6月下旬になると、同志たちは約束通り卡倫カリュンに集まった。卡倫ではすでにわれわれの革 命組織が活動していた。われわれは1927年ごろから、満州各地を容易に往来しうる交 通分岐点に活動基地を設ける必要を感じ、共青のアクチブを派遣してこの一帯を開拓しは じめたのだった。
われわれが卡倫で会議を開くことにしたのは、そこが交通に便利であり、会議参加者の 身辺の安全と秘密を守るのに有利な隠蔽された活動基地であったからである。
卡倫には反日運動家が頻繁に出入りしていたが、敵はそれに気づいていなかった。それ に当地の人民が、われわれに惜しみない援助を与えていたので、会議の開催地として申し 分なかった。
わたしが卡倫に到着したとき、少年探検隊の総隊長鄭 行 正 チョンヘンジョンがプラットホームに来てい た。彼はわたしが卡倫に行くたびに、駅頭に迎えてくれた。
卡倫は敦化や吉林チーリンにくらべて雰囲気がやや平穏だった。
五・三〇暴動のあとだったので、間島の空気はきわめて険悪だった。そのうえ日本軍の 東満州出兵が間近に迫り、情勢はいっそう緊迫していた。日帝が間島に軍隊の派遣を企て たのは、その一帯で急速に拡大している革命運動を鎮圧して満蒙を占領し、ソ連侵攻の橋 頭堡を確保するためだった。それで羅ラ 南 ナム駐屯日本軍第19師団長の河島中将が竜井、延 吉 イェンチー 、 百草溝 パイチャオコウ、頭道溝 トウダオコウ地方を巡視していた。国民党吉林軍参謀長と民政庁の庁長も同じころ東満 州を視察した。
間島地方の革命組織が、東満州から日本軍中将と国民党参謀長、民政庁の庁長を追い返 せと呼びかけたのはそのころのことである。
わたしは卡倫では進明学校教員の劉永宣 リョヨンソン や 張チャン小峰ソボンの家に泊まった。
張小峰は進明学校で教鞭をとるかたわら、『東亜日報』支局長をしていた。彼は車光秀の ように筆が立ち、識見も高く、活動も手ぎわよくやっていたので、同志たちから親しまれ ていた。
ところが家庭で夫婦げんかが絶えないのが疵だった。友人が忠告すると彼は、家内が封 建的で理想が合わないといってこぼした。わたしは張小峰が家庭生活に親しむようたびた び説得し、批判もしたが、あまり効果がなかった。
張小峰は朝鮮革命軍が組織されたあと、武器を購入するため 長 春 チャンシュンに行き、警察に逮捕 されて転向した。一時はわたしの「帰順工作」にも駆り出されたという。
卡倫の革命化で金 赫 キムヒョクと張小峰は特出した功績をあげた。彼らは当地の有志と協力して学 校と夜学を設け、そこをよりどころにして教育活動をおこない、農民会、青年会、少年会、 婦人会など従来の啓蒙団体を農民同盟、反帝青年同盟、少年探検隊、婦女会などの革命的 組織に改編し、各階層の大衆を抗日革命の有力な担当者に育てあげた。
金赫の主管のもとに雑誌『ボルシェビキ』が創刊されたのも卡倫だった。
わたしは卡倫に行ってからも、四道荒溝でのように朝鮮革命の進路について思索しつづ けた。ひと月ばかり思索して整理した文章をまとめてみると、かなり長文の原稿になった。
わたしがそれを書いたのは、朝鮮の民族解放闘争が新たな指導理論を切実に求めていた からだった。新たな指導理論がなくては、革命は一歩も前進できない状況だったのである。
自主性を要求する非抑圧人民の革命的進出は、1930年代に入っても世界的規模でい っそう大きく広がっていた。地球上で被抑圧人民の反帝解放闘争がもっとも熾烈にくりひ ろげられていた大陸は、アジア大陸であった。
アジアが植民地民族解放闘争の主な舞台となったのは、そのころアジア後進国の利権を 奪おうとする帝国主義者の侵略行為がいっそう露骨になり、東方の多くの国の人民が民族 的自主権を守る決死の闘争をくりひろげていたからである。
外部勢力を駆逐し、自由で民主的な新しい社会をきずこうとする東方人民の正義のたた かいは、いかなる力もおしとどめることができなかった。
ソ連、モンゴル革命の躍進に歩調を合わせ、中国、インド、ベトナム、ビルマ、インド ネシアなどアジア諸国でも革命の激流がさかまいた。非暴力不服従運動で世界の耳目を集 めていたインドの街頭で、紡織工が赤旗をおしたててデモを断行したのもそのころである。
