人民に支持されない軍隊は決して強い軍隊になれず、 戦いで勝者になりえない。 これは抗日革命闘 争の全期間、 わたしが骨身にしみて体験した真理である。 わたしは抗日武装闘争の日々、 「魚が水を離 れては生きていけないように、 遊撃隊は人民を離れては生きていけない」 と一貫して主張してきた。
それを一言に圧縮した標語が 「擁軍愛民」 である。 「擁軍愛民」 とは、 人民は軍隊を擁護し、 軍隊は人 民を愛護するという意味である。
われわれが白頭山で戦っていたとき、 人民の支持声援がいかに積極的で献身的なものであったかは 上述したとおりである。 古今東西の遊撃戦史上、 類例をみない擁軍の熱意と援軍の気風はどこから生 まれたのであろうか。 果たして、 なにが人民をして擁軍の主体、 援軍の担当者となり終始一貫、 人民 革命軍を命がけで支持声援させたのであろうか。
その理由はまず、 革命軍の人民的性格に求めるべきであろう。 人民の息子、 娘で組織された軍隊、 人民の自由と解放のために戦う軍隊、 人民の生命、 財産を守る軍隊であるからこそ、 そういう軍隊を 人民が支持し援助するのである。 しかし、 その構成と使命が人民的であるからといって、 人民がすべ ての軍隊を命がけで擁護し支援するわけではない。 表看板に 「人民」 という文字が書かれていても行 状が悪く、 軍紀が乱れていれば、 人民はそういう軍隊をよい目では見ない。 人民を心から愛し敬い、 人民の利益と生命、 財産を心から守る軍隊であってこそ、 人民から惜しみなく支持され声援される。
朝鮮人民革命軍はそういう資質をすべてそなえていた。 人民革命軍の軍紀で核をなしていたのは徹 底した愛民性である。 人民革命軍の指揮官と隊員たちは、 各自の存在価値を人民に求めた。 彼らは、 人民が存在しているからこそ自分たちも存在し、 人民が幸せであってこそ、 自分たちも幸せになれる とみなした。 人民の喜びがすなわち自分たちの喜びとなり、 人民の悲しみがすなわち自分たちの悲し みとなった理由はまさにここにある。 したがって、 人民を離れては朝鮮人民革命軍そのものの存在が 無意味であり、 なんの価値もなかった。 また人民を離れては、 遊撃隊がその存在を維持してゆくこと もできなかった。
われわれは遊撃戦争を開始した当初から人民のふところを安らぎの場とし、 人民の支持声援を生命 線とみなしてきた。 そもそも遊撃隊の母体そのものが人民なのである。 われわれの父母もほかならぬ 人民であり、 朝鮮革命の保護者もほかならぬ人民であった。 したがって、 軍民一致はわれわれにとっ て死活の問題であった。 軍隊が人民を愛し、 また人民に支持されるのは、 戦って勝つか負けるかとい う勝敗の問題であるまえに、 生き残るか滅びるかという存亡の問題であった。 われわれがこれを重視 しなかったなら、 敵がよくうそぶいた 「蒼海の一粟」 のような微々たる存在となり、 流れただよった 末に四散してしまったであろう。
われわれは遊撃戦争の過程で、 軍民関係や将兵関係、 部隊の日常生活において革命軍隊の規範と行 動準則となる思想を新たに成文化する必要に迫られた。 それで作成し公布したのがほかならぬ朝鮮人 民革命軍の暫定条例である。 条例を作成した基本目的は、 革命軍の人民的性格を強め、 愛民性を法文 化し、 それをしっかり維持しようとするところにあった。 もちろん人民革命軍は正規軍ではなかった が、 それに劣らぬ兵力と整然たる軍事編制をととのえていた。 多数の隊員を指揮官の命令や指示、 慣 習の力によってのみ動かすことはできなかった。
1930 年代の中期といえば、 敵が西間島で集団部落の建設をおし進め、 人民革命軍の影響力を防ぐた めの 「匪民分離」 に総力をあげていた時期である。 日本帝国主義者は遊撃隊と人民のあいだにくさび を打ち込み、 遊撃隊の生命線となっている援護ルートを遮断するために手段と方法を選ばなかった。
人民革命軍のイメージを汚し、 革命軍を軍事的、 政治的に、 経済的に封鎖するためなら、 手段を選ば なかったのである。
人民革命軍が匪賊のようなまねはできない真の人民の軍隊であり、 自分たちの軍隊とは比べようも なく道徳的な軍隊であることは彼らも承知していた。 にもかかわらず、 人民革命軍を 「匪賊」 と中傷 するところに敵の狡猾さがあり、 人民革命軍の政治的・道徳的権威を失墜させようとする彼らの下心が あったのである。
われわれが軍民一致を生命線としていたとすれば、 敵は 「匪民分離」 を執拗に画策していた。 日本 帝国主義者は馬賊団の罪業までわれわれになすりつけ、 人民革命軍の人民的性格を傷つけようとした。
敵のデマ宣伝によって損傷した革命軍のイメージを取りもどし、 それを最高にまで引き上げるために は、 人民革命軍に固有な人民性をいっそう発揮させる必要があった。 人民性を強く発揮させるために は、 それにたいするわれわれの要求を成文化して定着させなければならなかった。
