回顧録
革命的信義を思う
―『金日成回顧録―世紀とともに』
第6巻「朝鮮はいきている」より
金日成

西間島と白頭山地区における抗日革命の貴い成果は、その一つひとつがみな血みどろの闘争によって もたらされたものであった。革命の進展にともない、それを破壊しようとする敵の攻勢もかつてなく苛 烈になった。中日戦争を引き起こした日本帝国主義は、その重荷にあえぎながらも、現代軍事科学の最 新成果と、数十年にわたる暴圧政治と領土拡張の過程で磨きをかけたファッショ的弾圧手段を総動員し て朝鮮革命を圧殺しようと狂奔した。しかし、いかなる計略や術策をもってしても、われわれの前進運 動をおしとどめることはできなかった。

敵が力をもって革命の圧殺をはかるたびに、われわれは巧みな戦法と妙計の力、同志的団結と革命的 信義の力によってそれを打破した。そして、敵が弾圧に狂奔すればするほど人民との連係をいっそう強 め、われわれの内部を思想的に瓦解させようとすればするほど隊伍の思想・意志の統一と道徳的・信義 的結束をさらにうちかためた。

信義は人間本然の道徳的観念である。旧社会においても真の人間は信義を重んじ、それを人間の基本 的表徴としてきた。しかし、旧社会の道徳規範では、ある一方が他方を束縛し、他方はその一方に無条 件服従すべしとする不平等が説かれ、人間の自主性と創造性を抑制する歯止めがかけられていた。旧社 会の道徳規範は、愛民や為民といった進歩的な要求をかかげることができなかった。

われわれは革命闘争の過程で旧社会から引き継がされたさまざまな封建的人間関係と道徳規範を打 破し、新たな共産主義的人間関係と道徳規範をつくりだし、それを一つの財富として新しい世代に受け 継がせた。

抗日遊撃隊の上下関係、同志関係、軍民関係に貫かれていたのは、愛と信頼にもとづく共産主義的信 義であった。この世には幾千幾万もの法がある。しかし、千差万別の人間の際限ない実践活動を法のみ によって統制し操作できると考えるなら、それは早計にすぎる。法はこの世を動かす万能の武器ではな い。人間の思考や行動には、法によっては規制できない分野もある。愛や友情を法によって規制するこ とができるだろうか。もし司法機関が法を発動し、今日から誰が誰を愛し、誰を友とし、誰を妻にせよ と強要するなら、そのような法を誰が受け入れるだろうか。法の力だけで万事を取り仕切ることはでき ない。法の不可とするところを代わって果たすのがほかならぬ信義と道徳なのである。

われわれは同志の獲得から革命をはじめ、同志的信義と結束を強め、深く人民のなかに入って彼らと の血縁的な結びつきを強める方法で革命をたえず深化させてきた。いまもそうであるが、以前も同志愛 は朝鮮革命の勝敗を左右する生命線であった。朝鮮共産主義者の歩んできた幾十星霜の栄えある闘争の 道程は、同志愛と同志的信義の発展の歴史であったといえる。

われわれの隊伍は蓄財や投機目当てに寄り集まった烏合の衆ではなく、祖国の自由と独立という同一 の志向と目的をもって結束した革命家の集団であった。思想と理念の共通性は、われわれに最初から生 死をともにさせた。したがって、われわれの隊伍には同床異夢や面従腹背の輩が居座る場はなかった。

同志愛と同志的信義を重んじるのは、集団主義を生命とするわれわれの隊伍の存在方式であり、同時 に本来の要求でもあった。抗日遊撃隊は、一挺の銃、一俵の米、一足の履き物を手に入れるためにも、 力を合わせ知恵を集めた。その過程で彼らは 「千万べん倒れようとも敵を討とう!」 という革命的信念 とともに、「死ぬも生きるもともに!」 というもっとも気高い共産主義的倫理をつくりだし、団結すな わち勝利という一つの真理を引き出したのである。

抗日革命は、人類がいまだ体験したことのない前人未踏の革命であった。それは困苦と熾烈の面で、 どの時代の革命とも比べられない波乱にみちたものであった。われわれが延々と歩んできた曲折多い道 程には、今後幾世代にわたっても体験しえないであろうあらゆる苦難が凝縮されている。抗日遊撃隊員 は難関と試練がおり重なるほど、同志的団結のスローガンを高くかかげた。そして、同志愛の力によっ て、それらの難関と試練を乗り越えた。われわれを孤立させ、圧殺しようとする敵の戦略には革命的信 義と団結の戦略をもって対抗した。

抗日革命時代の信義のなかできわだった地位を占めるのは、指導者と大衆との信義である。われわれ は、朝鮮革命における統一団結の中心が形成されてから今日にいたるまで、終始一貫、指導者と大衆と のつながりを強めることに格別の関心を払い、指導者と大衆の渾然一体と道徳的・信義的結合に最善の 努力を傾けた。

わたしが強調する指導者と大衆の関係は、先人の説いた 「君臣有義」 の義理ではない。君臣有義とは、 君主と臣下のあいだには義理がなくてはならないという意味である。朝鮮の共産主義者にとって指導者 と大衆の相互関係は、一言でいって一心一体と表現することができる。指導者は大衆に奉仕し、大衆は 指導者に忠誠をつくすのが、ほかならぬ指導者と大衆のあいだに通うわれわれ流の共産主義的信義であ る。

新しい世代の青年共産主義者は、わたしを統一団結の中心とし、指導者と戦士が一心同体となって民 族の運命を開くために献身する新しい歴史を創造した。新しい世代の青年共産主義者と抗日革命闘士が 体現した共産主義的信義で核心をなすのは、ほかでもなく自分の指導者、自分の司令官への忠実性であ ったといえる。新しい世代の共産主義者は、派閥争いや権力争いというものを知らなかった。いったん 指導の中心をおし立ててからは脇目をふらず、指導者にもっぱら運命を委ねた。ここに、彼らの共産主 義的信義の純潔さがあったのである。

