ある年、長編小説『きびしい戦区』を読んでいた金日成同志は、呉仲洽が最期を遂げる場面であまりにも胸が痛んで読みつづけることができず、死別して久しい彼をしのんで夜を明かしたという。金日成同志は、大部隊旋回作戦の第一段階をりっぱに飾った敦化県六?松戦闘について話すたびに呉仲洽の最期を思い起こし、彼の英雄的生涯を振り返るたびに、抗日革命の日々、朝鮮革命の司令部を死守した第七連隊の決死擁護精神と闘争業績について、深い愛情をこめて述懐している。
われわれが呉仲洽を失ったのは、六?松戦闘のときでした。その戦闘で中隊長の崔一賢と機関銃小隊長の姜興錫も亡くしました。三人ともわたしが格別に愛し大事にしていた指揮官でしたが、無念にも同日同時に彼らを失いました。抗日戦争の過程で多くの戦友を失いましたが、呉仲洽を亡くしたときがいちばん口惜しく胸が痛みました。
呉仲洽の特徴を一言で表現すれば、声は小さいが影の大きい人だといえます。影が大きいというのは、足跡が大きく残した功績が大きいという意味です。人民革命軍の指揮官のうち、崔春国や呉仲洽のように声の小さい人は多分いなかったと思います。声が小さいということは、自分をよく表に出さないという意味にも解釈できるし、もの静かでおとなしいという意味にも解釈できるでしょう。呉仲洽は軍事指揮官としては珍しいといえるほどもの静かでおとなしい性格の持ち主で、声は小さくても仕事は多くする人でした。そして自分をおし立てようとしない謙虚で素朴な人でした。崔春国は花嫁のような人だとよく言われましたが、呉仲洽はそれよりもっとおとなしい人でした。欠点を探しだそうとしても、これとはっきり言えないようなタイプの人物でした。呉仲洽は日常生活ではもの静かでおとなしいように見えても、革命実践となるときわめて果断な人でした。そして、いったん決心をかためれば、水火をもいとわず突進する猛虎のような男児でした。めったな難関など物ともせず、何事であれ最後までやりとげ、課された任務を果たすまでは眠ろうとも休もうともしませんでした。
呉仲洽は正義を擁護する精神に徹している反面、不正とは絶対に妥協しませんでした。彼が他人より早く階級意識に目覚めたのは、正義にたいする強い擁護精神と不正にたいする非妥協性のためだったと思います。
ある年、呉仲洽の家では日照りのため、凶作に見舞われたことがあったそうです。呉仲洽の父親は地主を訪ね、作柄がこうこうだから、今年だけはなんとか大めに見てもらいたいと懇願しました。しかし、吝嗇で悪どい地主は同情するどころか、かえって泥棒呼ばわりをして呉仲洽の父親をステッキで打ち据えようとしました。それを見てたまりかねた呉仲洽は、ステッキを振り回す地主をからざおで殴りつけました。そのとき呉仲洽は一四歳か一五歳だったそうですから、幼いころから彼の正義感がいかに強かったかがうかがえるでしょう。正義感の強い人は階級的に早く目覚め、革命にも早くから身を投じます。そして隊伍の先鋒に立って、生死をわかたずたたかうりっぱな闘士に成長するものです。
呉泰煕の話によれば、呉仲洽は幼いころから独立軍ごっこがたいへん好きだったそうです。彼が住んでいた村は、金佐鎮が白馬にまたがって行き来したところでした。ですから、おのずと独立軍の影響を受けざるをえませんでした。彼は従兄の呉仲和の影響を受けて共産主義思想に目覚めるようになりました。彼が早くから革命に目覚めたのは、国を強奪した者への憎悪心と反抗心が強かったからです。
いま考えても、呉仲洽ほど大胆で勇敢な指揮官はまれでした。昔から名将は、武道を修めるにあたって知、仁とともに胆と勇を重んじ、その培養に努めたといいます。虎がわが子を崖から転げ落とすのはなぜでしょうか。胆力を鍛えるためです。呉仲洽は講武堂に通ったこともなく、道士に巡りあったこともありませんが、抗日の炎のなかで革命家が身につけるべき胆と勇の力を培いました。
彼は一九三九年の中秋を前にして和竜県三道溝付近の金鉱を襲撃したとき、戦場でまれに見るエピソードを残しました。戦闘指揮の最中、呉仲洽は額に敵弾を受けました。ところが、弾が少しそれたせいか、彼は助かりました。額に弾丸を受けても倒れず、戦闘の指揮をつづけたというのは、まったくの奇跡でした。いくらそれ弾だとはいえ、人間の薄い頭蓋骨が弾丸に当たって無事だったというのは信じられないことかもしれませんが、それは紛れもない事実でした。伝令に包帯を巻いてもらったというその傷を、わたしも見ました。戦友たちが呉仲洽に、きみは運がいい、「神様」のご加護を受けたのだと言うと、彼は、日本軍の弾丸は卑怯者の額は射ぬけても、共産主義者の額は射ぬけない、と言いました。