以前、 満州各地に割拠していた独立軍団体は軍民関係においてよい印象を与えもしたが、 反面、 好 ましからぬ印象も少なからず残した。 義兵や独立軍にたいし人民がまま好ましくない印象をいだくよ うになったのは、 彼らが軍民関係において道義をわきまえず、 人民に過重な経済的負担をかけたこと が主な原因であった。 ある独立軍の指揮官たちは、 正義府の某中隊長のように、 軍資金や独立運動寄 付金の名目で人民から集めた莫大な金品を個人の享楽のために使い果たしていた。 日本帝国主義者は このような非行までも人民革命軍の誹謗中傷に利用した。 独立の旗を振って歩きまわる者はすべて、 人民の財産を略奪して私腹を肥やす強盗だと、 独立軍と人民革命軍を同列において非難した。 敵によ ってかぶせられたそういう汚名をすすぐためにも、 われわれは人民革命軍の人民的性格をいっそう際 立たせなければならなかった。
われわれが暫定条例を作成することにしたいま一つの目的は、 革命軍内に新入隊員が急増した事情 とも関係していた。
朝鮮人民革命軍は人民に被害を与えるような戦闘は絶対にしなかった。 これを知っていた敵は戦闘 で守勢に立たされると、 村落に入って民家の壁や垣根にへばりついて抵抗したりした。 しかし、 われ われはいかに戦況が不利になっても、 村や民家をよりどころにして戦おうとは決して考えなかった。
1934 年の初夏、 人民革命軍が羅子溝戦闘に先立ち三道河子村に入ったときもそうだった。 敵は羅子溝 へのわれわれの進出を食い止めるため、 おびただしい兵力を繰り出して攻撃してきた。 そのときもわ たしは、 わざわざ敵を村の外の野原におびきだして撃滅するようにした。 そうしなければ、 村人たち に被害が及びかねなかった。 そのため敵兵を半分ほど逃がしてしまった。 これと似通ったことは一再 ならずあった。
人民革命軍は村落にちょっと立ち寄る場合も、 人民の解放のために戦う軍隊だといって威張るよう なことは絶対にしなかった。 背のうをおろすが早く、 水汲み、 かまどの火入れ、 庭の掃除、 薪割りな どをした。 そういうことでは司令官も例外ではなかった。 われわれはつねに指揮官自らが隊員の鑑と なり、 模範を示して彼らを導くように教育したのである。 このように人民を愛し助けることは、 遊撃 隊草創期からの朝鮮人民革命軍隊員の第一の本分、 戒律とされてきた。
ところが、 われわれが白頭山地区に進出した初期、 一部の新入隊員のあいだに軍民関係を傷つける 好ましくないことがときどき起こった。 新入隊員のなかには農村青年もいれば、 かつての反日部隊出 身もおり、 満州国軍の造反兵士もいた。 初歩的な訓練過程もへていないさまざまな出身の新入隊員の なかには、 ときおり革命軍の伝統的な規律に反する行為が現れ、 部隊の権威を失墜させることがあっ た。
部隊が十九道溝六鉄炮洞の李老人の家にしばらく留まっていたときのことである。 李老人はたまた ま取入れの仕事を手伝うために来たという、 甥にあたる年若い青年をわたしに紹介した。 靴やゲート ルが新しいのをみると、 取入れの準備をよくしてきたに違いなかった。 その若者との対話がとても面 白かった。 どんなことでも口さえ開けば、 数言でその特徴を言い表わす大変な能弁だった。 外に出て しばらくして帰ってきた若者を見ると、 新しいゲートルや靴が古いものに替えられ、 機嫌もよくなか った。 わたしがなにかあったのかと聞いても、 もじもじしながら返事を避けるのだった。 それで金正 弼小隊長に、 わけをくわしく調べてみるよう指示した。 金正弼が帰ってきて報告するには、 満州国軍 の造反兵士の一人がその若者を強迫してゲートルや靴を取り替えたのだが、 そんなとんでもない非行 を働いておきながらも、 小隊長の批判をすずしい顔で聞き流していたというのである。 金正弼はひど く憤慨していた。
「軍隊が民衆のために山中で苦労しているのだから、 民衆が軍隊に仕えるのはあたりまえではないか、 満州国軍ではこんなことはありふれたことだ、 と弁解するではありませんか」 わたしは大きな衝撃を受けた。 かつて外国を占領した侵略軍の頭目たちが占領地域での殺人、 強盗、 強姦、 略奪などの犯罪行為を合法化し、 部下にそれを許した例は多い。 中日戦争と太平洋戦争の時期、 日本軍は戦地に従軍慰安婦まで連れて歩いた。 軍民関係を汚すことについては満州国軍も日本軍に劣 らなかった。 殺人、 放火、 略奪をこととする軍隊で非行に慣れきっていた兵士なのだから、 ゲートル や靴などを取り替えるくらいのことはいくらでもありうることだった。 しかし人民革命軍では、 そう いうことが決して見過ごされてもよい失策とはみなせなかった。 愛民を鉄則とするわれわれの立場か らすれば、 それは重大な違法行為であった。 わたしは革命軍を代表して李老人に謝罪せざるをえなか った。