金赫、車光秀などの新しい世代の青年共産主義者をはじめ、想像を絶する困難な抗日革命戦争の時代 にわたしとともに戦った数多くの抗日遊撃隊員はいずれ劣らず純潔な信義の体現者、気高く美しい道徳 の創造者であった。

抗日革命闘士の信義について語るとき、真っ先に思い浮かぶのが金一の顔である。金一は五十年近い 歳月、風雪に耐えてきた人間である。彼はわたしとともに抗日戦争を戦い、新しい祖国の建設と反米戦 争、それに社会主義建設もおこなった。

抗日革命時代の金一は、活動経験の多い老練な政治幹部として広く知られていた。彼は安図と和竜地 方を中心に、間島一帯で地下党活動と反日部隊の工作を多くおこなった。その過程で数多くの革命家を 育てあげた。金一は白頭山で活動したころ、杜義順、孫長祥、銭永林などの頭領の率いる反日部隊を訪 ねまわって工作し、大きな成果をあげた。彼の工作手腕は並々ならぬもので、安図の銭永林は自分の部 隊を人民革命軍に編入させてわれわれとともに戦おうと決心したくらいである。

金一は最初、彼らを撫松へ連れて行った。われわれの部隊が撫松方面に進出したという知らせを受け たからだった。ところがあいにく彼が部隊を案内して撫松地区に着いたとき、われわれは漫江を離れて 長白地方へ行っていた。こうなると反日部隊の隊員らは、金一にだまされたといって動揺しはじめた。

そのうえ食糧難まで重なり、金一はまったく苦しい立場に立たされた。隊長以下、全隊員が三日間も飲 まず食わずの行軍をつづけているとき、幾人かの隊員がとある山中で薬用人参畑を発見した。飢え死に しかねない状態だった隊員たちは、隊長の顔色をうかがおうともせず、われ先に人参を掘って食べはじ めた。人民革命軍の指揮官である金一としては想像もできないことだった。彼は、畑の主人の許しも得 ず勝手に人参を掘り出すのは人民の利益を侵す行為だとたしなめ、両手を広げて制止した。理性を失っ た反日部隊の隊員たちは銭永林のところへ行って、朴徳山 (金一の本名) は正体のあやしい人間だ、彼 は最初、金日成部隊が撫松にいると言ったが、来てみるといなかったではないか、こんなとんで もないうそにだまされて、いつまでも朴徳山について行くことはないではないか、今度はキム将軍の部 隊が長白へ行ったと言っているが、それも信用できない、朴徳山はわれわれが人参を食べるのも邪魔し ている、これはわれわれを飢え死にさせようという魂胆に違いない、いつまでもあいつについて行って はどんな目にあうか知れたものではない、あいつをかたづけて安図へ帰ろうと言いたてた。

金一は反日部隊の隊員らに殺されるかもしれないと思ったが、それを覚悟のうえで、むしろ淡々とし た口調で彼らを説得した。

「よし、わたしを殺す気なら殺してもよい。だが一つ頼みがある。わたしが人参畑の主人に会って謝 ってくるから、それまで待ってもらおう。人参にはこれ以上手をつけないでくれ。これ以上手をつけて は人参代を払いきれない」

これに感じいった銭永林は、即座に金一の保証に立った。そして、人参畑に手をつける者は銃殺する と言い放ち、金一に人参畑の主人を捜しに行かせた。畑の主人を連れてもどってきた金一は、主人の好 意で背のうに入れてきたまんじゅうを隊員たちに分けてやり、主人にはアヘンの塊を差し出して、自分 にはこれしかないが、まんじゅうと人参の代として受け取ってほしいと頼んだ。そのアヘンは急場しの ぎにと王徳泰からもらったものだった。主人はかたくなに辞退したが、金一は無理にそれを彼の手に握 らせた。感動した畑の主人は、山に貯蔵してあった越冬用の食糧をそっくり提供し、銭永林部隊を漫江 まで案内した。漫江にたどり着いた反日部隊の隊員たちは、金一のところへきて非を認め謝った。わた しは反日部隊を連れて白頭山地区に来た金一と紅頭山密営で会い、銭永林部隊をわれわれの主力部隊に 編入させた。

金一は、歯がゆい思いがするほど口数の少ない人だった。密営で話を交わした最初の日、革命にはい つ参加し、どんな闘争をしたのかと聞くと、革命に参加したのは 1930 年代の初期からだが、これとい った闘争歴はないと一言答えただけだった。何度聞いても答えは同じだった。初対面ではあったが、あ まりにも口数が少なく、付き合いの下手な人という印象だった。これは金一の長所でもあり欠点でもあ った。金一の性格上の長所は、飾り気がなく生真面目なことであり、いかなる風波にも動揺せず、ひた すら忠実につくす点であった。彼は生涯、泣き言めいたことを言ったためしがなく、終始黙々と仕事に 打ち込むばかりだった。わたしの命令、指示であれば、それを上級にたいする下級の義務としてだけで はなく、指導者にたいする戦士の信義として実行する真の革命家であった。彼はどんな任務であれ、道 義心をもって実行したので、その遂行においては中正を失うことがなかった。

馬塘溝密営で、金一を第八連隊第一中隊の政治指導員に任命したときのことがいまも忘れられない。

その職責は容易ならぬものであった。連隊長の銭永林は前年に輝南県城戦闘で戦死し、連隊政治委員も 適任者がいなくて空席となっていたので、第一中隊政治指導員が臨時に連隊政治委員の任務まで兼任し なければならなかった。そのうえ、中隊長も熱意は高いわりに能力が欠けていた。わたしはそういう実 態をありのままに説明し、きみがどんな位地で活動しなければならないのかわかるかと尋ねた。慎重な 面持ちで考えていた金一は、しばらくして 「わかりました!」 と一言答えてはまた口をつぐんでしまっ た。任務を受けるときの彼の態度はいつもそうだった。任務の軽重にかかわりなく、毎回 「わかりまし た!」 という決まりの文句で受けとめては、それ以上なにも言わなかった。