中国人民は第二次国内戦争の戦火のなかで1930年代を迎えた。
中国をはじめアジア諸国における革命闘争と国内人民の積極的な進出は、われわれを興奮 させ、奮起させた。
われわれは党を創立し、正しい指導理論を提示するならば、人民を決起させて日本帝国 主義を打ち負かせるであろうと確信した。
こうした時期にもわが国の民族解放闘争の舞台では、各党各派の立場と利益を代弁するさ まざまな主義主張が提唱されて大衆をいろいろな方向に導いていた。しかし、それらの理 論はいずれも一定の時代的・階級的制約性をまぬがれなかった。
われわれの見解によれば、それまでの民族解放闘争における最高形態の闘争は、独立軍 の武装闘争であった。この闘争には民族主義左翼のもっとも積極的な反日独立運動家と愛 国者が参加した。彼らが独立軍部隊を組織し武装闘争をはじめたのは、独立戦争をしなく ては国を取りもどせないと信じたからである。
一部の人は大部隊による軍事活動によってのみ独立が達成できると考え、また一部の人 は直接的なテロリズムこそが日本帝国主義者を駆逐する最上の方途であると主張し、さら に一部の人はよく訓練された軍隊を持ち、ソ連、中国、アメリカなどの強大国が日本と砲 火を交えるとき、彼らと連合して独立を成就するのが朝鮮の実情に合う戦略だとした。
これらの主張はいずれも日帝との血戦を志向していた。
しかし、独立軍の闘争はそうした初志を貫くだけの科学的な戦略戦術と、独立戦争を戦 い抜く有力な洗練された指導部を持つことができず、闘争を人的、物的、財政的に裏打ち する強固な大衆的基盤を構築することができなかった。
改良主義理論のなかでは、安昌浩 アンチャンホの「実力養成論」という「準備論」が独立運動家の話 題になっていた。
われわれは安昌浩という人物そのものにたいしては、独立運動に生涯をささげた清廉潔 白で良心的な愛国者として尊敬したが、その理論は歓迎しなかった。
上海臨時政府の非暴力的独立運動路線も大衆の支持をうけられなかった。上海臨時政府 が樹立後間もなく人びとの失望をかったのは、この組織がなんの可能性もない非暴力的な 外交路線にしがみついてむなしく歳月を送ったからである。そのため、軍事路線を絶対視 していた独立軍は終始それを冷笑した。
李承晩が国際連盟に請願した朝鮮の委任統治案は路線の名に値しなかったし、民族主義 右派が提唱した「自治論」も民族の独立精神に反する妄想にすぎなかった。
1925年に創立された朝鮮共産党も、朝鮮の実情に合う科学的な戦略戦術を編み出せ ないままその存在を終えてしまった。
総括的にみて、先行世代の戦略や路線に見られる共通の弱点は、民衆の力を信じようと せず、それに顔を背けたところにあった。
先行世代の運動家はみな、民衆が革命の主人公であり、革命をおしすすめる力も民衆に あるという真理を無視していた。数百万大衆の組織された力に頼ってこそ日帝の打倒が可 能であったが、わが国の反日運動家は革命も独立戦争も特定の何人かの人だけがやるもの と考えていた。
共産主義運動にたずさわっていた人もそうした立場に立っていたので、基礎構築をおろ そかにし、少数の上層部の人たちで党中央の創立を宣言するやり方で党をつくり、大衆の なかに深く入ろうとせず3人1党、5人1派式に分裂して多年間ヘゲモニー争いに没頭し た。
先行世代の路線や戦略はまた、朝鮮の生きた現実に立脚していない重大な弱点をもって いた。 わたしは朝鮮の現実に合う正しい指導理論を提示するには、古典や外国の経験を絶対視 せずに、すべての問題を自らの実情に合うよう独自に考え、独創的な方式で解決しなけれ ばならないと考えた。指導理論をもたなければならないということで、10月革命などの 経験をうのみにするわけにもいかず、コミンテルンに万能薬を期待し、腕をこまぬいてい るわけにもいかなかった。
「われわれは民衆の力を信ずるしかない。2千万の力を信じ、その力を1つに結集して 日本帝国主義者との血戦をくりひろげよう」 わたしの心にはこうした叫びがたびたび湧き起こった。