「ご老人、 これはわたしたちの仕付けが悪かったせいです。 ご立腹でしょうが、 ふつつかなわが子の 粗相と思って許してください」 すると、 老人は目を丸くしてわたしの言葉をさえぎった。
「そんなことを言われては、 かえってわしのほうが恐縮です。 年中、 山で戦う兵隊さんが靴くらい取 り替えたのがどうだというのです。 許しだなんて、 とんでもないことですわい」 こんなことがあって以来、 わたしと老人の親交はいっそう厚くなった。 わたしは十九道溝に行くと きは決まって六鉄炮洞の李老人を訪ねて挨拶をしたものである。
部隊ではその村へ行って給養物資の工作をすることが多かった。 いつかはそこでニワトリを手に入 れてきたことがあった。 わたしは病弱な魏拯民のために、 そのニワトリを丸蒸しにするようはからっ た。 そのとき、 彼は病気をこじらせてわれわれの部隊にきていた。 ところが、 ニワトリを手に入れて きた隊員は、 飼い主が辞退するので代金を払えなかったというのである。 確かめてみると、 それもま た例の李老人であった。 給養工作の経験を積んでいる隊員だったが、 事の処理がずさんだった。 わた しはその隊員が属していた給養部隊の小隊長を連れて李老人を訪ねていった。 脱穀をしていた老人の 手伝いをしてから、 小隊長に指示して、 「先日はニワトリの代金を払えず申し訳ありません」 と言って 10元を差し出させた。 そのころニワトリ1羽の市価は1元5毛くらいだったので、 2羽で3元であるが、 老人の暮らしの足しにと思って代金をたっぷり支払わせたのである。 ところが、 それがかえって老人 の怒りを買ってしまった。
「わたしがこの金を受け取るなら朝鮮人とはいえません。 イタチにも面子があるというのに、 この老 いぼれの面子も少しは考えてくだされ」 「ご老人、 受け取ってください。 親鶏とわかっていたらお返ししたはずですが、 それとも知らず使っ てしまいました。 春にひよこをかえす親鶏をつぶしてしまったのですから、 わたしたちがご老人を破 産させてしまったようなものではありませんか」 わたしは、 やっとのことで老人の手に金を渡すことができた。 老人はうるんだ目を袖で拭き、 2年 前の強奪事件について話すのであった。
ある日、 彼は狩りに出て鹿1頭を仕留め、 それをある金持に売った。 そのうわさを聞いた兵隊たち がどやどやとやってきてやみくもに銃剣を突きつけ、 金を出さなければ撃ち殺すと脅かした。 それで 鹿を売った金を残らず取り上げられてしまった。 それ以来、 軍隊という言葉を聞くだけでもかぶりを 振るようになった。 しかし、 人民革命軍が人民を大切にするのを目にしてからは、 こんな軍隊ならな にも惜しむことはないと考えるようになったという。 そういうおりにたまたま、 革命軍が黒いニワト リを求めているということを耳にした。 それで、 こんなときこそ気持だけでも誠意を示そうと親鶏を 差し出したのに、 かえって3倍以上の代金をもらったのだから、 民草としての道義にもとるという自 責の念にかられると言うのだった。 老人の話を聞いて、 その誠意をむげにしたのではなかろうかとい う気もした。 しかし、 人民の誠意には必ず償うことにしている革命軍の伝統的な規範に反して、 老人 の誠意だからと受け入れるわけにはいかなかった。 しかし一部の新入隊員は、 革命軍への人民の私心 のない支持声援を当然のことのように思い、 彼らの境遇や生活状態にたいする慎重な考慮もなしに援 護物資を軽々しく処理していた。
その代表的な例が 1936 年の秋にあった薬水洞での 「牛事件」 である。 そのころ部隊は、 長白県十九 道溝の地陽渓の奥に留まっていた。 われわれは食糧不足で難儀していた。 ところがある日、 乾葉を拾 いに薬水洞の方に出かけた2人の新入隊員が1頭の牡牛を引いてさもうれしげに帰ってきた。 わけを 聞いてみると、 遊撃隊が乾葉汁で飢えをしのいでいるということを知った薬水洞の農民たちがよこし たものだった。 最初、 彼らは牛を受け取ろうとしなかったが、 農民たちが自分たちの誠意だからどう か受け取ってくれと、 無理やりに牛の手綱を握らせるので、 仕方なく引いてきたと言うのである。 片 方ではすでに釜が沸いていた。 幾日も穀粒を喉に通していなかったときなので、 新入隊員は言うまで もなく古参の隊員や指揮官までも、 久しぶりに牛肉が腹いっぱい食べられると喜んでいた。 わたしも やはり、 乾葉汁を一杯すすって夕食にかえなければならない隊員たちのことを思うと、 早く牛をつぶ せと命じたい気持だった。 しかし、 空を仰いで悲しげに鳴く牡牛の飾り付けをあらためて見て気が変 わった。 念入りにつくった鼻輪、 赤の布地をきれいに巻きつけたおもがい、 黄色い鈴や硬貨などには、 飼い主のこまやかな愛情がこもっていた。 いまにも牛をばらして釜に入れんばかりに腕まくりで立ち まわっている隊員たちを集め、 わたしは静かに言った。