翌日、金一にアドバイスするつもりで第一中隊を訪ねると、彼はいなかった。たまたま居合わせた中 隊長の話では、金一は新しい職務につくが早く、第一小隊の駐屯地である撫松県北崗屯へ向かったとい う。前日、金一を中隊政治指導員に任命するとき、わたしが撫松の第一小隊の消息が絶えているとなに げなく口にしたことを心にとめ、現地へ行って第一小隊の実態を調べようと考えたらしい。

翌日の早朝、金一はかなりの食糧と武器を手にして中隊に帰ってきた。それを聞いて、わたしは自分 の耳を疑った。馬塘溝から北崗屯まではたっぷり 40 キロはある。彼が帰ってきたのが確かなら、一昼 夜のうちに往復 80 キロ以上を強行軍したことになる。金一は背のうを肩にしたままわたしのところへ 来て、第一小隊は全員無事で任務もりっぱに遂行している、第一小隊との連係が途絶えたのは連絡員が 途中で道を間違えたからだ、北崗屯から持ち帰った食糧と武器は第一小隊が敵を討って手に入れたもの と、人民からの援護物資を合わせたものだ、地元の青年たちが入隊させてくれと懇願するので、司令部 の承認も得ずに連れてきたと簡単に報告した。

金一を宿所に帰したのち、彼が連れてきた入隊志願者と面接する過程で、金一が第一小隊を率いて金 竜屯の警察署と悪質地主の家を襲撃し、大量の武器と食糧を獲得した事実を知った。

金一は二つの目的で敵の巣窟を襲撃した。その一つは、地主と警察を懲罰して人民の恨みを晴らすこ とであり、いま一つは、わたしがいちばん心配していた食糧問題を解決することであった。当時、われ われは食糧不足のため難儀していた。一か所の密営に数百名も集まって何か月間も軍・政学習をしてい たので、給養係が工作してくる食糧だけではとうていまかないきれなかったのである。戦闘をせずには 一俵の食糧も手に入れることができない状況だった。そんなときに、予期しなかった大量の食糧を金一 が手に入れてきたので、全部隊がそのおかげをこうむることになった。わたしとしては、まったくあり がたいかぎりだった。その後、金竜屯の住民は革命軍への恩返しだといって、四、五回も援護物資をか ついで馬塘溝密営を訪ねてきた。

部隊の食糧が切れると、金一はいつも率先して隊員たちを率い食糧工作に出かけた。また彼は敵地で の地下工作を終えて帰るたびに、袋に米をつめてかついできた。自分は食を抜いたり粒トウモロコシを 食べながらも、わたしにはいつも米の飯を食べさせようと、たいへん気をつかった。金一の背のうがい つも人一倍大きく重かったのは、食糧の予備を入れていたからだった。

金一はいかなる場合にも自分のことより同志と隣人のこと、党と革命の利益を先に考えた。彼は長い あいだ党と国家の高位にあったが、特典や特恵、特待がほどこされるのを望まなかった。下部の者が特 別待遇をしようとすると、絶対に許さなかった。

金一は解放後も、抗日革命闘争のころのように、忠実にわたしを補佐してくれた。彼はわたしの望む ことであれば、どんなことでも骨身を惜しまなかった。党活動、軍建設、経済指導と持ち場や分野を選 ばず、複雑な国事に黙々と専心した。

どの年だったか、金一は党中央委員会政治委員会で、自分を清川江火力発電所の建設現場へ全権代表 として派遣してほしいと要請した。当時、清川江火力発電所は、国家的な投資と関心が集中していた重 要なプロジェクトだった。それだけにわたしも、工事の指揮を担当できる人物をそれとなく物色してい る最中だった。しかしわたしは、彼の要望を慎重に考慮せざるをえなかった。かなり健康を損なってい たからである。彼が以前のように自分の体をかえりみず、仕事に熱中しては、どんなことが起こるかわ からなかった。ところが、金一があまりにも強く要望するので、聞き入れざるをえなくなった。その代 わり、工事現場に行っては顧問役として督励する程度にし、絶対に無理してはならないという条件をつ けた。現場に着いた金一はすぐさま仮設バラックに事務室をかまえ、7、8階のビルに相当する高い階 段を毎日数十回も上り下りしながら、建設を急ピッチでおし進めた。彼は大晦日まで現場にとどまって 昼夜兼行の奮闘をつづけ、1号ボイラーに点火されるのを見届けてから平壌にもどり、わたしにその間 の活動報告をした。

金一はこういう人間だったのである。彼が物故する3日前まで執務室で仕事をし、所属の党細胞で党 生活を総括し、党中央委員会の責任幹部を呼んで、金正日同志を忠実に補佐するようにと頼ん だことは、全国が知る有名な話である。

金一が終生わたしを心から敬い慕ったように、わたしもまた最後まで彼を肉親のように大切にし愛情 をそそいだ。山中での遊撃戦のころの苦労がたたってか、金一はその大柄な体躯に似合わず、たびたび 病魔におそわれた。一時、医師たちは彼に胃ガンという恐ろしい診断まで下したことがあった。それを 聞いたわたしは、心痛のあまり、予定してもいなかった平安南道温泉地方への現地指導に出かけた。平 壌にいては仕事が手につかず、食事もとる気にならず、心を鎮めるすべがなかったからである。

金一までこの世の人でなくなったら、わたしのそばで話し相手になってくれる人はいくらも残らなく なる。ところが多くの医師がひとしく、金一の病を不治の病だと言うのだから、まったく救われない気 持だった。ガンでないと主張する医師は一人しかいなかった。多数の意見にしたがうのがつねであった わたしも、その日ばかりはなぜか、その医師の診断にすがりつきたい気持だった。わたしは途中で車を 止め、外相に電話をかけ、ガン分野の権威者だというソ連の名医を至急招請するよう指示した。外相の 電報を受けたソ連当局は、われわれが指名した医師をすぐ派遣してくれた。金一を診察したソ連の医師 は、ガンではなさそうだという結論を下した。彼らは金一をソ連に連れて行って他の名医にも診察させ たが、その医師もやはりガンでないと診断した。もしあのとき、ガンだという最初の診断にしたがって 胃を切除してしまったなら、金一は命を長らえることができずに終わっていたであろう。