わたしはそうした衝動に駆られながら、今日われわれがチュチェと呼んでいる思想を報 告のふしぶしに盛りこもうと努めた。報告の内容はすべて、朝鮮革命の前途にかかわる重 大な問題であった。
わたしはとくに武装闘争の問題を深く考えた。
わたしは報告のなかで、武器を取って全面的な抗日戦争を展開することを反日民族解放闘 争の基本路線とし、朝鮮共産主義者の第1の課題として提起した。
武装闘争をおこなう決心を下し、それを方針として確定するまでには長い時日を要した。
卡倫でこれを方針として採択するときにしても、われわれは徒手空拳にひとしかった。そ うした状況のもとでもわたしは、武装闘争をおこなうには、青年共産主義者の手で新しい 型の軍隊を創設しなければならないと主張した。
しかし、現に独立軍が存在する以上、そこへ入って活動すべきであって、別個に軍隊を 創設する必要はない。そうすれば反日軍事力の分裂を招くおそれがある、といって反対す る人たちもいた。
独立軍が右傾化し、反動化していく状況下で、そこへ入って軍隊を革新し、それによっ て武装闘争をくりひろげるというのは不合理であり、不可能なことだった。
1930年当時、独立軍の武力はきわめて劣勢であった。国民府傘下に独立軍の武力が あったとはいえ、9個中隊にすぎなかった。それすら上層部の分裂によって、国民府派と 反国民府派とが対立していた。
国民府派とは、10余年間固守してきた独立軍の既存方針を絶対視する保守勢力であり、 反国民府派とは既存方針に反対し新しい路線を求める革新勢力であった。反国民府派は共 産主義に同調し、連携を試みたこともあった。日本帝国主義者は彼らを「第三勢力」と規 定していた。民族主義者でもなく共産主義者でもない新しい中道勢力だという意味である。
民族運動内部で反国民府派のような「第三勢力」が台頭したことは、この運動の方向を共 産主義運動へ転換しようとする志向が実践段階に入ったことを示していた。
国民府派と反国民府派の対立によって独立軍は分裂し、民族運動内部は混乱に陥った。
独立軍の中隊は概して遊撃戦に不利な平場の村落に駐屯していた。武装が不十分なのは もちろん、規律が乱れ、訓練状態が低劣であったうえに、大衆との関係も好ましくなかっ た。
青山里 (1)チンシャンリー戦闘や 鳳 梧 谷 (2)フォンウークー戦闘のように、日本軍の大部隊を痛快に撃滅した1920年 代初期の全盛期とは違って、独立軍は次第に衰退の道をたどっていた。
南満青総大会に参加するために旺ワン清門チンメン へ行ったさい、わたしは玄 黙 観 ヒョンムクコヮンと国民府の話を しながらこんな質問をした。
「先生、国民府の力で日本と戦って勝てる自信がありますか」 じつは彼がしきりに国民府の自慢をするので、少しは薬になろうと思ってした質問だっ た。
「勝算なんかあるものか。こうしてがんばっているうちに大国が助けてくれたら独立する のさ」 わたしは唖然とした。戦って勝てるという胆力もなく、大国の援助をあてにして盲目的 に戦う軍隊にどれだけの働きができるというのか。それでわたしは、国民府の先生方が武 器をそっくりわれわれに引き渡してくれれば、3、4年内に日本人を追い出してみせると 冗談めかしていった。
そのときはまだ、大会準備委員にテロが加えられる前だったので、そんな冗談もいえた のである。玄黙観は吉林時代からわたしの冗談によく応じてくれたものだった。
彼は苦笑していた。無邪気な空想だと思ったのかも知れない。
国民府軍隊のような軍隊では、現状維持すらむずかしかった。それでわたしは新しい型の 軍隊の創建を思い立ったのである。
わたしは共産主義者の指導する武装闘争であってこそ、もっとも徹底した革命的な反日 抗戦になりうると確信した。なぜなら、共産主義者のみが、武装隊伍に労働者、農民をは じめ広範な反日愛国勢力を幅広く集結させ、大衆の利益を正しく反映した科学的な戦略戦 術で武装聖戦を最後まで戦い抜き、全般的朝鮮革命を勝利へと導くことができるからであ る。
われわれが打倒すべき日本帝国主義は、日清、日露両戦争で日本領土の数十倍に達する 広大な領土を持つ大国と戦って、やすやすと勝利した新興軍事強国であった。
そうした強国を倒して国を取りもどすというのは容易なことでなかった。