「牛を飼い主に返そう」 牛を引いてきた2人の隊員は唖然としてわたしの顔を見つめた。 他の新入隊員の顔からも笑みが消 え、 失望の色がただよった。 幾日も空き腹にたえてきた彼らにとって、 それはまったく意外な命令だ ったのであろう。 溜め息をもらしている新入隊員たちに、 わたしはこう諭した。
わたしがなぜ牛を飼い主に返そうというのか。 それはこの牛が農民の大事な財産であるからだ。
飼い主がどんなに牛を大事にしていたかを見たまえ! あの鈴はおそらく飼い主の家に代々大事に受 け継がれてきたものに違いない。 硬貨はたぶん、 その家のおばあさんが嫁いでくるとき巾着の紐につ けてきて一生大切にしていたものだろう。 朝鮮の母親たちはそういうふうにして、 牛にたいする愛情 を表わすのだ。 牛を返さねばならないいま一つの理由は、 薬水洞農民の営農がこの牛に多くかかって いるからだ。 われわれがそういうことを考慮せず、 人民の誠意だからと牛をつぶしてしまったら、 ど うなるだろうか。 飼い主とこの牛に頼っていた隣近所の農民たちは、 明日から牛の代わりに仕事をし なければならなくなるだろう。 牛が運ぶ荷物を人が担いで運び、 牛が耕していた畑を鍬やホミで起こ そうとどれほど苦労するだろうか。 こういうことを考えれば、 この牛をつぶしてわれわれの心が安ら かであろうか。 きみたちもほとんどが貧しい農民の息子なのだから、 汗水たらして苦労する父母のこ とを考えてみたまえ わたしの言葉に呵責を受けたのか、 牛を引いてきた隊員は2人とも目をうるませて、 自分たちが間 違っていた、 処罰してほしい、 と言った。 わたしは処罰の代わりに、 薬水洞に行って牛を返すよう彼 らに命じた。
当時、 わたしは新入隊員があると、 しばらくの間は彼らと起居をともにし、 ある程度鍛えてから中 隊や連隊に配置していた。 一度に数十名も入隊させるときはそうできなかったが、 3、 4名の少ない 人員を入隊させるときは、 たとえ数日なりとも一緒に連れていた。 そうすれば、 彼らの家庭の事情や レベル、 性格、 趣味などを知り、 適切な教育対策を立てることもできた。
1936 年 10 月ごろ、 一度に十余名の林業労働者が入隊したことがあった。 わたしは、 彼らのうち年若 い3人を入隊当日から連れていた。 ある日、 彼らは歩哨勤務を終えての帰り道に、 畑の主人の許しを 受けずにトウモロコシを取り、 背のうにつめて帰ってきた。 部隊の食糧が切れて、 司令官同志までも 水で飢えをしのいでいるので、 トウモロコシでもたっぷり召し上がってもらいたかった、 と言うのだ った。 驚いたことに、 彼らは人民の財産に手をつける違法行為をしておきながら、 かえって司令官の ために、 部下の道義をつくしたかのように思い込んでいたのである。 わたしは、 司令官のためにとい う彼らの気持は十分理解できたが、 それを受け入れることはできなかった。
「きみたちの誠意はありがたい。 しかしきょう、 きみたちは人民の利益をはなはだしく侵害したのだ。
主人の許しも受けず背のう3つ分のトウモロコシを取ってくるとは、 こんな無法がどこにあるという のだ!」 「わたしたちは朝鮮の独立のために苦労している軍隊なのに、 これしきのことはたいしたことではあ りません。 以前、 うちの村では独立軍のために金製の品物まで納めたものです。 わずかなトウモロコ シのことで文句を言う農民がいるとすれば、 それは親日派と変わりありません」 しっかり者に見えるチビ隊員が3人を代表して言うのだった。 彼らはかわるがわる一言ずつ口にし たが、 それには少しも反省の色はなかった。 祖国解放のために戦うことを鼻にかけて人民の利益を侵 す彼らの間違った観点を正してやらなければ、 これからどんな変事や弊害が生じるかわからなかった。
わたしは1時間余り彼らを説諭したのち、 取ってきたトウモロコシをそっくりもとの畑に返すよう 命じた。 そして中隊長を彼らについて行かせた。 数時間がたっても彼らは帰ってこなかった。 わたし はなにか事故でも起きたのではなかろうかと心配になり、 伝令兵を先立たせてトウモロコシ畑に行っ てみた。 すると、 彼らはトウモロコシを畑のへりに置いて座っていた。 中隊長にわけを聞いてみると、 畑の主を待っているのだと言うのであった。 わたしは隊員たちを見まわした。 彼らの目はみな赤らん でいた。 そのとき、 わたしはふと八道溝の小学校時代に読んだ 『三字経』 の 「人之初性本善」 という 最初の文句を思い出した。 人間の本性はもともと善だという意味である。 この文句が示しているよう に、 人間の本来の性はじつに美しいものである。 宿営地に帰る道々、 わたしはあらためて3人の隊員 にこう強調した。