金一が病気にかかったと知らされるたびに、わたしは彼に会い、きみはわたしのためにいなくてはな らない存在だ、いまはもうわたしと抗日革命をともにした老闘士が幾人も残っていないのに、きみまで いなくなったら、さびしくて我慢できないではないか、あまり無理をせず、体に気をつけてほしいと頼 んだものである。しかし、金一は重病にかかり杖に頼って歩くような状態になっても、執務室や生産現 場を離れず、党と革命のために一つでも多く仕事をしておこうと情熱を燃やした。そうして不治の病に かかったのである。いつか、彼はなにを思ったのか、病気が治ったら来年の4月 15 日には万景台へ行 って、ローラーコースターに乗ってみたいと言うのだった。それを聞いて、わたしはなんとなく胸騒ぎ がした。平素口数の少ない人がそんな心の内までうち明けるのをみると、もしや自分の余命がいくばく もないことを予感しているのではなかろうかという思いがした。案にたがわず、金一はその年の大晦日 の、子どもたちの迎春公演も観覧できなかった。それでその夜、わたしは金一の家を訪ねた。

「毎年、きみと一緒に迎春公演を観覧したのに、今夜はきみがいないので、涙がこぼれてどうにもし かたがなかった。それで訪ねてきたのだ」 ベッドに横たわっている金一にこんなことを言って腰をあげると、逆に彼が玄関まで付き添ってきて、 「お願いですから過労は避けてください。絶対に無理をしてはいけません」 と重ね重ね頼むのだった。

その夜、わたしは金一の体に障るのではないかと、新年の祝杯もあげることができなかった。それがい まなお心残りでならない。わたしが帰ったあと、金一もやはり、わたしと祝杯をあげなかったことを後 悔したという。祝杯をあげたからといって、彼の病気が治るわけでもなく、またわたしの気持が晴れる わけでもない。けれども金一を思い出すたびに、いつもこのことがわたしの心をうずかせるのである。

金一はわたしに対するときと同じように金正日同志に対し、わたしへの信義を守るのと同様 に、金正日同志への信義を守った。金正日同志への金一のひとかたならぬ敬慕の情に、 わたしが感服させられたのは一度や二度ではない。金正日同志が中国訪問を終えて帰ってきた とき、杖をつきながら駅頭まで迎えに出た金一の姿を見て、指導者に対する彼の真しな態度に強く心を うたれた。

金正日同志も金一を革命の先輩として格別に尊敬し愛した。金正日 同志はつねに、金一副主席同志は抗日武装闘争当時から、わが党の強化発展と革命勝利のために誰よりも敢然としてた たかってきた共産主義的革命闘士の模範だとしておし立て、あたたかく見守った。わたしが金一をわた しの右腕としたように、金正日同志もまた彼をわたしの右腕とみなしていた。 金一が死去したとき、金正日同志がいちばん悲しんだのもそのためだったと思う。

抗日革命闘士は指導者への信義を守るうえでのみでなく、革命同志への信義を守るうえでも最高の境 地を開いた。愛には愛をもってこたえ、信頼には信頼をもってこたえ、恩恵には恩恵をもって報いるの が抗日遊撃隊員の信義であった。

黄順姫と金喆鎬の友情は、抗日遊撃隊員のあいだで発揚されていた共産主義的信義のモデルともいえ る。わたしは黄順姫を見るたびに、あんなに小さくて繊弱な女性が白頭山の寒風のなかで、どうして十 年間も武装闘争をつづけることができたのだろうかと考えたりする。解放後、平壌に帰り、国内の人士 に、黄順姫を十年間も遊撃闘争に参加した女性だと紹介すると、なかには信じられないと言う人もいた。

朝鮮人民革命軍部隊には黄順姫のように小柄な女性隊員はあまりいなかった。それでも彼女は、不屈の 闘志で革命に参加した。体躯が堂々としているからといって必ずしも革命に忠実で、信義をよく守るわ けではない。林水山は黄順姫に比べれば体が二倍以上の大男だったが、困難に耐えきれず節を曲げ、同 志への信義も裏切ったのである。これに反し、黄順姫は祖国が解放される日まで、革命活動をいっとき も中断しなかった。信義と信念に徹していれば、平凡な女性でも革命にのりだし、金今順のような少女 も節操を守って断頭台をも恐れないのである。黄順姫があれほど小さな体で最後まで革命をつづけるこ とができたのは、信念が強く信義に徹していたからである。

わたしが軍服姿の黄順姫をはじめて見たのは迷魂陣密営だった。女性隊員の兵舎は以前、山林部隊 (中 国人反日部隊) が使っていた中国式のもので、炕 (オンドル) の床がたいへん高かった。そこに腰をお ろして見下ろすと、見覚えのない小さな娘が廊下に立って物言いたげにわたしを見つめていた。ほかな らぬそれが一週間もねばって入隊を許され、部隊のしんがりについて迷魂陣までやってきた黄順姫だっ た。正直な話、そのとき、わたしは彼女が児童団員だと思ったのだが、遊撃隊員だと自己紹介されてび っくりしてしまった。

「まだ背も小さいのに、どうして遊撃隊に入ったんだい」 わたしがこう尋ねると、黄順姫は、日本帝国主義者に虐殺された父親と戦場で倒れた姉の仇を討つた めだと答えた。黄順姫の兄の黄フヮン泰テ雲ウンも崔賢部隊の中隊長を務め、寒葱溝戦闘で戦死した。