日本帝国主義を打倒することは、とりもなおさず世界的に公認された日本の軍事力を撃 破することを意味し、彼らの狂信的な皇道精神を打ち破り、明治維新後、新興日本が七〇 年近くのあいだにととのえた人的・物的・財政的力との消耗戦で勝者になることを意味し た。
ところでわたしは、武装闘争をおこなえば3、4年ほどで日本を打ち負かすことができ ると考えた。血気にはやる若者でなくてはとても考えられないことである。日本の軍閥が こんな告白を聞いたとしたら大笑いしたであろう。
そうした判断を裏付ける保証はなにかといわれたら、答える言葉はない。素手のわれわ れに保証などありうるはずがなかった。
われわれにあるのは愛国心と若い血気だけであった。わたしが3、4年内外と見たのは、 日本の力を軽視したからではなく、われわれの愛国心がそれに勝り、正しいと考えたから だった。われわれに保証があるとすれば、それは2千万民衆の力だった。2千万をりっぱ に訓練し、随所で日本軍警に打撃を加えるならば、国の独立が達成できるだろうという胆 力がわれわれにはあった。
それでわたしは、武装闘争を本格的におし進めるには大衆的基盤を構築しなければなら ないと考えた。
ここから反日民族統一戦線の構想が生まれたといえる。
わたしが組織の必要性をはじめて悟ったのが華成義塾時代だったとすれば、民族の力を はじめて感じ、それを頭に刻んだのは三・一人民蜂起のときだった。そして、わたしが人 民のなかに深く入ってかれらを結束し、その力に依拠して革命をする決心をしたのは吉林 時代のことである。
2千万が総動員する民族あげての抗戦なくしては、植民地奴隷のきずなを断ち切ること はできない。純然たる階級革命なら、労働者、農民大衆だけが革命の原動力となるであろ う。しかし、朝鮮革命はその性格からして封建と帝国主義に反対する革命である。それだ けにわたしは、労働者、農民はもとより、青年学生、知識人、愛国的な宗教者、民族資本 家も革命の原動力になりうると主張した。われわれの原則は、民族解放に利害関係のある 反日愛国勢力をすべて結集し、動員しようというものであった。
わたしがこの路線を提示したとき、古典に見られない規定だといって首をかしげる人が いた。彼らは共産主義者が労働者、農民以外の階層と同盟を結ぼうというのは妄想だとい い、宗教者や企業家と手を握ることはできないと主張した。 火(3)曜派の金 燦 キムチャン がひところ国 民府の人物と交渉をもったというかどで、朝鮮共産党満州総局責任者の地位からはずされ たのもそうした観点からだった。
民族主義者のなかにも、共産主義者を白眼視する人が少なくなかった。共産主義運動の 内部では民族主義がタブーであり、民族主義運動の内部では共産主義がタブーであった。
こうした傾向は、民族の力を共産主義と民族主義の2つの陣営に分裂させる結果を招いた。
理性のある人はみなそれを慨嘆した。そうした人たちの努力によって、わが国では19 20年代の中期から共産主義と民族主義両陣営の合作をはかる運動が展開され、1927 年の新幹会の創立によって実を結んだ。新幹会の出現は、理念は違っても民族を思う道で 共産主義者と民族主義者が1つに結束しうることを示唆した出来事で、民衆の熱烈な歓迎 をうけた。 しかし、日本帝国主義者の執拗な破壊策動とそれに買収された改良主義者の分化作用に よって、この団体は1931年に解散を余儀なくされた。
2つの陣営が愛国という大前提のもとに強固な結合をなしとげていたなら、内外の破壊 作用があったとしても、それほど容易に崩れることはなかったであろう。
新幹会の解散によって、せっかく日の目をみた共産主義と民族主義の合作が流産したと き、われわれはたいへん残念に思った。民族を優位におかず、理念のみを絶対視するなら ば、真の合作は望めない。民族解放という大前提を優先させるならば、いかなる階層とも 手を結べるというのが当時のわたしの見解だった。
われわれはこうした立場に立って、解放後、一生を反共で通してきた金九先生とも合作 したし、いまも民族の大団結をなしとげようと全同胞の理性に訴えている。民族が大団結 すれば、残されるのは外部勢力と売国奴だけである。
