワの赤の広場のレーニン廟を参観中に、 失脚したモロトフに偶然出会った ことがありました。 そのときモロトフは林春秋に、 あなたたちはソ連党の前例を考えても絶対に修正 主義に走らずに、 自分の領袖の思想と業績を忠実に継承していくようにと言ったそうです。 林春秋は、 後継者の問題を正しく解決しなければ党も革命も台無しになるということをそのとき明確に悟ったと 言うのでした。

歴史の苦い教訓が示しているように、 後継者の表徴で基本となるのは、 領袖とその偉業への忠実性 であり、 道徳・信義であるといえます。 領袖への忠実性は、 道徳・信義を抜きにしては考えられません。

領袖への忠実性と道徳・信義、 これは後継者がそなえるべき第一の表徴です。 そして、 高い資質と指導 品格をそなえた実力者であってこそ、 領袖の切り開いた革命偉業をその思想と意図どおり輝かしてい くことができるのです。

朝鮮人民は、 領袖の思想体系と指導体系の確立において金正日同志が発揮した非凡な才腕 と革命的原則性、 領袖の路線と構想の擁護、 実現において示した不屈の意志とエネルギー、 高潔な忠 誠心と孝心に感服し、 金正日同志こそは領袖の思想と意図どおり、 チュチェの革命偉業を代 を継いで最後まで導き完成させていく指導者であることを深く悟ったのです。

朝鮮人民は以前から、 金正日同志を尊敬し忠実にしたがってきました。 金正日同志への忠実性においては、 抗日革命闘士が以前もいまも先頭に立っています。 抗日革命闘士が 金正日同志を領袖の唯一の後継者に推戴したのは、 彼が党と国家、 軍隊を指導すれば民族の 将来が保障され、 白頭山で切り開いたチュチェの革命偉業がいささかの振れもなく代を継いでりっぱ に継承され、 発展するという確固たる信念をもっていたからです。 抗日革命闘士が彼を領袖の後継者 に推戴したのはとりもなおさず、 軍隊が彼を民族の領袖におし立てたことを意味します。

金一、 崔賢、 呉振宇とともに、 林春秋も金正日同志をわが党と国家の首位におし立てるう えで先駆者の役割を果たしました。

抗日革命闘士が金正日同志をあくまでもわたしの後継者としておし立てたのは、 何よりも 人間としての彼に魅せられたからです。 金一はいつも、 金正日同志のように領袖に忠誠と孝 心をつくす忠臣はこの世にいないと言い、 林春秋は、 金正日同志のように革命の先輩を敬い、 革命伝統を熱烈に擁護する人はいない、 金正日同志のような偉大な思想の大家、 指導の大家 はいないと言い、 呉振宇は、 金正日同志のように無比の胆力とすぐれた知略をそなえた総帥 はまたといないと言っており、 崔賢と李宗山は、 金正日同志のように人情味にあふれる人は いないと言っています。

わたしと金正淑、 金正日につくすうえでは、 李乙雪も長い年期を積んでいます。

解放後、 彼が副官を務めていたころ、 朝早く起きては警備状態を巡察し、 わたしの家の台所で 金正日と一緒に朝食を取っていた姿が目に浮かびます。 それくらい、 李乙雪は幼い 金正日と親しかったのです。 わたしが現地指導に出かけるたびに、 李乙雪は車の中で 金正日を側に座らせたものです。 彼は金正日をいつもよく理解し、 いたわりました。

いまも、 戦争当時、 新義州で金正日に会ったときのことが思い出されます。 彼は久しぶり に疎開地からわたしのところに帰ってきました。 そのとき金正日が、 副官長としてわたしに 同行した李乙雪に、 母に代わって将軍によく気を配ってほしいと言った言葉がいまも耳に残っていま す。

金正日がなぜいまも李乙雪を信頼し、 ありがたく思っているのか。 それは母の死後、 李乙 雪が副官長のころ、 自分をあたたかく見守ってくれたからです。

金正日は父母にいちばん可愛がられるころに母に先立たれました。 そのうえ、 戦争まで起 こり、 彼は幼い妹と一緒にしばらくわたしとも離れていました。 戦後は経済復興のためわたしが各地 を出歩いていたので、 彼らに気を配ることができませんでした。 ありし日の母をしのびながら幼年時 代をさびしく送っていたとき、 父母や親戚に代わって彼に肉親の情をそそいでくれたのが、 ほかでも ない李乙雪のようなわたしの戦友たちでした。

李乙雪が幼年時代の金正日をどんなに慈しみ、 気を配ったかを示す話を一つしましょう。

1953 年の夏、 わたしが党および政府代表団を引率してソ連を訪問したときのことです。 訪問日程を終 えてモスクワを出発する前日、 ソ連側が歓送宴を催したのですが、 そのときに出されたスイカの味が 格別でした。 宴会が終わって宿所にもどると、 段ボールの包装をしていた李乙雪がわたしを見てたい へんあわてるのでした。 何を包んでいるのかと聞くと、 彼は少々ためらいがちに、 お子様たちにあげ ようとスイカを一つ手に入れてきました、 と答えるのでした。 箱の中のスイカは水がめほどもある大 きなものでした。 そのスイカを受けとった金正日の喜びようはたいへんなものでした。 彼は 戦争で苦労した人民にもこんなスイカを味わわせてやれたらどんなにいいだろう、 種を取ってスイカ づくりをしてみよう、 と言うのでした。 その日、 金正日と一緒に取った種で、 李乙雪は翌年 からわたしの家の庭園でスイカの栽培をはじめました。 それが年ごとに増えていったのです。