入隊初期の黄順姫は部隊の重荷になった。しかし、やがて彼女は戦友たちに愛される革命軍の華とな った。負けずぎらいで分別があり、原則を通しながらも人情味があり、信義に厚かったからである。

金喆鎬は生前、黄順姫の犠牲的な努力で死地を脱した 1940 年春の出来事を折にふれ回想したもので ある。ある日、黄順姫は崔賢連隊長から、後方密営へ行ってしばらくのあいだ負傷兵と老弱者の面倒を みる任務を受け、一行とともに富爾河方面へ向かった。一行の大部分は負傷兵だった。それにもまして いちばん困ったのは、臨月の身だった金喆鎬が行軍途上でお産をしたことだった。ところが、産婦には 生まれる子のための支度がなにもできていなかった。おむつはおろか、赤子を包む一片の布もなかった。

黄順姫は自分の綿入れを脱いで赤子を包んでやった。そうしているうちに、「討伐隊」 が発砲しながら 一行を追いつめてきた。戦友たちを見まわしていた金喆鎬は、どうせ生かせそうにない子なのだから捨 てていくと黄順姫に言った。そう言いながらも、赤子を抱いたまま起き上がろうとしなかった。それを 見た黄順姫は、なんということを言うのだ、わたしたちがこうして苦労をしているのはなんのためなの か、すべて次の世代のためではないか、子どもを捨ててわが身の無事を願うくらいなら生きてなんにな るのかと叱りつけ、産婦の腕からやにわに赤子を抱きとった。そして山の背に駆け上がり、人目につか ない小松の茂みに隠した。それで産婦も銃を手にして黄順姫の後にしたがった。

しばらくして、黄順姫が山の下へ荷物を取りに行ってもどってくると、金喆鎬が空を見上げて涙ぐん でいた。どうしたのか、赤子は見えなかった。黄順姫がわけを聞こうと彼女に近づいたとき、間近でま た銃声が響いた。2人は一行とともに応戦しながら山から山へ、谷間から谷間へと追跡する敵をかわし て2日間も走りつづけた。こうして 「討伐隊」 の追撃を完全に振り切ったとき、金喆鎬は失神してどっ と倒れてしまった。黄順姫はほうろうの器で湯を沸かし、それを彼女に飲ませようとしたが、どうして も口が開かなかった。仕方なしにさじを歯のあいだに差し込み、やっとのことで湯を口にふくませた。

金喆鎬は生き返った。そのとき黄順姫は、赤子はどうしたのかと尋ねた。ある草むらのなかに置いてき たことが分かり、彼女は遠い道を取って返し、「討伐隊」 と戦火を交えた山へ行った。だが、あわれに も赤子はすでに冷たくなっていた。自分の赤子のために、ひとえの上衣のままで遠くへ行ってきた黄順 姫を見て、金喆鎬は、せいぜい一、二時間しか生きられないと知りながらも、その子を包んだ綿入れを もってくることができなかったと詫びた。

「お姉さん、わたしたち大人には綿入れなんかどうでもかまいませんわ。名も無いまま死んでいった あの子に、寒い思いをさせなければそれでいいのです」 空腹と寒さのために体をわななかせながらも、黄順姫はこう言って彼女を慰めた。

金喆鎬は、そのときの黄順姫の友情を終生忘れなかった。臨終をまぎわにしたある日、彼女は病床を 見舞った黄順姫に、こう言った。

「順姫、わたしはもう駄目だわ。わたしはあなたのおかげで富爾河で死なずに一生、金日成主 席の恩顧をたまわって生きてこられたわ…。パルチザン当時のように、あなたと一緒に寄りそって寝て みたいわ」

その日、2人は迷魂陣でのように、寝床をともにして夜通しパルチザン時代の思い出を語り合った。

「苦難の行軍」 のとき、長白で入隊した新入隊員が夜、焚き火のそばに寝て軍服を焦がしたことがあ った。焦げ方がひどくて素肌の半分もかくせない有様だった。彼はそんな格好で行軍の初日から体を震 わせながら隊伍にしたがった。戦友たちはみな同情し心配もしたが、助けようがなかった。誰もが着た きりだったからである。

あつい同志愛の持ち主だった李乙雪は、その姿を見かねて、ある日、自分が着ていた軍服の上衣を脱 いでその隊員に差し出した。新入隊員はびっくりして彼を見つめた。

「あなたは、なにを着るつもりで…」

「おれは遊撃隊の生活に慣れているから、ちょっとやそっとの寒さではまいらないよ」

「いや、わたしの不注意で服を焦がしたのに、あなたの服を着ては面目ない」

新入隊員はなかなか彼の好意を受けようとしなかった。口だけでは意地をはる相手をどうしようもな いと思った李乙雪は、力ずくで彼の服をはぎとり自分の上衣を着せた。彼にこんなことができたのは、 新入隊員を助けるのが先輩隊員としての当然の道義だと考えたからである。

戦友たちはみな、李乙雪がその冬を耐えぬけないだろうと思った。警護中隊のなかでも弱年で、体質 も弱いほうだったからである。満州地方に1、2年でも住んだことのある人なら、その冬のきびしさが どんなものかは知っているはずである。寒い日は頭髪に霧氷がこびりつき、手でそっと触れると、つら らのようにぽきりと折れる。そういう厳冬のさなかに、おおまかに繕った穴だらけの夏服で幾日も行軍 をつづけるというのは、奇跡にひとしかった。けれども、李乙雪は寒いという言葉を一度も口にせず、 行軍のたびに先頭に立って雪をかき分けた。宿営地ではいつも彼が真っ先に薪を集め、テントを張った。

そして機関銃班の仕事を終え、戦友たちが焚き火を囲んで座るのを見てから、自分の靴を焚き火にあて るのだった。

李乙雪の強靱な意志と同志的信義は天性のものなのではない。彼は民族がなめている受難と苦痛を生 活のなかで体験するうちに、搾取され抑圧される人びとへの同情心をいだくようになり、人民を愛し、 同志を愛し、隣人を愛することを学びとったのである。