民族の大団結がそれほど貴重で、至上の課題であり、経綸けいりんであるため、生涯を反共の第 一線でわれわれに銃口さえ向けていた崔泓煕 チェホンヒ、崔 徳 新 (4)チェドクシン先生がピョンヤンに来たときにも、 彼らの過去を問わず、骨肉の情で喜んで迎えた。
そのとき、わたしは崔徳新先生に、北に住もうと南に住もうと民族を優位におき、統一 問題を考えなければならない、民族があってこそ階級もあり、主義もあるのではないか、 民族がなければ共産主義をやり、民族主義をやったところでなにになり、神を信じたとこ ろでなにになるだろうか、といった。
われわれは卡倫で反日民族統一戦線路線を摸索した60余年前にもやはりそのように主 張した。
政治は器が大きくなければならず、政治家は度量が広くなければならない。政治の器が 小さくては大衆をすべて包容することができず、政治家の度量が狭ければ、大衆はその政 治家に顔を背けるであろう。
報告では、党創立の問題をはじめ朝鮮革命の性格と任務、朝鮮の共産主義者が闘争で堅 持すべき根本的立場についても述べた。
報告の草稿ができあがると、わたしは早速、卡倫会議に参加するため各地から集まってき た共青と反帝青年同盟の指導幹部の討議にかけた。われわれは昼は野良仕事をしながら、 田畑の端や霧開河の柳の茂みに集まって討論した。そして夜は進明学校の宿直室で、昼間 まとめた意見を1つ1つ掘り下げては討議した。
みんなで討論するなかで、刮目かつもくすべき現実的な問題が少なからず提起された。
まず朝鮮革命の性格規定の問題が論争の種になった。報告にある反帝反封建民主主義革 命という規定にたいしてさまざまな論議がたたかわされた。争点は、古典にもなく、まだ どの国でも提起されたことのない反帝反封建民主主義革命という新たな性格規定が、革命 の普遍的原理や合法則性に矛盾しないかということであった。あのころ青年たちは、近代 史を更新した革命はブルジョア革命と社会主義革命以外になかったと見ていた。ところが 社会主義革命でもなくブルジョア革命でもない、反帝反封建民主主義革命という新しい概 念が提示されたのだから、疑問に思うのもあながち無理ではなかった。
わたしが朝鮮革命の性格を反帝反封建民主主義革命と規定したのは、わが国の階級関係 と朝鮮革命の課題から引き出した結論であった。朝鮮民族のもっとも緊切な革命課題は日 本帝国主義を打倒し、朝鮮人民を束縛している封建的諸関係を一掃し、わが国に民主主義 を実現することであった。ここからわたしは朝鮮革命の性格を反帝反封建民主主義革命と 規定したのである。
他人の鋳型に無理にはめこんで革命の性格を規定しようとすれば教条主義に陥る。鋳型 が優先するのでなく、具体的な現実が優先しなければならない。たとえ古典にはない定式 化であり、他国にない規定であっても、それが自国の実情に合う科学的な規定であれば、 共産主義者はためらわずにそれを選び取るべきである。これがマルクス・レーニン主義に たいする創造的な態度である。
そのような内容で、朝鮮革命の性格を反帝反封建民主主義革命と規定した趣旨を説明す ると、代表たちはそれを理解し、心から支持した。
もっとも活発な論議の対象になったのは反日民族統一戦線の問題であった。民族統一戦 線の戦略にかんする問題は当時、理論的にも実践的にも公に議論するのがはばかられる難 問題とされていた。コミンテルンの一部の人が中国における国共合作の失敗をたてに、統 一戦線政策の支持者をおしなべて改良主義者呼ばわりしたので、われわれの周囲の人たち もこの問題にたいしては慎重な態度をとっていたのである。
それで、よほどの勇気がなければ、民族統一戦線政策を路線としてうちだすことができ なかった。これを路線として提起するなら、コミンテルンの立場に挑戦するものととられ かねなかったのである。
あのとき、同志たちはじつに多くの問題を提起したものだった。
父は地主だが、革命を支持する息子はどうみるべきか?多額の独立資金を出し、独立軍 に多くの物質的援助をしたが、共産主義者には背を向ける資本家はどう扱うべきか?日本 人とも如才なく交際し、人民ともうちとけてつきあう面長を革命の側に包容することがで きるか? そのような質問にわたしは、本人の思想動向を基本にして評価すべきだと一言で答えた。