彼が額に敵弾を受けながらも戦闘の指揮をつづけているとき、今度は敵の手榴弾が城壁を越えて隊員たちの足下に落ちてきました。危機一髪の瞬間でした。呉仲洽はすばやくその手榴弾をつかんで、城壁越しに力いっぱい投げ返しました。敵は自分らが投げた手榴弾が投げ返されてくると、度肝を抜かれて四方へ逃げ出しました。呉仲洽はその瞬間を流さず、隊員たちに突撃命令を下しました。それこそ、いま一つの奇跡といわざるをえません。
手榴弾は投擲の瞬間から爆発の瞬間まで、わずか二、三秒の余裕しかない近距離殺傷兵器です。爆発寸前の手榴弾をつかむということ自体がもうたいへんな冒険です。呉仲洽はそういう、ひやひやする冒険を平然とやってのけたのです。この二つのエピソードによっても、呉仲洽がどんな人間であるかを知ることができるでしょう。
呉仲洽は戦上手の軍事指揮官でした。軍事指揮官としての彼の長所は、まず状況判断と決断が速く、戦闘指揮が緻密なことでした。彼はいったん決心すると、ためらうことなく断行する特技をもって、あたかも練達の力士が巧みなわざで剛力の相手を倒すように、いくら優勢な敵と遭遇しても、それに見合った戦術を使って間違いなく掃滅しました。事実、呉仲洽は崔賢や崔春国に劣らぬ洗練された軍人でした。ところが、彼はいつも司令部と一緒に行動していたので、あまり評判が立たなかったのです。
わたしはこれまで数十年間、革命の道を歩んできましたが、呉仲洽のように組織性と規律性の強い人はそれほど見ていません。彼が組織性と規律性の強い闘士であることは、何よりも上級の命令、指示にたいする絶対性、無条件性によって表現されました。任務を受けるときは「わかりました!」という一言で無条件受けとめ、何事であれ弁解することがありませんでした。呉仲洽はわたしの命令と指示を一分一秒もたがえず無条件、あくまで遂行しました。どこそこへ行ってこれこれの任務を遂行し、いつまでにどの連絡地点に到着せよと命令されれば必ず任務を遂行して指定された時刻に到着し、ときに任務遂行の過程で予期しなかった事態が生じれば、小部隊を残してその任務の遂行にあたらせ、自分は基本部隊を率いてなんとしてでも約束の日に帰還しました。そんなときは、われわれが予定どおり帰隊しなければ司令官同志に心配をかけるといって、隊員を教育し励ましました。
呉仲洽連隊長は、部隊の管理と隊員の教育においても、必ずわたしの指示どおりにする模範的な指揮官でした。あれほど困難な状況のもとでも、彼は正規軍のように部隊を几帳面に管理しました。彼の指揮する第七連隊には、破れた靴やズボンをはいている隊員が一人もいませんでした。行軍の最中でも破れた服を着ている隊員を見つけると、小休止のときにそれを繕わせました。このように部隊管理が徹底していたので、彼の率いる部隊では一件の事故も起きませんでした。
呉仲洽は、わたしが何気なくつぶやく独り言もすべて、司令官の命令や要求として受けとめました。一九三九年の中秋をひかえたある日、わたしは鳥口江蜜営で呉白竜と一緒に散策しながら何気なく、「もうすぐ中秋だな…」とつぶやいたことがあります。ところが、その言葉がいつの間にか呉仲洽の耳に入りました。わたしの意図ともくろみを誰よりも敏感にとらえる呉仲洽はそれを聞き流さず、なぜ司令官同志は中秋が近づいていることを口にしたのだろう、新入隊員が中秋を迎えて故郷を懐かしむだろうと、その節日の準備が気になっていった言葉ではなかろうかと自分なりに解釈したのです。数日後、彼は中秋節日の準備のために戦闘をおこない、多量の食糧と食料品をろ獲してきましたが、そのなかには月餅もありました。わたしが呉仲洽の要望で、第七連隊の隊員と司令部のメンバーに月餅の由来を話して聞かせたのもその年の中秋のことです。
呉仲洽は、わたしの銃声までも正確に聞き分ける忠臣でした。苦難の行軍の途中、集団行軍をしていたわれわれがしばらく分散行動に移ったことがあります。わたしは呉仲洽と別れるとき、春に三水谷で会うことを約束しました。当時、朝鮮人は十三道溝の谷間を三水谷と呼んでいました。
一九三九年の三月初旬、わたしは三水谷のある村落にたいする襲撃戦の指揮をとりました。そのとき呉仲洽はわれわれの銃声を聞きつけ、「あれは司令官同志があげた銃声だ。わずか一個中隊の兵力しかない司令部が露見して敵の包囲に陥るおそれがある。命を賭して司令部を守ろう!」と、先頭に立ってわれわれのいる方に向かって駆け出したそうです。