李乙雪は幼いころ両親のもとを離れ、 一生をわたしの下で生活しました。 数十年間警護隊員を務め、 帝国主義者とも戦い、 大国主義者や反動派、 分派分子ともたたかったので、 あらゆる辛酸をなめつく しました。 その過程で非常に剛腹な人になりました。

ハバロフスク会議後、 わたしは朴永純と李乙雪をすぐボロシーロフ (ウスリースク) の無線通信講習 所に送り、 講習が終わりしだいまっすぐ帰隊するよう指示しました。

わたしが小部隊を率いて白頭山の東北部と国内で活動している間に、 李乙雪は無線通信の受講を終 えて帰隊する準備をしていました。 彼が講習の総括で優の評価を受けた日、 ソ連軍のある高位幹部が コミンテルンの指示だと言って、 朝鮮へ行く準備をするよう命じました。 李乙雪は呆然としてしまい ました。 ソ連軍の幹部は、 あなたを信頼してのことだ、 われわれが戦略上重視している城津はあなた の故郷なのだから、 そこに潜入して敵の動静を無電で報告してくれればいいのだ、 と言うのでした。

李乙雪は、 故郷へ行って工作したい気持ちはあるが、 わたしは司令官から講習が終わりしだい帰隊し て無線通信の教官を務めるよう命令を受けているので了解してほしい、 と断わったそうです。 ソ連軍 の幹部は翌日も李乙雪を説きふせにかかりました。 金日成同志の承諾は自分たちが後で受ける から、 朝鮮へ行ってくれと言いました。 ソ連軍の幹部はコミンテルンをかさに着て少々高圧的な態度 に出たようです。 李乙雪は、 わたしは司令官の命令を実行するまではどこにも行けない、 これまで無 線通信技術を所有した通信兵がいなくてわれわれがどれほど血を流したか、 あなたは分からないだろ う、 その轍を踏まないためにも、 わたしは司令官の命令どおり早く部隊に帰らなければならない、 と 言い張りました。

そのころは極東に仮住まいをしていた状態で、 まだ国際連合軍も編制されておらず、 統合された指 揮系統もなかったので、 朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍はそれぞれ独自の指揮系統と秩序にしたがっ て生活していたのです。 そんなときにソ連軍の幹部がわれわれとの事前協議もなしに、 コミンテルン をかさに着て無線通信講習所を卒業して帰隊する李乙雪を転属させようとしたのはむちゃなことでし た。 李乙雪が司令官の命令を実行するまでは、 どんな任務も受けることができないと言ったのは、 わ たしへの絶対的な忠誠心の表われでした。

彼は、 少年中隊の時代から現在まで、 わたしの警護に一生をささげながらも、 わたしの意に背いた り任務遂行を怠ったことは一度もありません。 寝ても覚めてもひたすら領袖のみを考え、 領袖の健康 と身辺の安全のためにすべてを尽くしてきたのです。 わたしが 1939 年に烏口江で釣をしたときも、 わ たしの後ろに機関銃をすえて護衛任務を果たしたのは警護隊員の李乙雪でした。

彼は解放後もわたしをりっぱに護衛しました。 戦時中、 最高司令部の周辺には反革命分子がたむろ していました。 祖国の運命と直結している極秘資料が朴憲永、 李承燁を通してアメリカ側に筒抜けに なっていたのです。 1952 年の夏、 李承燁は部下を通じて無線通信で最高司令部が位置していた乾芝里 の谷間に数十機の米軍機を誘導し、 最高司令部の周辺に爆弾の雨を降らせました。 最高司令部の建物 のそばには時限爆弾まで投下されました。 そこからわたしがいた家までは至近距離でした。 李乙雪は そのとき非常会議を開き、 副官や警護員らに決死隊となることを呼びかけ、 党員証を納めてから、 も っこで時限爆弾を運び出し、 谷間に放り込みました。 この事件を契機に、 彼は最高司令部の周辺に潜 入していた謀略分子や反動分子を一網打尽にしました。

李乙雪は反党・反革命分派分子ともよくたたかいました。 1956 年にわたしがソ連をはじめ東欧社会 主義諸国を歴訪して帰ったときでした。 ある日、 副官長であった李乙雪が、 いま崔昌益、 朴昌玉らが 裏でただならぬ動きを見せているから格別に注意すべきだと言って、 彼らの動きを逐一報告するので した。 南日も電話で、 崔昌益と朴昌玉の動向があやしいと知らせてきました。