李乙雪は南牌子会議以後、警護中隊の機関銃班に配属されて機関銃副射手を務めた。それ以来、彼は 司令部の護衛にすべてをつくした。彼は一生銃を手離さず、いついかなる時にも変わることのない姿勢 でわたしを護衛してきた警護隊員だった。わたしは北大頂子会議で 「苦難の行軍」 を総括するとき、李 乙雪を同志愛の模範とし、その品性と同志的信義を高く評価した。『鉄血』 の編集チームも、その創刊 号で彼の模範を称賛した。

朝鮮人民革命軍が強かったのはなぜかと問われるたびに、わたしは、信義によって結束した集団だっ たからだと答えてきた。われわれの団結が道徳と信義にもとづかず、ただ思想・意志の共通性によるも のだけであったなら、われわれはこれほど強くはなかったであろう。正規軍の支援もなく、国家的後方 もない最悪の状態で、日本帝国主義のような強敵を相手にした長期にわたる革命戦争でわれわれが勝者 になりえたのは、決して兵力が多かったり武器がすぐれていたからではない。数百万の正規軍を擁する 敵に比べれば、われわれの兵力は物の数ではなかった。彼我の武装には比べるまでもない大きな差があ った。ひとえに、忠誠と信義によって結合した思想・意志の結束があったからこそ、われわれは強敵を 打ち倒すことができたのである。

幹部と党員たちは、革命にたいする林春秋の忠実性と信義に見習う必要があると思う。彼は党と領袖 への信義を高い境地で具現した闘士であった。わたしが林春秋とはじめて知り合ったのは、1930 年の 秋、彼が朝陽川で逢春堂薬局の主人という看板を使って間島地区党および共青書記処の連絡任務を果た しているころだったが、これについてはすでに簡単に触れた。それ以来、彼は延々60 年近い年月をひた すら革命にささげてきた。「永遠なる同行者、忠実な援助者、りっぱな助言者」 という名句は 金正日同志がインテリに与えた評言であるが、これは林春秋のような人にぴったりの言葉 である。

林春秋は知識をもって朝鮮革命に大きく貢献した人物である。彼は知識を元手に、党建設活動や軍医 活動、それに著述活動もした。彼の生涯はそうした活動に終始した。林春秋の才能のうちできわだって いたのは、独学で修得した医術だった。彼が18 歳で医師の免許状を得て 「開業」 したといえば、いぶ かしく思う人もいるだろう。しかし、それはまぎれもない事実なのである。彼は医師の肩書きで大衆を 啓蒙し、連絡任務や革命家の育成にもあたった。彼が八道溝付近の竜水坪村へ行っていたときも、多く の人を推薦して遊撃隊に送ったというから、彼の医術がどんな性格のものであったかは推測するにかた くないと思う。

林春秋が遊撃区に来たとき、革命組織は彼を軍医に任命した。軍医として活動するあいだ、彼は多く の戦傷者や病人を治療した。14、5 歳のころから農作のかたわら独学で修得した医術だというのに、臨 床成績は上々だった。彼に一、二度治療してもらった人たちは、口をそろえて彼を名医だとほめた。林 春秋を名医だといっていちばん引き立てたのは崔春国だった。崔春国が重傷を負ったとき、その手術を 担当したのがほかならぬ林春秋だったのである。満州国軍に遭遇して、不幸にも敵弾を受けて大腿骨が 砕けた崔春国の傷口を見た人たちは、異口同音に脚を切断しなくては命が危ないと言った。だが、林春 秋はそれに同意しなかった。脚を切断してしまえば、遊撃隊指揮官としての責務を果たせなくなるのは もちろん、一個人としても不自由な体になるからである。彼は、崔春国が一万の敵兵にも替えがたい有 能な軍事指揮官であり、わたしがもっとも大事にしていた革命軍の猛将であることをなによりも重視し た。彼は崔春国の大腿部の切開を最小限にとどめ、砕けた大腿骨のかけらをコッヘルで摘み出す方法で 手術をした。こうして崔春国は一年後に大地を闊歩できるようになった。手術した方の脚が短くなって 多少引きずりはしたが、それでも行軍に加わり、戦闘の指揮にもあたった。林春秋の大胆な手術が大い に功を奏したわけである。

わたしも第1次北満州遠征を終えて三道湾能芝営にあった東満党書記処を訪ねたとき、林春秋にいろ いろと世話になった。彼は毎日のように効能のある草薬や滋養物をもってきては、誠意をつくしてわた しを介護してくれた。崔賢、呉振宇、曹亜範、曹道彦などの傷も彼の手当てを受けて全治した。

1937 年の秋から翌年秋までの丸1年、林春秋は金川県と臨江県、濛江県竜泉鎮の大森林地帯に点在 する人民革命軍の密営を巡り歩き、戦傷者たちの治療にあたった。往診に出かけることが多かったが、 その半径はたいてい数里に及んだ。いまでは医師が往診や衛生宣伝に出かけるときは救急車や乗用車な どを利用しているが、抗日戦争当時の軍医にはそんなぜいたくはできなかった。往診に出歩いて、「討 伐」 にでもあわなければ幸いだといえた。

いつだったか、林春秋は敵の 「討伐」 にあって九死に一生を得たことがある。黄溝嶺戦闘の戦利品の なかから崔賢がくれた綿入れの軍服一着を背のうの後ろに結いつけて峠を登っていたが、不意の機銃掃 射に見舞われた。「討伐隊」 の難を逃れたあとで背のうを開いてみると、なんと弾丸が7発も突きささ っていたという。背のうに綿入れがなかったら、間違いなく命を落としていたことだろう。