呉仲洽はもともと実直な人でした。汪清県元家店というところで地下活動をしていた彼が、遊撃隊に入隊して間もなかった頃の話を一つしましょう。当時、汪清遊撃隊には銃が足りませんでした。遊撃隊に入隊した人も多く、入隊を希望する人も多かったのですが、銃の不足が問題でした。それで銃を持てない隊員は、劇映画『遊撃隊の五人兄弟』に出てくるように刀や槍を持って歩きました。呉仲洽も最初は、鍛冶場でつくった刀を腰にさげていました。汪清遊撃隊では銃を持たない隊員をいつも最後列に立たせました。呉仲洽は歩哨に立つたびに他の隊員の銃を借りましたが、それを少しも恥ずかしがりませんでした。
彼が何か月間も刀を持つだけだったので、戦友たちは彼を見るたびにからかったものです。
ある日わたしは呉仲洽に、「君はいつも刀をさげて最後列に立たされても口惜しくないのか」と本気で聞いてみました。すると彼は、「この刀でも大したものだと思っています。銃がそう簡単に全員にゆきわたるはずはないでしょう。戦闘さえあれば、銃はいつか手に入ると思います」と答えるのでした。口ではそう言っても、他の隊員がみんな銃を持っているのに刀と炸裂弾だけ持って最後列に立たされるのですから、さぞ気恥ずかしい思いをしたことでしょう。しかし彼は、それを少しも顔に出さず、平然と刀をさげて歩きました。
わたしは槍や刀しか持っていない遊撃隊員の銃を補充するため、戦闘をおこないました。
銃を得るには戦闘をおこなうしか他に方法はありません。それで図們から三岔口を経て牡丹江に引き込まれる鉄道工事場を襲撃しました。呉仲洽はこの戦闘で数挺の小銃を手に入れたうえに、敵将校の拳銃まで奪い取ってきました。ろ獲した武器を誰に授与するかは戦闘総括会議で決定することになっています。われわれは戦闘で勇敢性を発揮し、規律を模範的に守る隊員に優先的に銃を授与する原則を立てていました。鉄道工事場襲撃戦闘の総括会議には、わたしも参加しましたが、呉仲洽はそこではじめて武器を授与されました。
その後、呉仲洽は分隊長、小隊長、中隊長などの軍職を順次踏んで連隊長に昇進しました。
彼は革命軍の指揮官の模範といえます。
呉仲洽の長所をあげれば、その他にも少なくありません。呉仲洽はおとなしくはあっても、日常生活では快活かつ楽天的であり、人づきがよく向学心も並々ならぬものでした。
彼は大口をたたくことがなく、品行方正で、同志たちの批判はどんなことでも受け入れて誠実に改めました。また部隊の管理も几帳面にし、自力更生、刻苦奮闘の精神も人一倍強い人でした。
朝鮮人民革命軍隊員としての呉仲洽の成長は、とりもなおさず第七連隊の成長といっても過言ではありません。第七連隊の前身は独立連隊です。独立連隊は汪清、延吉、和竜をはじめ東満州の各県から一個中隊ずつ選抜して編制した連隊です。汪清県からは第七中隊が独立連隊に編入されました。汪清第七中隊は汪清第一中隊から分立した中隊で、独立連隊に所属しては第二中隊と呼ばれました。呉仲洽はその独立連隊第二中隊の青年幹事を務めました。独立連隊は一九三五年に独立第一師第二連隊に改編され、南湖頭会議以後、朝鮮人民革命軍主力師団が新たに編制されたとき新師団の第七連隊となりました。第七連隊は、新師団の中核部隊でした。呉仲洽、呉白竜、姜曾竜は、こうした変遷過程を歩んできた第七連隊の歴史とともに系統的に発展し、連隊長にもなり、中隊長にも小隊長にもなりました。
第七連隊は大多数が朝鮮人で構成されていました。われわれは汪清時代から呉仲洽を系統的に育てたように、第七連隊も力を集中して他の単位より指導を深め、新師団のなかでいちばん戦闘力の強い模範連隊につくりあげました。まず、小隊長、政治指導員、中隊長など連隊内の指揮官を優秀な人でかため、彼らを政治的思想的に、軍事技術的にしっかり準備させるための教育活動を計画的に進めました。連隊内の指揮官に、遊撃戦に必要な各種の教範は言うまでもなく、宿営の方法、炊事の仕方、行軍の仕方、方位判定法、仮設舞台の設置方法と演芸会のプロ作成と紹介文の書き方にいたるまですべて教えました。第七連隊を模範連隊にするため、朝鮮人民革命軍司令部と師団の幹部が大きな努力を傾けました。彼らはたびたび連隊に出向いて指揮官を政治的、軍事的に啓発し、難題をそのつど解決してやりました。そういう過程を経て第七連隊は模範連隊となり、朝鮮人民革命軍主力部隊の誇りとなったのです。