「今日のことを教訓にして、 これからは人民をもっと愛するのだ。 われわれが人民をないがしろにす れば、 人民はわれわれに背を向ける。 人民から見放されることほど恐ろしいことはない。 革命家にと って最大の悲劇は人民の愛を失うことだ。 われわれが人民の愛と支持を失えば、 いったいなにをより どころにして戦えるのか」 その晩、 彼らは寝床につくまで一言も口にしなかった。 それでいちばん年若い隊員の手を取って、 どうして口をつぐんでいるのだ、 今日のことが胸につかえているのではないのか、 と聞いてみた。
「そうではありません。 この軍隊は本当にりっぱな軍隊だとしみじみ感じたのです。 これからは二度 とあのようなことはしません」 彼は涙ながらに、 きっと人民から愛されるりっぱな遊撃隊員になってみせると誓うのだった。
革命軍の体面を汚す行為は、 軍民関係にのみ現れたのではない。 連隊長クラス以上の指揮官のあい だには、 兵員が増えてくると指導を下部に接近させず、 一般的な指示を下すだけで兵士大衆とよく溶 けあわない傾向が現れるようになった。 果ては一部の指揮官は、 もう隊伍が数百人に増えたのだから、 位によって上下の服装も寝食も別にすべきであって、 ともすると極端な軍事民主主義が助長されて隊 伍が統率できなくなりそうだ、 とまで言いだした。 新しく登用された一部の初級指揮官のあいだには、 高い官位にでもついたかのように尊大ぶる傾向がたびたび現れた。
1936 年の秋、 長白地方で活動していた部隊が十四道溝付近を出発し、 密営へ向けて夜間行軍をして いたときのことである。 出発に先立って斥候隊を任命し、 行軍中の注意事項とともに、 とくにタバコ を吸わないよう強調した。 夜間行軍中にタバコを吸うのは、 敵に自らをさらけだす行動にひとしかっ た。 隊伍がある山の曲り角を折れているとき、 隊列の先頭を占めていた中隊の方から急にタバコの臭 いがただよってきた。 しんがりの司令部の目が届かない間に第二中隊の誰かがすばやくタバコを吸い だしたに違いなかった。 翌朝、 中隊長たちを呼んで調べてみると、 驚いたことに平隊員ではなく中隊 長の李斗洙と金沢環が禁煙指示に違反した張本人であることを率直に白状した。 なにかをはじめると、 まずタバコをくわえるのが彼ら2人の習慣であった。 わたしは彼らをきびしくたしなめた。
「ここできみたちに禁煙の必要性についてくどくど説明するつもりはない。 昨晩、 もし敵がきみたち のタバコの火を発見したり、 タバコの臭いをかぎつけて不意討ちをかけてきたら、 部隊はどうなった であろうか。 われわれがいま戦っている抗日戦争は意志と規律の戦いだといえる。 抗日戦争は祖国を 解放しようとする革命的意志と、 他国への占領を合法化し、 それを永久化しようとする侵略的野望と のきびしい対決だ。 この対決でわれわれが勝利を重ねているのは、 ほかならぬわれわれの意志と規律 が敵のそれより強いからであり、 政治・道徳の面でわれわれが敵よりはるかにすぐれているからだ。 と ころが、 われわれの隊伍にきみたちのように意志薄弱な者がつぎつぎに現れたら、 どういう結果にな るだろうか。 規律が緩んだ意志の弱い軍事集団は敵との戦いで必ず敗れるものだ。 きみたちは大の愛 煙家と自称しているが、 きみたちほどの愛煙家は平隊員のなかにいくらでもいる。 きみたちがタバコ を吸うときは彼らも吸いたいに決まっている。 しかし、 平隊員のなかには昨晩の行軍中にタバコを吸 った者は一人もいない。 これはなにを意味するのか。 きみたちが自分を特殊な存在と思い込んでいる ことを意味する。 軍律を守るうえで特殊というものはありえない。 ところが、 きみたちは特殊な存在 のように振舞った。 こういうことを許すなら、 それは指揮官の特権を許容することになる。 われわれ は特権というものを認めない。 それを認めれば、 下級が上級を信じなくなる。 損害をこうむるのは将 兵一致、 擁幹愛兵だ。 きみたちの誤りは重大であるのか、 ないのか」 李斗沫と金沢環は誤りの重大さを認め、 どんな処罰でも受けると言った。 「無論、 きみたちに処罰を加えることはできる。 しかし、 それは簡単な方法だ。 わたしは同じ誤りを 二度と繰り返さないよう、 きみたちに心から警告する。 これを処罰だと思いたまえ」 その日、 わたしは李斗洙に 「禁煙団団長」 の任務を与えた。
同じころ、 連隊政治委員金平の伝令が、 またも極端かつ無規律な上下平等を主張して部隊の空気を 乱した。 許範俊というその伝令は、 少し年がいっていて武装闘争にもわりと早く参加した旧隊員だっ た。 もとはわたしの伝令であったが、 動作が鈍くて司令部の伝令には向いていないといって、 金平が 自分の連隊に連れていった。 金平は許範俊の後任として自分の伝令である李権行を司令部によこした。