そうした見解がその後、祖国光復会10大綱領に具体化され、解放後には20か条政綱 のなかで国家の政策として明文化された。
われわれが卡倫で提示した反日民族統一戦線路線の正当性はその後、実地の生活を通し て実証された。
同志たちの意見は報告を完成するうえで大いに参考になった。 卡倫会議が正式に開かれたのは1930年6月30日の夜であった。
地元の同志たちは、進明学校の教室に会場を準備した。代表たちのために教室の床に編 み座布団を敷き、天井にはいくつもの石油ランプをつるした。
初日の会議はわたしの報告で終わり、翌日からは農民の手助けをするかたわら、川辺や 柳の茂みのなかにグループ別に、あるいは代表全員が集まって報告で示された課題の実行 対策を討議した。まったくユニークな会議のやり方だった。
卡倫の革命組織が村に水も漏らさぬ警備陣をしいていたおかげで、われわれは安心して 会議を進めることができた。とくに少年探検隊員が会議のあいだ、われわれを頼もしく守 ってくれた。
新しい世代の青年共産主義者が中部満州地方に多数集結したことを探知した日帝は、わ れわれの活動区域である長春県、懐徳県、伊通県一帯に大勢の密偵を送りこんだ。なかに はわたしの写真を持ち歩いて行方を探索する密偵もいた。
満州駐在日本領事館の手先や朝鮮総督府警務局の密偵を通して、吉林を中心とした満州 地域に、従来の共産主義者とは系列も活動方式もまったく異なる新しい世代の共産主義者 が出現して勢力を拡大していることを内偵し、神経をとがらせた日帝は、その指導的中核 を摘出するためにわれわれを執拗に追跡した。われわれがうわさを立てずに広い地域を活 動舞台にして人民のなかに深く入っていったので、彼らはわれわれをあなどれないとみた ようである。
卡倫で村の警備組織の責任をもち、少年探検隊員と反帝青年同盟員を統率したのが金 園 キムウォン 宇 ウ だった。彼は時々会場からそっと抜け出しては村を一巡し、警備状況を点検した。わた しが仕事に追われて宿所に帰れず、進明学校の教室で夜を明かすときは、彼もわれわれを 護衛して徹夜した。彼は学校宿直室の台所の焚き口でジャガイモを焼いて夜食に出してく れたこともある。
金園宇は卡倫、孤楡樹 グーユイシュー、五家子 ウーチャーツーの開拓で大きな功績をたてた。彼は吉林で青年学生運 動に従事したときにも多くの仕事をした。
われわれは1928年の春、長春地方の農村を革命化するさいに金園宇を派遣した。彼は 卡倫の進明学校で教鞭をとるかたわら、卡倫と孤楡樹一帯をまわって青年を教育した。1 930年の春からは車光秀と協力して朝鮮革命軍結成の準備活動にも参加した。金園宇は きれいな顔をしていたので、女装をさせ、 玄 均 ヒョンギュンと夫婦に仕立てて地下工作に派遣したこ ともあった。
金園宇は朝鮮革命軍の組織後、武器購入工作中敵に逮捕され、何年か獄中生活を送った。
彼は獄中でも節を曲げずりっぱにたたかった。
金園宇は朝鮮戦争後、内外の情勢が複雑だった時期に地方で党の路線を擁護してたたか い、分派分子の手にかかって死んだ。当時、分派分子は党に忠実な人にさまざまな謀略を めぐらし、害を加えていた。
金園宇の本名は辺黙声 ピョンムクソンだった。
卡倫がわれわれの頼もしい活動基地になり、われわれの理念を実現する革命村に変わっ たのは、金園宇、金利甲 キムリガプ、車光秀、金赫など新しい世代の共産主義者がこの村を開拓する ために早くから心血を傾けたたまものであった。
われわれがこの地方に来る前は、当地の人びとは南道組と北道組に別れていがみあって いた。2つの組が霧開河の水をめぐって争ったこともあった。南道組が田畑を起こそうと 水口を塞ぐと、北道組は自分たちの水田が乾いてしまうとシャベルを持っていって水口を 開けた。しまいには子どもたちまで北道組と南道組に別れて一緒に遊ばず、にらみあうと いった嘆かわしい事態に立ちいたった。