わたしは第七連隊で鍛えられた隊員を、他の部隊の指揮官として多く派遣しました。魏拯民もわれわれに軍事・政治幹部の派遣を求めるときは、決まって第七連隊の指揮官を要求したものです。第七連隊で鍛えられた指揮官は他の部隊に派遣されると、そこでまた多くの指揮官と模範戦闘員を育てあげました。第七連隊はまさに、軍事・政治幹部を育成する原種場のような役割を果たしました。李東学か朴寿万が指揮した警備中隊ものちに模範中隊となりました。この中隊には第七連隊の出身が多くいました。革命軍に政治・軍事幹部を養成する常設の教育機関がない状況下で、第七連隊を通じて系統的に育成した幹部を他の部隊にたえず派遣する方法で幹部の需要を満たしたのは、われわれが抗日革命の過程で蓄積したいま一つのりっぱな経験です。模範をつくりあげ、それを全国に一般化するわが党の伝統的な活動方法は、このように抗日革命の過程で得た経験にもとづいています。
朝鮮人民革命軍の軍事・政治幹部のなかには、第七連隊が輩出した指揮官が数えきれないほどたくさんいました。呉仲洽、金周賢、李東学、李東傑、呉白竜、金沢環、崔一賢、呉日男、孫泰春、姜興錫、姜曾竜はみな第七連隊の出身です。第七連隊の中隊政治指導員のなかには「チョチョボリ(寂しがりや)」というあだなの人もいました。姓は崔だったようですが、名前はよく覚えていません。目の縁がいつもうるんでいるように見えて「チョチョボリ」と呼ばれていた彼は戦いでいつも勇敢でしたが、小湯河戦闘で金山虎とともに戦死しました。崔一賢は北部朝鮮反日人民遊撃隊を組織するとき、将来の隊長と目されていた人であり、金沢環中隊長もしっかりした人でした。
指揮官が筋金入りであれば、その部下もみな筋金入りになるようです。中隊長は連隊長に似つき、小隊長は中隊長に似つき、隊員は小隊長や分隊長に似つくものです。誰もが知らず知らずのうちに、上級幹部の人格と性格に似るようになります。第七連隊は総じて呉仲洽に似て、鋼鉄の連隊になったといえます。
他の部隊の指揮官や兵士は、呉仲洽の率いる第七連隊をたいへんうらやましがりました。
白頭山根拠地で活動していたとき、しばらくの間われわれの部隊とともに生活した第一軍の曹国安師長は、しっかりした隊員を一人譲ってもらいたいと言って、機関銃に精通した人を要求しました。曹国安が欲しがったのはほかでもなく、第七連隊の名うての小隊長であり機関銃射手である姜曾竜でした。姜曾竜は朴禄金の夫です。姜曾竜に第一軍第二師に移る気はないかと聞くと、言下に断りました。最初は朴禄金と別れたくないからだろうと考えましたが、彼の話を聞いてみるとそうではありませんでした。彼が言うには、妻と別れるのは我慢できても、将軍の下を離れたくないし、また呉仲洽の率いる第七連隊とはなんとも離れがたいとのことでした。彼は呉仲洽にすっかりほれこんでいたのです。呉仲洽と姜曾竜は汪清時代の竹馬の友であり、汪清第一中隊にいたときからずっと同じ中隊で生活してきた仲でした。呉白竜も第八連隊の機関銃射手として異動するとき、呉仲洽の率いる第七連隊を離れたくないと言って手こずらせました。この二つの例によっても、呉仲洽の人望のほどがうかがえるはずです。第七連隊の隊員がもつ自分の部隊への愛着と団結力はなかなかのものでした。
われわれは過ちを犯したり、政治的・軍事的実務に欠けた人たちも第七連隊に送って鍛えさせました。一九三八年、臨江県新台子付近のある密営で機関銃小隊長が過ちを犯したことがあります。彼は実務能力も足りなかったので、臨時に第七連隊第四中隊へ送りました。その機関銃小隊長を呉仲洽のところへ送るとき、わたしはこう言いました。
「自分が責任をもって部下の生活を見守ってやれないようでは、もう幹部の資格がない。
自分一人の過失のため多くの隊員に苦労させたことに痛みを感じるようでなくては、幹部としての役割を果たすことができない。君は第七連隊へ行ってもう少し学び、鍛えるべきだ」 その機関銃小隊長は第七連隊へ行き、呉仲洽の助力を得て別人のように変わって元の職にもどりました。