許範俊は金平のもとに移ってから、 ときおり指揮官たちに口答えをして悶着を起こした。 連隊の指揮 官たちが連絡任務を与えると素直に受けとめず、 不遜な態度を取ることもあるとのことだった。 指揮 官たちはたまりかねて、 彼の問題を上申した。 これをそのまま伏せておいては、 上下間の友愛にひび が入り、 擁幹気風が消えうせてしまう恐れがあった。
こうした諸々の理由と人民革命軍内に生じた新たな環境を十分に考慮したうえで、 朝鮮人民革命軍 の暫定条例を作成し公布したのである。 それは、 白頭山に進出してはじめて迎える正月の準備をおろ そかにすることはできないといって、 金周賢が奔走していたときだから、 おそらく 1936 年の末ごろだ ったと思う。 金平が草案を作成してきたが条例という感がうすかった。 それで 15 条項からなる草案を 作成しなおした。 以後さらに補充、 完成することを前提にして暫定条例とした。
朝鮮人民革命軍の暫定条例には、 革命軍の性格と使命、 指揮官と兵士の日常生活における規範と行 動準則が詳述されていた。 この条例でわれわれがとくに注意を向けたのは、 軍民関係と将兵関係の問 題である。 それは暫定条例の各条項に革命軍の人民的性格が強調されていることをみてもわかる。
本軍は、 日本帝国主義者とその手先に反対し、 祖国の独立と人民の自由と解放のために戦う朝 鮮人民革命軍である。
これは条例の第1条である。 人民革命軍の組織原則を規制した条例の第2条にも、 本軍は朝鮮人民 のすぐれた息子、 娘で組織された真の朝鮮人民の革命軍隊である、 と明記されている。
軍民関係についてはつぎのように明記した。
本軍は、 「魚は水を離れては生きていけない」 ということを肝に銘じて人民の生命、 財産を守り、 人民と生死、 苦楽をともにし、 軍民が一致団結して祖国の独立と人民の解放のために戦う。
将兵一致の条項はつぎのとおりである。
本軍の指揮官と隊員は擁幹愛兵、 将兵一致の精神で軍規と風紀を自発的に守る。
暫定条例には、 日本帝国主義者とその手先の財産を没収して抗日戦争の経費に充当し、 その一部で 貧しい人民を救済するという条項もある。 また、 朝鮮人民革命軍との共同作戦を望む部隊と、 本軍に 共鳴する国と人民との共同戦線をはかるという条項もある。 その他にも暫定条例には、 人民革命軍の 軍事編制と各級指揮官の任免にかんする司令部の権限、 入隊資格と入隊および脱隊手続き、 処罰対象 の範囲などが規定されている。 また、 朝鮮人民革命軍の旗、 記章、 軍帽の星の模様も規制されている。
暫定条例の目的は明白であった。 それは人民の利益をいささかも侵さず、 軍民、 将兵が一つとなり、 自力更生、 刻苦奮闘の革命精神を発揮して、 人民が渇望してやまない祖国解放の歴史的偉業を必ずわ れわれの力で達成しようということである。 暫定条例に貫かれている基本精神は愛であった。 すなわ ち、 人民への愛、 兵士への愛、 指揮官への愛を鉄則とせよということであった。
わたしの体験によれば、 軍民一致や将兵一致は規定や原則だけではなしえない思想・感情の一致性で ある。 これをなすには、 軍隊と人民、 指揮官と兵士、 上級と下級のあいだに互いにいたわり、 大切に し合う人間的な情愛が同時に通わなければならない。 心から愛し合い、 親しみ大切にする人間的な情 愛こそが、 思想をかたく結びつける強力な接着剤となるのである。 こうしてみると、 朝鮮人民革命軍 の暫定条例は誰かを統制し取り締まるための規則や法文ではなく、 軍隊と人民、 指揮官と兵士をあつ い愛情でつなぐ愛の法典、 愛の憲章といえる。
わたしは朝鮮人民革命軍の暫定条例を作成し公布した後、 すべての指揮官と兵士にそれを厳守する ようにさせた。 それ以来、 軍民関係、 将兵関係は切っても切れず、 離れようにも離れられないあつい 血縁的な関係にいっそうかたく結びつけられた。 指揮官と隊員は餓死、 凍死の脅威にさらされるきび しい状況にあっても、 みだりに人民の財産に手をつけなかった。 ときにはやむをえない事情で、 住民 の了承を得られない状況のもとでわずかのジャガイモでも掘り出していくときは、 お詫びの書き置き と、 元値の何倍分かの金を畑のへりかジャガイモの穴ぐらに置いていったものである。 村落に立ち寄 ると、 住民を助けることから先に考え、 供応を受けようなどとはつゆほども考えなかった。
部隊が長白県二十道溝のある村に留まっていたときのことを、 わたしはいまも忘れることができな い。 そのときもわたしは、 村でいちばん貧しく見える小さなわらぶき家に宿所を定めた。 その家では 六十を越した老夫婦が幼い孫一人を大事にかかえて暮らしていた。 息子は筏流しで非命に倒れ、 嫁は 腸チフスを患って死んだという。 一人前の人手のないその家は、 わらぶきの屋根が腐って天井から雨 が漏り、 軒下の土縁は崩れて、 人の住む家とは思えないほどだった。 宿をとった最初の日、 わたしは 伝令兵と一緒に村の裏山からカヤを刈ってきて屋根をふきかえ、 土縁も積みなおした。