そうした状態を改めようと金赫、金園宇、金利甲、張小峰などが力をつくした。彼らは 人びとを説得してけんかをやめさせ、卡倫に各種大衆組織を結成し、学校を設立して無料 教育をおこなった。
代表たちは7月2日の夜、進明学校の教室で会議をつづけた。その夜、任務を分担し、 会議をしめくくった。
閉会に先立って、司会の車光秀がいきなり立ち上がり、感動的な演説をした。彼は「ひ ょうきん者」というニックネームのとおりよくおどけ、ともすると興奮することもあった が、そんなときにも理性を失わず、激情にあふれた雄弁で人びとを感嘆させる珍しい性格 の持ち主だった。彼は拳を振りながら叫んだ。
「朝鮮の共産主義者たちが胸をたたいて挫折を痛嘆しているとき、われわれはこの卡倫 で朝鮮革命の新しい出発を告げる歴史的な呱々の声を上げた。この夜明けを鐘の音ととも に朝鮮の共産主義者は新たな軌道に乗って邁進するであろう。同志諸君!即刻武器を取り、 日帝との決戦に奮い立とう!」 われわれは彼の演説に歓声を上げ、『革命歌』をうたった。
わたしがこのように卡倫で朝鮮革命の進路を示すことができたのは、吉林時代、青年学 生運動をおこなうなかで朝鮮革命にたいする主体的立場を確立し、共産主義運動の新しい 道を開拓してきたからである。わたしは闘争の日びに芽生え、獄中ではぐくんだその思想 と立場を、『朝鮮革命の進路』と題して発表したにすぎない。それが朝鮮革命の路線となり、 指導思想となったのである。
わたしが論文で展開した内容はチュチェ思想が核になっているといえる。
この思想はその後、抗日革命闘争をはじめ各段階の革命における複雑多難な実地の闘争 のなかでたえず発展し、豊かになり、今日のように思想、理論、方法の全一的な体系をと とのえた1つの哲学思想となったのである。
解放後、われわれが主体性の確立をとくに強調したのは、戦後の社会主義基礎建設の時 期であった。
1955年、わたしは党宣伝扇動部門の活動家を前にして事大主義、教条主義を克服し、 主体性を確立する問題について演説したが、それは『思想活動において教条主義と形式主 義を一掃し、主体性を確立するために』という表題の文献で公開された。
わたしはその後も、折にふれて主体性を確立することについて強調してきた。
チュチェ思想の本質と創始の経緯、その思想の具現については、外国人との談話のさい にたびたび説明した。
しかし、わたしはそれを体系化して本にまとめようとは思わなかった。ただ朝鮮人民が その思想を正しいものとして受けとめ、革命実践に具現すればそれでよいと思ったのであ る。
その後、金正日書記がその思想を全面的に体系化し、『チュチェ思想について』 という論文を発表した。
わたしは卡倫会議後、抗日武装闘争を進めるなかで、会議で示した路線が正しかったこ とを確認した。敵はわれわれを「滄海そうかい の一粟 いちぞく」といったが、われわれの後ろには底知れな い力を持つ人民の海がひかえていた。われわれがうちだしたすべての路線を人民は容易に 理解し、自分のものとして受け入れ、われわれの隊伍に数千数万の息子と娘、兄弟姉妹を 送って物心両面の援助を惜しまなかった。
われわれが零下40度を上下する満州の酷寒のなかで、15年ものあいだ、爪先まで武 装した強敵と戦って勝つことができたのは、人民という強力な城塞があり、民衆という無 限大の滄海があったからである。
<注釈> (1)青山里戦闘 間島一帯で活動した独立軍部隊が1920年10月、吉林省和竜県青 山里で多数の日帝侵略軍を掃討した戦闘。
(2)鳳梧谷戦闘 1920年6月、洪範図指揮下の朝鮮独立軍が吉林省汪清県鳳梧谷で 日帝侵略軍に手痛い打撃を与えた戦闘。
(3)火曜派 一九二〇年代の初め、朝鮮の初期共産主義者が組織したグループ=火曜会 に参加した人たちをいう。火曜会という名称はマルクスの誕生日が火曜日だったことに由 来している。
(4)崔徳新 (一九一四~一九九〇)金日成主席が通った華成義塾の塾長崔東? の息子。日帝の朝鮮占領後、中国に亡命。光復軍の将校。解放後、南朝鮮で外務部長官、 軍団長、西ドイツ大使などを歴任。朴正熙執権期にアメリカに亡命。その後、朝鮮民主主 義人民共和国に永住し、祖国平和統一委員会副委員長、天道教青友党委員長として活躍。