第七連隊は朝鮮人民革命軍の管下部隊のなかでいちばん戦闘力の強い部隊でした。それで司令部では、もっとも急を要する重大な任務はいつも第七連隊にまかせました。第七連隊は朝鮮人民革命軍の基本攻撃手でした。わたしは行軍や宿営をするときにも、戦闘力と責任感の強い第七連隊をいつも後衛として配置しました。敵の追撃と不意打ちがつきものの遊撃隊の生活では、後衛がたいへん重要でした。われわれは宿営をするときには必ず、司令部から行軍してきた道を三〇〇~五〇〇メートルぐらい逆もどりした地点に、戦闘力の強い一個部隊を後衛部隊として残しました。司令部から後衛部隊までの距離が一~二キロぐらいある場合もありました。後衛部隊と司令部のあいだには、一定の間隔をおいて歩哨を立てたり監視兵を配置したりしました。われわれの経験によれば、人民革命軍の「討伐」に駆り出された敵は、前方で要撃する戦法はあまり使わず、遊撃隊の後ろに食い下がって追撃してくる戦法を多く用いました。われわれが戦闘力の強い部隊を後衛として配置したのはそのためです。一九三九年の春、茂山地域へ進出するときにも、青峰宿営地で第七連隊を後衛として配置しました。第七連隊の隊員たちは、焚き火もたけずに夜をすごしました。焚き火をたくと、敵に発見されるおそれがあったからです。それでも彼らは、つらさをこらえて一言の不平ももらしませんでした。
わたしは早くから、人民軍では呉仲洽のような人を典型としておし立てるように言ってきました。呉仲洽を典型としておし立てるというのは、呉仲洽を見習うということです。
金正日同志はすでに一九六〇年代の初期に、人民軍が第七連隊を見習うよう強調しています。彼は幼い頃から、呉仲洽がどんな指揮官で、第七連隊がどんな連隊であったかをよく知っていました。
では、幹部と党員、人民軍の将兵が呉仲洽から何を学び、第七連隊の何を見習うべきなのでしょうか。呉仲洽の長所はいろいろと分析できますが、なかでももっとも重要なのは、革命への限りない忠実性だと思います。革命にたいする呉仲洽の忠実性はどのように表現されたのでしょうか。それは、自己の司令官にたいする忠実性に明白に表現されました。
呉仲洽は何よりもまず、わたしの思想と路線に忠実でした。彼は朝鮮共産主義運動と朝鮮民族解放運動に関するわたしの思想と路線をつねに正当なものとして受け入れ、それを深く研究しました。そして、いついかなる状況のもとでも司令官の思想を無条件擁護し、その思想に反する傾向とは猛虎となってたたかいました。呉仲洽はわたしの思想と、司令官の指示した軍事作戦的方針を法とし至上の命令として受け入れました。呉仲洽には不純な思想が寄り付けませんでした。そういう人には不純な思想が通じないのです。思想的に潔白な人は、汚水の中でも腐敗しません。連隊長の思想が堅実であったので、第七連隊は全員が司令官と呼吸をともにしていたのです。
革命にたいする呉仲洽の忠実性はまた、司令官の命令、指示にたいする無条件的な実行精神と、その命令、指示の実行における強い責任感によって表現されました。呉仲洽は司令官の命令、指示であれば、寸分の狂いもなく最高の水準で必ず実行しました。その命令、指示がいくら過度のものであっても、泣き言をいったり不平を鳴らしたりすることは絶対にありませんでした。彼は司令官から与えられた任務を遂行したのちは、必ずその結果を報告し、命令、指示の実行過程であらわれた欠陥を一つも隠そうとせず、具体的に総括しました。
司令官の命令、指示にたいする呉仲洽の態度から幹部が見習うべきいま一つの長所は、一つの仕事を遂行してからは、それについでまた他の仕事をまかせてほしいと要請することでした。呉仲洽は手持ち無沙汰でいるのを嫌いました。仕事を一つ遂行すれば、必ず他の仕事にとりかかりました。今風の表現をすれば、継続革新、継続前進する人でした。第七連隊が他の連隊に比べきわだって苦労が多かったのは、呉仲洽が仕事熱心な連隊長であった事情と関連しています。呉仲洽は、たやすい仕事よりむずかしい仕事をまかされたときにいっそう喜ぶ特異な気質の軍事指揮官でした。
呉仲洽の革命にたいする忠実性、司令官にたいする忠実性は、政治的、思想的にのみでなく、生命を賭して司令官を守ろうとする決死擁護精神としても表現されました。呉仲洽は司令官の身辺の安全のためなら、連隊とともに肉弾となって飛び込み、いかに困難な戦いをも辞しませんでした。わたしが紅頭山で李斗洙中隊を率いて数百の敵を相手に苦戦していたとき、遠く離れたところで戦闘任務を遂行していた呉仲洽は、司令官同志の身辺が気づかわれるといって、敵の宿営地を電撃的に奇襲しました。後方が奇襲されるや、生き残った敵兵は仕方なく逃走してしまいました。あのとき、わたしは呉仲洽のおかげをたくさんこうむりました。漫江付近で戦闘がくりひろげられたとき、部隊の撤収を指揮するわたしを肉弾となって守ってくれたのも、呉仲洽と第七連隊の隊員たちでした。断頭山戦闘のときも同じでした。数百名の敵をしりにつけて撤収する司令部を、後衛を務めた第七連隊が掩護してくれました。