その日、 夜もだいぶ更けたときだった。 にわかにニワトリの羽ばたく音がするので、 イタチがニワ トリ小屋に入ったのではないかと思って外を見た。 意外にも老人が松明をかざしている老婦に助けら れてニワトリを捕まえているところだった。 わたしが、 どうしてこんな夜中にニワトリをつかみだす のかと尋ねると、 老人は急用ができたからだと言うのだった。 その家にはニワトリが3羽しかなかっ たが、 老人はそのうちの2羽を引き出した。 1羽は雄鶏で、 もう1羽は太った雌鶏だった。 わたしは この雌鶏が昼にタマゴを産み、 巣から下りてきて鳴いているのを見ていた。 老人は紐でニワトリの両 脚を縛りつけ、 雌鶏は台所に投げ込み、 雄鶏は小脇にかかえて枝折戸の外に出ていった。 なぜか、 老 婆もいそいそとその後にしたがった。 それから2、 3時間たっても2人は帰ってこなかった。 わたし は土縁に腰を下ろして2人の帰りを待った。 明け方になってやっと姿を現したが、 小脇の雄鶏はその ままで、 顔色からしてたいへん失望しているようだった。
「ご老人、 どこにおいでになって、 いまごろお帰りになったのですか」 「いやはや、 まいったもんじゃ。 村中 50 余戸の家をみな訪ねまわってきたところじゃよ」 雄鶏を土縁におろしながら老人が答えた。 わたしはわけがわからず、 いったいなんのために夜通し そんな苦労をするのかと尋ねた。
「あんたがたの隊長さんの名が金日成だと聞いたのでね。 それでいままでその宿所を探しまわ ったんだが、 とうとうわからずじまいで帰ってきたというわけじゃよ」 「どうしてその家を見つけようとするのですか」 「あんたがたの奇特なおこないを隊長さんに申し上げ、 この老いぼれのお礼を言おうとしたんじゃ。
あんたがたに世話をかけて、 だまっている法はないじゃろう。 それでほんの気持だけだが、 隊長さん にニワトリの1羽でも差し上げようと思ったのじゃが、 あいにく …」 老人が最初に訪ねたのは上手の村の地主の家だった。 隊長なら当然、 村でいちばん大きな家に泊ま っているはずだと思ったからだ。 老人は地主のつぎをいく差配の家にも行って見た。 そして村の 50 余 戸の家をつぎつぎと訪ねまわった。 老人はこういういきさつを話し、 身寄りのない貧乏な老いぼれだ と、 村中が自分たちを馬鹿にしていると嘆くのだった。
「もっとも、 わしらのような老いぼれが、 こんな格好で隊長さんにお目にかかるというのも虫がよす ぎる話じゃ。 けれどもあんまりじゃよ。 隊長さんを自分の家に泊めておきながら探しまわってどうす るつもりか、 とからかう人もおったんじゃ。 いったい、 あんたがたの隊長さんはどの家におられるん じゃ」 老人は村中をくまなく訪ねまわったにもかかわらず、 その尋ね人が自分の家にいようとは想像だに していなかったのである。 老人があまりにも気をもむので、 わたしは自分の身分を明かした。 しかし、 老人はわたしの話を真に受けなかった。 どだいそんなことはありえない、 と言うのであった。
以前、 独立軍が村に出入りしていたときは、 中隊長ともなるといちばん大きな家に上がり込み、 牛 をつぶして酒宴を催したものなのに、 隊長がこんなむさくるしい家に泊まるはずがない。 まして隊長 のような偉い人が屋根をふきかえたり、 土縁を積み、 コウリャンがゆもいとわず召し上がるというの か。 あんたもわしらを馬鹿にして隊長の居所を隠しているに違いない。 老人はこう言って、 腹を立てるのだった。 翌日、 老人は伝令兵の話を聞いてやっと納得した。 われ われはニワトリをつぶして接待しようとする老夫婦をやっとのことで止め、 村を発った。 こうしたこ とは何回となくあった。
朝鮮人民革命軍の暫定条例は、 軍民一致の関係を強めるうえでじつに大きな生命力を発揮した。 も し、 隊伍内に人民への愛と徹底した奉仕精神を確立していなかったなら、 われわれは人民革命軍の運 命とわれわれ自身の生存をたえず脅かしていたきびしい試練の日々に、 おり重なる難関を克服できず 革命を中途で放棄していたかも知れない。
朝鮮人民革命軍の暫定条例が公布されて以来、 部隊の将兵一致の面においても新たな転換がもたら された。 指揮官は隊員と苦楽をともにすることに慣れていた。 隊員がかゆをすすれば指揮官も一緒に かゆをすすり、 隊員が雪のうえに枯れ葉を敷いて寝るときは、 指揮官も同じように枯れ葉を敷いて寝 た。