抗日戦争当時の林春秋は、党活動家としての対人活動やオルグとしての活動、それに著述活動も積極 的におこない軍・民教育に大いに寄与した。わたしは林春秋とたびたび接触しているうちに、彼に政治 活動家の資質があることを知った。事実、彼は入隊以前に延吉地方で大衆団体の活動家として大衆を教 育し指導した経験をもっていた。その点を考慮に入れ、わたしは彼に軍医の仕事とともに党活動もまか せた。彼は朝鮮人民革命軍党委員会委員、警護連隊党書記を務め、東満党工作委員会の活動にもたずさ わった。

東満党工作委員会は発足後、わたしの期待どおりには活動していなかった。それでわたしは南牌子会 議の後、林春秋を東満党工作委員会の責任ある地位につけた。この工作委員会は、間島地方の党組織と 大衆団体を拡大して人民の組織的結束をはかり、武装闘争の基盤を強化する一方、党創立の基礎をうち かためることを使命としていた。東満党工作委員会は、長白県党委員会や国内党工作委員会と同じよう な使命を果たした。東満党工作委員会の主な活動舞台は、間島と咸鏡北道一帯であった。遊撃根拠地の 解散後、間島地方の党組織はいずれも東満党工作委員会の傘下に入っていた。

林春秋はわたしとの連係のもとに、茂山、延社一帯と東満州地方に多くの政治工作員を派遣し、党組 織と大衆団体を拡大していった。小哈爾巴嶺会議以後、汪清、延吉、敦化、琿春、安図、和竜一帯での 小部隊活動のころ、われわれは東満党工作委員会によって結成された革命組織の援助を少なからず受け た。それらの組織が基本となって、われわれの活動を各面からよく支援してくれた。

林春秋は抗日革命当時の党活動経験を生かし、解放後の党建設活動でも大きな足跡を残した。最初は 平安南道党委員会の第2書記を務め、のちには江原道党委員会の委員長を務めた。彼が江原道党委員長 を務めているあいだ、境界沿線での活動には万事遺漏がなかった。解放直後、わたしは抗日革命闘士た ちに、できるだけ高い地位を与えないことにしていた。ほとんどの高位職は、国内の人士と海外で革命 活動にたずさわって帰国した人たちに与えた。わたしと一緒に武装闘争の試練をへてきた人たちに、有 能な人材が少なかったからではない。各階層の人士をすべて結集する統一戦線の政治のためには、そう いう措置が必要だったのである。にもかかわらず、北朝鮮に5つの道党しか存在しなかった当時、林春 秋に限って江原道党委員長の職責をまかせたのは、彼の党活動経験を重くみたからである。

林春秋の活動のうち、わたしがことさら感懐を新たにするのは、彼の著述活動である。彼は多くの書 物を著して次の世代に残した。『抗日武装闘争のころを回想して』 をはじめ、彼が残した著書のなかに は国宝としての価値を有するものが少なくない。林春秋が本格的な文筆活動をはじめたのは、『三・一 月刊』 の名誉記者になってからのことである。彼の文章は朝鮮人民革命軍の隊内機関紙・誌にたびた び掲載された。『三・一月刊』 に載った 「満身創痍の日本経済」 という文章は問題作と評された。林春 秋は戦闘、行軍、治療と息つく暇もない困難な環境のなかでも、寸暇を惜しんで毎日のようにわれわれ の活動内容をそのつど記録した。紙がなくなると、白樺の樹皮を手に入れてでも、朝鮮人民革命軍の闘 争日誌を整理した。その日誌が『抗日武装闘争のころを回想して』の基礎資料になったということは、 林春秋自身もかねがね述懐している。

魏拯民は生前、林春秋に朝鮮人民革命軍の活動史を書くよう何度もすすめたという。党活動も、軍医 の仕事も、名誉記者の活動もやるべきだということは言うまでもない、しかし、それに劣らず果たすべ き重要な使命は、朝鮮パルチザンの活動史を書くことだ、これを肝に銘じるべきだ、たとえ他の隊員た ちが決戦にのぞんで全員討ち死にするとしても、きみは生き残ってこの使命を果たし、自分の司令官の 業績と自軍の闘争史を後世に必ず伝えなければならないと力説したという。

林春秋は警護連隊の党書記の時期に、魏拯民のもとに長くとどまって彼の活動を補佐し、病気の治療 にもあたった。それで魏拯民は彼と一緒にいることを喜び、いつもそばにいてくれるよう頼むのだった。

林春秋はわたしと魏拯民の連係を保ち、朝鮮人と中国人の友好を強め、両国武力の共同戦線を強化する うえできわめて重要な役割を果たした。

林春秋が著した 『抗日武装闘争のころを回想して』 をわたしがはじめて手にしたのは、1950 年代 の末ごろだった。当時はまだ朝鮮人の頭に事大主義の影響がかなり残っていた。そのうえ革命伝統教育 が不十分で、人民と青少年のあいだにはわれわれの武装闘争の歴史がほとんど知らされていなかった。

少なからぬ幹部は 『ソ連邦共産党略史』 については、『イスクラ』 がどうの、ブハーリンがどうのと、 そらんじるほどだったが、南湖頭でどんな会議が開かれたのかと問うと、はっきり答えられない有様だ った。こういうときに 『抗日武装闘争のころを回想して』 が出版され、人民の面前にはじめて抗日革 命の輪郭を描き出してみせたのである。それ以来、この著書は抗日革命史の研究になくてはならない原 典となった。林春秋はこの書物を著すことによって、抗日革命に参加したすべての共産主義者と愛国的 人民にたいする信義と義務を果たそうとしたのである。彼は自分自身を顕示したり、自分の功をひけら かすためにではなく、朝鮮人民の万年大計の財富となる革命伝統を次代によりりっぱに継承させ、完成 させようという気高い目的をもってこの書をものしたのである。

林春秋は、金正淑、金哲柱の活動を基本内容とする回想記をはじめ、わが党の革命伝統と関連する多 くの図書と教育資料を書いた。そして多くの資料を考証し体系づけ、わが党の歴史に輝く偉勲を立てた。