司令官にたいする呉仲洽の並み外れた忠実性は、苦難の行軍のときに集中的に表現されました。彼は行軍の初期にジグザグ戦法を使って、ほぼ半月間も決死的な後衛戦をくりひろげて司令部を防衛しました。他の機会にも述べたことですが、われわれは苦難の行軍の途中、七道溝の奥地で大部隊による集団行動が不利であると判断し、分散行動に移行しました。そのときわれわれと別れた呉仲洽は、進んで司令部を装い、二か月間以上も険しい竜崗山脈と長白山脈を縫って敵を誘引しました。そのため第七連隊の苦労は並大抵のものではありませんでした。司令部はそのおかげで、しばらくのあいだ敵の追撃を幾分そらすことができました。
七道溝の奥地でわれわれと別れるとき、呉仲洽連隊には一粒の食糧もありませんでした。
食糧を手に入れるためには、人家から遠く離れてはなりません。にもかかわらず呉仲洽は、嘉魚河、四登房台地、紅頭山の西方、双岔頭の北方を経て徳水溝に至る行軍コースをとりました。この路程は、無人の境にひとしい白色地帯でした。あるものといえば、山小屋のようなものだけです。そこは一度足を踏み入れたが最後、迷路にはまりこんでとうてい抜け出せないところでした。しかし呉仲洽は飢えに苦しめられながらも、司令部を狙う敵を自分の連隊におびきよせるため、わざとそうした険路を選んだのです。
最初、彼らは木材所を襲撃して手に入れた牛肉と馬肉で食いつないでいましたが、深い山中に入ってからは食べ物を手に入れることができませんでした。食べるものといえば雪しかなかったそうです。ある日、敵が自分の連隊のあとを追ってこないことを知った呉仲洽は、隊員たちにこう呼びかけました。
「われわれが司令部でないことに敵が気づいたのかもしれない。そうだとすれば、これまでわれわれは無駄骨をおったことになってしまう。逆もどりして、どうあっても敵をしりにつけてこなければならない。全員わたしのあとにつづけ!」 彼はモーゼル拳銃を引きぬき、ようやく歩きぬいてきた数里の道を引き返し、敵の宿営地を襲撃しました。そして、とうとう敵をおびきだしました。それ以来、第七連隊は敵が追撃してこなければ、引き返して一回二回と敵を痛めつけました。すると敵は、鼻輪でつながれた子牛のように第七連隊のあとを追ってきました。食糧が切れると、連隊は日本軍が屠殺して捨てた牛の皮を煮て食べながら行軍をつづけました。呉仲洽連隊は、その年の旧正月を凍ったジャガイモですごしました。それでも彼はかえって「われわれはこの山頂でこんなものでも食べているのに、司令部では何を食べているだろうか」とわれわれのことを心配していたそうです。
彼は行軍途上で飢えと脱力感に苦しむ隊員たちに、われわれはいま十年一日のごとく苦労をつづけているが、苦しみが終われば楽が来るものだ、やがてわれわれが日本帝国主義を撃滅し、解放された祖国に向かって行軍するときのことを考えてみたまえ、朝鮮人に生まれて、これより誇らしく光栄なことがまたとあるだろうか、きょうのこの苦難の行軍が解放された祖国に向かう道であることを忘れてはならない、これは金日成司令官のお言葉だ、みな司令部のために前進しよう、と呼びかけました。
呉仲洽はこういう人でした。彼は胸に大きな火の玉を抱いて戦ってきた人でした。その火の玉なるものは、革命にたいする熱情でした。その熱情の核はほかでもなく、司令官にたいする忠実性でした。いま一度言いますが、いついかなる状況のもとでもすべての兵士、指揮官が一致して、まず司令部の安全から先に案ずるのが第七連隊に固有な特徴であり、司令官の命令、指示を生命のように重んじ、それを最高の水準で実行し、司令部の意図を誰よりも敏感にとらえるだけでなく、その意図がなんであるかを把握すれば肉弾となって率先断行し、最後まで頑強にやり遂げるのが、まさに第七連隊の生活と闘争における戦闘的な気風だったのです。わたしの方に飛んでくる敵弾をわが身でふさいで倒れた李権行も第七連隊の出身であり、司令部の命令、指示を実行する途上で貴い生命をささげた呉日男、孫泰春、金赫哲も第七連隊の出身でした。
呉仲洽、崔一賢、姜興錫も司令部を守って生きぬき、六?松戦闘で惜しくも戦死しました。