朝鮮人民革命軍の指揮官は司令官から小隊長にいたるまで、 すべてが 「小釜」 を戒め反対した。 「大 釜」 「小釜」 というのは、 もともと蒋介石の国民党軍隊で生まれた言葉である。 国民党軍隊では将校と もなれば、 一般兵士が煮炊きする大釜とは別に、 小釜で特別料理をつくって食べるのを当然のことと していた。 上下を厳格に区別し、 上を絶対的に優遇して、 下を絶対的に冷遇することでは日本軍がと くにひどかった。 日本軍では伍長クラスにでもなると、 下級兵士に足の裏や靴の裏をなめさせる野蛮 な 「気合」 入れや懲罰をほしいままにしたものである。 朝鮮人民革命軍では 「小釜」 を絶対に許容し なかった。 それを許せば、 特別料理の特恵にあずかろうとする特殊層が生まれ、 そうなれば特殊層と 大釜の一般食をとる広範な隊員のあいだには溝ができるものである。 口では万民平等を唱えながら、 食の面から区別し不平等を助長するなら、 そんな偽善者をいったい誰が支持し、 したがおうとするだ ろうか。
われわれは地位の高低にかかわりなく、 すべての指揮官がいつどこでいかなる状況にあっても、 平 隊員と同じように一つ釜の飯を食べることを鉄則としていた。 すべてが同じ釜の飯を食べるのは、 絶 対に背くことのできない人民革命軍の軍律、 食の倫理となっていた。 食物も着る物も、 寝床もみなま ったく同じであったため、 隊員の面倒をみる義務を負っている指揮官たちは事実上、 隊員よりかえっ て少なく食べ、 粗衣をまとい、 粗末な寝床を占めることが多かった。
いまもわれわれは 「小釜」 に反対している。 だいぶ前のことではあるが、 ひところ首都と地方の少 なからぬ食堂では裏部屋を別個に設け、 幹部が来ると特別料理を出したものである。 裏部屋を設けて はいけないと、 何回となく中央から赤信号を送ったにもかかわらず、 サービス部門ではずるずると 「小釜」 を運営しつづけた。 それは結局、 人民性のない幹部のあいだに特殊化を助長する結果をまねい た。 一部の幹部は下部の者から裏部屋や貴賓室に案内されると、 それを当然なことと思い特別待遇を 受けようとした。 わたしは 「小釜」 に賛成しない。 それを放置すれば、 あらゆる 「妖怪」 がはびこる ようになるからである。 「小釜」 からはブルジョア思想しか出てこない。 そして、 党と大衆のあいだに ひびが入り、 社会主義への信念が崩れかねない。 朝鮮式社会主義が健在であるのは、 党が官僚化せず、 われわれが 「小釜」 を許さなかったこととも大いに関係している。
朝鮮労働党が作成し施行しているすべての政策の基礎には必ず人民性がおかれている。 人民性はわ が党と軍隊と国家の性格を支配する基本的要因である。 われわれは体験を通じて、 人民性を基本的な 生存方式とする党と軍隊は必勝不敗であるという真理を実証した。 ごく少数の特権層にのみ奉仕する ことは人道主義でないばかりか、 反人民性の露骨な表現である。
資本主義国の軍隊では真の軍民関係、 同志関係、 上下関係など存在せず、 また存在することもでき ない。 そこではもっぱら強圧、 欺瞞、 葛藤、 対決、 盲従、 盲信があるのみである。 悲しむべきことは、 帝国主義国の軍隊では兵士相互間でもいたわり合う人間本然の美しい世界を見出しがたいということ である。 「先に食え。 おまえが食わなければおまえが食われる」 これが資本主義国の軍隊で将校が吹き 込んでいる人生哲学である。 これによると、 「おれ」 以外の存在はすべて敵となり、 捕食の対象となる。
第2次世界大戦の末期、 ニューギニア戦線にいた日本軍の兵士たちは食糧が切れて人間を捕食したと いう。 いまも資本主義国の軍隊では 「おまえか、 おれか」 という野蛮な生存方式を植えつけている。
朝鮮人民革命軍の暫定条例を施行する過程を通じてうちかためられた軍民一致と将兵一致の伝統は、 今日、 わが党の正しい指導のもとに全面的に継承され発展している。 人民軍軍人は人民を愛し援助す ることを最大の喜びとしている。 軍隊が人民を助け、 人民が軍隊を助けるのは、 今日わが国のどこで も見られるありふれたことになっている。 新聞やテレビでよく見るように、 わが国の娘たちは祖国防 衛の持ち場で負傷した傷痍軍人を自ら訪ね、 その目となり手足となっている。 日とともに咲きほこる 軍民一致の姿から、 わたしは無上の幸福感を覚える。
人民軍内では将兵一致の伝統もさらにうちかためられている。 今日、 人民軍の指揮官たちは兵士を わが子のごとく、 実の弟のごとくいたわり愛している。 自分の生命までささげて隊員たちを救い出し た英雄的な指揮官も多い。 兵士たちは中隊長を長兄、 中隊政治指導員を長姉と呼んでいる。 人民軍の 基本戦闘単位である中隊での上下関係は、 まさにこのような血縁的な関係である。
わが国は世界に堂々と誇れる強力な武器を持っている。 それはほかならぬ軍民一致、 将兵一致であ る。 このような強力な武器はいかなる軍事科学や技術によってもつくりだせない。 ただ真の愛情によ ってのみつくりだせるのである。