李乙雪は金昌鳳の軍閥官僚主義とも真っ向からたたかいました。

彼はわたしのために一生を尽くしてきたように、 金正日同志にも忠誠を尽くしています。

李乙雪と朴永純は南キャンプにもどり、 多くの無線通信士を養成しました。

李乙雪はその後、 祖国解放の最後の決戦がくりひろげられる重要な作戦地点や日本軍の主力が配置 されている戦略的要衝で、 たびたび小部隊工作をおこないました。 彼は小部隊の一員として、 無線通 信機を担いで汪清県老黒山一帯に出て、 偵察活動をしたこともあります。 そのころわれわれは、 敵が 老黒山一帯に大きな飛行場を建設し、 数百機の飛行機や数百門の大砲、 数百台のトラックを集結して いるという情報を入手しました。 ところが、 それを確認することができず、 作戦の準備に大きな支障 を受けていました。 ソ連側もその情報の正確さいかんを確認すべく苦慮していました。 それで小部隊 を老黒山に派遣したのです。 小部隊は飛行場の中まで大胆に潜り込み、 そこにある新しい飛行機やト ラック、 そしてその周辺の新型砲がすべて木製の擬装物であることを探り出しました。 李乙雪は偵察 を終えるが早いか、 無電でわたしに小部隊活動の結果を報告しました。

いま多くの人は、 われわれが指導の継承問題をりっぱに解決したと言っていますが、 この問題の解 決では抗日革命闘士の役割が大きかったと言うべきでしょう。 抗日革命闘士は幼いころの 金正日に着る物、 食べる物を与え、 あんよを教えました。 そのころから、 金正日の心には、 抗日革命闘士への信頼と尊敬の念が芽生え、 抗日革命闘士の心には彼への信頼と親愛の情が 芽生えたのです。 金正日の思想的・精神的成長と感情・情操の発展においてもっとも主動的か つ積極的な作用を及ぼしたのは、 ほかならぬ抗日革命闘士です。

金正日同志がそなえている必勝の信念と鉄の意志、 革命的楽観主義は、 抗日革命闘士と親 しくするうちにいっそう充実したものとなり、 しっかり鍛えあげられたと言えます。

抗日革命闘士は金正日同志との接触を通じて、 彼の領袖への限りない忠孝心と道徳・信義、 人民にたいする愛情と献身的奉仕精神、 領袖の思想と意図通り先達の切り開いた革命偉業を代を継い であくまで完成しようという不屈の意志と信念を学びとり、 金正日同志こそは祖国と民族の 明日の運命をりっぱに切り開く指導者であることをひとしく感得したのです。

金正日同志を白頭山の息子というのは、 抗日革命の申し子であるということであり、 民族 の息子であるということです。 彼は抗日革命闘士のふところで人生の第一歩を踏み出し、 そのふとこ ろで朝鮮革命の嚮導星として登場した朝鮮の息子です。

抗日革命闘士は、 金正日同志をわれわれの偉業の継承者におし立てただけでなく、 その指 導体系を確立するうえでも先駆者の役割を果たしました。 後継者をおし立てるからといって万事が自 然にうまくいくのではありません。 それでわたしはいまも、 抗日革命闘士に会うと、 わたしたちがも う少し長生きして金正日同志の力になってやろうと呼びかけているのです。

領袖の偉業の継承、 完成において重要なのはまた、 後継者の指導に忠実にしたがう中核の育成、 後 続隊の育成です。 中核をかため後続隊をりっぱに育成しなければ、 後継者の指導体系を確立すること も、 その路線と方針を貫くこともできません。

われわれは解放後、 白頭山で戦った中核をもって革命を発展させました。 われわれはいま、 党員と 軍人と青年からなる数十数百万の中核部隊を擁しています。 指導者がおり、 中核がいれば、 何も心配 はありません。 金正日同志が指導する朝鮮革命の未来は、 あの青空のように明るく洋々とし ています。

金正日同志の生家が位置している渓谷を小白水谷と呼びます。 小白水谷は、 わが国の高山 地帯でのみ見られるすばらしい絶景です。 1980 年代にわれわれがこの密営を発見する前まで、 小白水 谷は、 人跡まれな千古の密林でした。 軍事にうとい人が見ても、 天険の要塞、 金城湯池といえる地形 です。 朝鮮人民革命軍司令部の所在地としてはうってつけの場所でした。

金正日峰の以前の名は将チャン帥峰でした。 金正日同志の業績を子孫万代に伝えるため、 将帥峰を金正日峰と命名したのです。 朝鮮人民は、 歌までつくって 金正日峰を全世界に自慢しています。

金正日同志を民族の指導者に育てたのは白頭山です。 白頭山の闘士が彼を嚮導星におし立 て、 白頭山の精気が彼の気概となったのです。

朝鮮革命の代がぐらつかないのは、 金正日同志が抗日革命の炎のなかで生まれ育った民族 の領袖であるからです。 彼は全人民の支持と寵愛を受けている人民の指導者です。

パルチザンの息子に生まれ、 軍隊と人民の全面的な支持と信頼のもとに領袖の後継者、 民族の指導 者となった金正日同志の偉業は、 今後も必勝不敗であることでしょう。