それで、わたしは六?松戦闘を思い出すたびに心が曇るのです。もちろん、戦闘そのものは見事にやってのけました。ところが、その戦闘で大事な指揮官を三人も失ったのです。その夜の十時、呉仲洽は第七連隊と黄正海の区分隊を引率し、先頭に立って六?松の敵の兵営を攻撃しました。彼らが基本攻撃部隊でした。どうしたわけか、その日わたしは呉仲洽に、身に気をつけよという一言もいえませんでした。もちろん、そう言われたからと、身を惜しむような呉仲洽ではありません。彼は困難なときであるほど、部隊の先頭に立つ指揮官でした。わたしは第七連隊と黄正海の区分隊を送ったのち、ほどなく第八連隊を出動させました。第八連隊には、木材所の労働者のなかに入って政治工作をおこなうかたわら、敵の軍需品倉庫から食糧と軍需品を奪取する任務を与えました。
呉仲洽は突破班を率いてすばやく木柵を越え、鉄条網を断ち切って隊員たちに突撃命令を下しました。第七連隊は敵が我に返るすきも与えず、一挙に砲台と兵営を占拠しました。
あわてふためいた敵は兵営の地下道に潜り込みましたが、呉仲洽はいち早く地下道の入口に火を放つよう指示しました。地下道の入口から煙が立ちはじめると、敵はそれ以上たえられず、外へ這い上がってきました。しかし、わが方の勝利が確定的になったとき、思いがけない一撃を受けました。地下道に隠れていた敵兵が、捜索作戦を指揮していた呉仲洽連隊長に致命傷を負わせたのです。伝令の金鉄万も負傷を負いました。敗残兵の断末魔の抵抗に遭って、第七連隊の有能な指揮官である崔一賢と姜興錫も命を落としました。致命傷を負った呉仲洽もやはり、無念にも絶命しました。一生涯険しい道を踏みわけ、革命のためにあれほどわが身をかえりみず戦ってきた、火の玉のような人が逝ってしまったのです。
わたしは抗日武装闘争の時期、同志たちに、いかなる戦闘においても最後のしめくくりの段階で格別注意を払うよういつも強調したものです。事故はおおよそ、その最後のしめくくりの段階で生じるからです。六?松戦闘でも結局、戦闘をしめくくる最後の五分間に大事な戦友を三人も失いました。おそらく呉仲洽はあのとき、気を緩めたのでしょう。戦況がわが方に有利であったうえに、綿の燃える臭いにたえかねた敵兵が手を挙げて出てくるのを見て、自信過剰になったようです。
呉仲洽はもともと失策というものがない人でした。生活も几帳面でしたが、戦闘の指揮も見事なものでした。警戒心についていうなら、どの指揮官よりも徹底していました。それでいて、なぜその日に限って足下に敵がいることを考えなかったのか理解できません。
そもそも偵察班員の敵兵営の内部偵察に手抜かりがあったのです。偵察さえ綿密にしていれば、そんな不祥事は起こらなかったはずなのに、じつに残念なことでした。負傷を負った金鉄万がわたしのところへ来て、大声で泣きながら呉仲洽の戦死を告げたとき、わたしは最初、わが耳を疑いました。しかし、それが厳然たる事実であることを知ったわたしは、ほとんど理性を失い、呉仲洽を殺したのはどいつだ、呉仲洽を殺したやつは許せない、と叫びながら敵の兵営に向かって駆け出しました。
わたしはどんな悲しみに遭っても、隊員の前では感情をおさえるのになれていましたが、その日は本当に我慢できませんでした。わたしがどんなにいとおしんだ呉仲洽でしょうか。
いまでも、あのときのことを思い出すと胸がつぶれる思いです。その日、多くの敵を掃滅し、多量の戦利品を得ましたが、それがすべて煩わしく思われました。隊員たちもあのときほど悲しんだことはなかったでしょう。撤収命令が下ると、隊員たちは戦友の屍を肩にして六?松を発ちました。数百名の隊伍が涙のうちに歩を進めましたが、話し声一つ聞こえませんでした。われわれは大きな悲しみのなかで追悼式を挙行しました。追悼の辞を述べようと前に出ましたが、目の前が涙でかすみ、胸がつかえてまともに言葉が出ませんでした。わたしは昔もいまも困難を前にして涙を流したことはありませんが、悲しみを前にしては誰よりも涙を多く流したのです。
六?松戦闘は大きな意義をもつ戦闘でした。この戦闘を契機に敵の第二期「討伐」作戦は混乱に陥り、革命軍には大部隊旋回作戦の第一段階で勝利しうる契機がつくりだされました。敵が白頭山東北部の豆満江沿岸一帯に大兵力を集中しているとき、われわれが敦化の奥地に進出してひとしきりすさまじい銃声をあげたのですから、敵は唖然とせざるをえませんでした。六?松戦闘でもやはり、朝鮮人民革命軍主力部隊の中軸部隊である第七連隊が一番りっぱに戦いました。第七連隊は「鋼鉄部隊」ともいえる無敵の部隊でした。この部隊が一当百の部隊になりえたのは、連隊を指揮した呉仲洽の功労というべきでしょう。彼が忠臣であり名将であったので、第七連隊が強力な部隊になりえたのです。