彼は、青年共産主義者をモデルにした 『青年前衛』 という多部作の長編小説まで書いた。

わが党はいま林春秋を、われわれが切り開き勝利に導いてきた抗日戦の輝かしい革命史の権威ある立 証者、有力な保証者と評価している。この評価は正確かつ正当なものだと思う。

正直なところ、林春秋は困難な抗日革命に参加せずとも、医術だけで十分生計を立てられる人だった。

けれども、彼は数十数百回もの死線をくぐりぬけながらも、革命の道から一歩たりとも退いたことがな く、領袖と同志たちへの信義に一度も背いたことがなかった。彼は竜井監獄にとらわれていたとき、自 分は死んでも革命は勝利すると考え、自分一個人は死ぬことがあっても、革命組織と同志たちはなんと してでも保護しなければならないという観点から野蛮な拷問に耐えぬいた。しかし、革命を裏切った者 たちは、自分が死んでしまえば革命も無意味だと考え、組織と同志たちに害を及ぼしてでも自分は生き なければならないとして拷問に屈した。これが、真の革命家とえせ革命家の違いなのである。

わたしは林春秋が信義に忠実な人間であるということを解放後、いろいろな事実を通じていっそう深 く知ることができた。彼が延辺朝鮮族自治州の成立準備のため中国東北地方へ全権代表として派遣され ていくとき、東満州へ行ったら抗日革命烈士の子女たちを一人でも多く探し出して祖国に帰すよう頼ん だ。林春秋は中国人民が苦しい国内戦争を進めているとき、前線援護と政権機関の組織、教育事業の基 礎づくり、各階層人士との活動など多忙な日々を送りながらも、抗日革命烈士の子女を残らず探し出し て祖国に帰した。さらには、符岩洞時代の知己であり革命戦友でもある金正淑の兄弟を探そうとして新 聞広告まで出した。幹部協議会を開くときは必ず、祖国に革命家遺児学院が設立されることを知らせ、 一人でも多くの遺児を探そうと、自ら遠出の身支度をととのえ、間島に散らばる村落を足が棒になるほ ど訪ね歩いた。

ぼろをまとった見すぼらしい姿の子どもたちが広告を見てやってくるたびに、林春秋はその子らをし かと抱きとめ、「おまえは誰それの息子だったな。おまえは誰それの娘だね。金日成将軍がどん なにおまえたちを探しているかわからないだろう」 と言って、子どもたちに頬ずりをしたという。そう して一人また一人と探し出した遺児が数十名になったとき、彼は喜びを隠しきれず、「将軍、第一次と して、探し出した遺児たちを連れてただちに祖国にもどります」 と打電してきた。わたしはその短い電 文から、革命戦友への信義を守った林春秋の心の高ぶりと喜びを感じとることができた。

林春秋は多数の遺児と革命烈士の遺族を探し出し、祖国のふところに抱かせた。そのとき学院に入学 した子どもたちが、いまは党中央委員会政治局委員になり、道党委員会責任書記や人民軍の将官にもな って、各自の任務をりっぱに果たしている。

祖国解放戦争の時期、林春秋はひところ地方で活動したことがあるが、保健省主管の会議に出席する ため平壌に来るたびに牡丹峰に登り、抗日烈士の眠る墓地の芝生に白い布を敷いて仮寝の夜を過ごした という。市内の旅館などには最初から泊まろうとさえしなかった。当時の牡丹峰には、金策、安吉、崔 春国、金正淑らの墓があった。野天で、それも前後左右に戦友たちの眠る丘の上で、白布一枚に体を横 たえる露宿なのだから、眠れるはずがない。それでも林春秋は、平壌に来ると決まって牡丹峰へ登り、 戦友たちの横に寝床をとるのだった。そして、後日彼から聞いたことだが、「戦友たちよ、祖国がきみ たちをもっとも必要としているときに、どうしてここに眠っているのだ。将軍はいま朝鮮の運命を双肩 にになって孤軍奮闘している。それがわからないのか」 と、墓場の戦友たちとこもごも語り合ったとい う。

祖国と人民の運命を決する瀬戸際にあったときなので、牡丹峰の草木の陰に抗日烈士の霊が眠ってい ることに気をとめる市民はそれほどいなかった。まして、大柄ないかつい男がときおり、その霊を抱い て夜を過ごし、明け方、牡丹峰の丘を下りてくるのを知る人はいなかった。

わたしはそんな話を聞いて、林春秋こそは信義に厚い真実の人間であり、闘士であると思った。これ が、わたしの言わんとする抗日遊撃隊式の信義である。この世には人間の信義と愛にまつわる美談がい くらでもある。しかし、抗日革命闘士たちのそれをしのぐ崇高かつ真実で美しい信義をわたしはいまだ に知らない。

林春秋はいつも、自分を金正日同志の老いたる弟子と称し、その指導を受けようと意識的に 努力した。金正日同志もまた、林春秋を心から愛し尊敬した。金正日同志はいつも、

林春秋同志が無事でいてくれるだけでも、わが党と国家にとっては貴重な宝になるとして、彼を手厚く いたわり、見守った。林春秋への金正日同志の格別な関心と配慮には、老革命家にたいする指 導者の高潔な信義が反映されている。それは、白頭山ではぐくまれた抗日遊撃隊式の信義である。しか し、すべての人が革命的信義と節操を守りとおしたのではなかった。部分的ではあったが、われわれの 隊伍からは裏切り者や落伍者も出た。

口を開けば革命を唱えていた者が変節したという話を聞かされると、隊員たちはみな失望したもので ある。昨日まで 『インターナショナル』 を口ずさみ、革命の勝利を言いたてていた者が、にわかに敵 の手先になりさがるとき、兵士、指揮官たちが味わう苦痛と挫折感はなんとも表現しがたいものだった。

しかし、幾人かの裏切り者が出たからといって、十年かけて築いた城壁が崩れ去るものではない。わ れわれは隊伍の思想・意志の統一と道徳的・信義的結束の強化をもって敵の白色テロにこたえた。われ われにはそれ以外に勝つ道がなかったのである。