わたしは金赫、車光秀と同様、呉仲洽を忘れることができません。呉仲洽はわたしにとって革命戦友であり同志であると同時に、命の恩人でもありました。呉仲洽連隊は敵のたえまない攻撃と挑発から朝鮮人民革命軍の司令部を鉄桶のごとく防衛してきた防弾壁であり、難攻不落の砦でした。
呉仲洽が戦死してから、わたしは以前にもまして隊員たちをいとおしみ大事にしました。
そして個々の隊員に、戦闘に入れば視野を最大限に広げてありうる損失を未然に防ぎ、慎重に行動するよう戒めました。しかし、何をもってしても、呉仲洽を失った損失だけは埋め合わせることができませんでした。
人びとはよく、わたしが呉仲洽をりっぱな革命家に育てあげたのだと言いますが、そうとばかり考えてはいけません。われわれは呉仲洽を通して、家庭の革命化について深く考えてみる必要があります。以前、汪清を含めた間島全域で一番に数えられた愛国的な革命一家はほかならぬ呉泰煕一家でした。この一族では、ほとんどすべての人が抗日革命に参加しました。地下工作員や人民革命軍隊員として活動し犠牲となった人だけでも二〇人近くいるのですから、国につくしたこの一家の愛国衷情のほどをゆうに伺うことができるでしょう。
呉仲洽があのようにりっぱに革命の道を歩むことができたのは、早くから呉氏一族の長老からりっぱな薫陶を受けたことが主な要因だったと思います。呉氏一族から多くの若者がそうそうたる革命家に成長した背後には、彼らに正しい人生行路を示した呉泰煕、呉成煕、呉昌煕、呉正煕など老人四兄弟の並々ならぬ労苦が秘められています。呉氏一族では子女の教育をたいへん重視し、とくに道徳教育に力を入れました。それがまさに愛国主義教育、反日教育、革命教育の強固な基礎となりました。呉氏一族の人たちは、貧しい暮らしのなかでも子女の教育に大きな意義を付与し、子どもを学校にやるために格別の努力を傾けました。呉氏一族に中学を出た者が十余人もいましたが、官吏としての出世コースではなく、みながみな革命の道を選びました。それは呉仲和の役割に負うところが大でした。呉仲和は家庭の革命化を地道に進めました。われわれが南・北満州遠征を終えて汪清に行った頃、すでに呉氏一族の青壮年と女性はみな革命組織に加わっていました。呉仲洽の家は呉氏一族のうちでもいちばん貧しい暮らしをしていました。それで革命化の進捗も速かったのです。呉仲洽はまず自分自身を革命化し、ついで弟たちを革命化し、家族全体を革命化したのです。呉仲洽の三人兄弟はみな、連隊と大隊の軍事・政治幹部として活動し戦死しました。
わたしは一九四一年の夏、羅子溝一帯で小部隊活動をしていたとき、呉仲洽の父親呉昌煕や朴吉松の父親朴徳深と連係を結びました。当時、呉氏一族は羅子溝に住んでいました。
山から望遠鏡で呉氏一族の家を見下ろすと、家の者が背負子に薪をいっぱい乗せてしおり戸から入る姿まで見えました。呉氏一族の人たちは羅子溝に来てからも、革命軍の留守家族らしく生活していました。当時、わたしは金一を送って、呉昌煕、朴徳深老を中心に羅子溝一帯の革命軍留守家族で地下組織をつくらせました。小部隊活動の時期、白頭山東北部に進出したとき、呉昌煕老から多くの援助を受けました。この老人の手引きで慶源(セッピョル)地区へ渡り、革命組織をつくりました。
呉氏一族はまことに史書に記録されるべき革命一家です。わたしは今もしばしば、呉仲洽が生きていたらどんなにいいだろうかと考えたりします。もし彼が生きていたなら、わが国には無数の第七連隊が生まれているはずです。
いま金正日同志は人民軍内で呉仲洽を見習う運動を指導していますが、それはたいへんよいことです。かつてわたしのそばには、呉仲洽のような忠臣がたくさんいました。
呉仲洽のような忠臣を多く育てて、金正日同志のそばに立たせるべきです。
金正日同志は朝鮮の未来であり、朝鮮革命の運命です。わが祖国が末長く繁栄し、わが国の社会主義が生々発展するためには、金正日同志が健やかでなければならず、全党、全軍が金正日同志の指導に忠実にしたがわなければなりません。幹部は金正日同志を革命の頭脳として仰ぎ、白頭の密林できりひらかれたチュチェの革命偉業を代を継いで継承し完成するかたい覚悟をもって、社会主義建設の各部門でひきつづき輝かしい成果を達成するとともに、呉仲洽連隊が司令部を防衛したように、朝鮮革命の最高司令部である党中央委員会と金正日同志を生命を賭して擁護、防衛しなければなりません。