大荒崴での論争
第10章「自主の信念のもとに」から
金日成

  「民生団」問題をめぐるわたしと東満党指導部のメンバーとの論争は大荒崴会議が最初だったと考えるなら、それは正確な考察とはいえない。この論争はすでに1932年10月にはじまっていた。北満州への進出を開始したわれわれの部隊が汪清地方に来てしばらくとどまっていたときである。わたしはそのとき、汪清滞留日程の手始めとして一区(腰営口)の党活動の指導にあたったのだが、その過程で県党と区党の一部の幹部が反民生団闘争を革命的原則に反して極左的な方法で進めている事実を目撃した。

  ある朝、一区党の組織部長李雄傑と一緒に村を見てまわっていたわたしは、区党事務所からもれてくる悲鳴を耳にして立ち止まった。

「あの声は何ですか?」

李雄傑はなぜか顔をしかめた。

「県党の」メンバーが李宗振という人を詰問しているのです」

「どうして? 民生団の嫌疑者ですか?」

「まあ、そういうことでしょう。本人は3日間も違うとねばっているのですが、幹部たちはしきりに罪状を白状しろと責め立てているんです。あの声を聞くと1日中仕事が手につきません。早く行きましょう」

「彼を民生団とする根拠は何ですか?」

「敵中工作に行って、帰りが数日遅れたのが問題になったのです」

「そんなことが理由になるというのですか?」

「隊長、気をつけてください。ここではその一言だけでも民生団にされますよ。民生団の嵐で生きていくのがまったくつらくなりました」

わたしは李雄傑が引き止めるのを振り切って区党事務所へ足を向けた。県党から来た人物は一区の赤衛隊員たちと一緒になって李宗振を容赦なく責め立てていた。わたしが事務所に入ると、県党の幹部は、見知らぬ客に汪清で階級闘争を果敢に進めているのを見せようとでもするかのように、すごい剣幕で李宗振を痛めつけた。

李宗振は中国人地主の家で10年以上も作男をしてきた雇農であった。敵の討伐で妻を亡くし、幼い2人の子は革命活動の妨げにならないように他人にあずけた。遊撃区に来てからは、一区所属の支部党書記として工作にあたり、大衆の信望も厚かった。こういう人が利敵団体に加わって反革命に走る理由があろうはずはない。それを、工作地からの帰りが遅れたからと、民生団の根拠にするのは正当であろうはずがない。

わたしは尋問を中止させ、県党と区党の幹部たちに助言をした。

「みなさん、わたしが調べたところによれば、李宗振同志には民生団扱いにする根拠がありません。はっきりした根拠もなしに、ささいな工作上の誤りをもって誰彼なしに暴力沙汰に及んではなりません。反民生団闘争は科学的根拠をもって慎重に進めるべきです」

尋問はいったん中止されたが、県党の幹部たちはわたしが腰営口を離れて馬村へ行ったあとで、李宗振を殺害してしまった。そのかわり、安図から来た金日成隊長が腰営口の区党事務所に現れて、県党から出向いてきたそうそうたる幹部たちの民生団尋問を中止させ、彼らを弾劾したといううわさが汪清県党と東満特委の幹部たちの耳にまで入るようになった。このうわさは汪清の域を越えて延吉、和竜、琿春の各地方にまで広まった。「あとのたたりも考えずにそんな口出しをしたのだろうか、無鉄砲もはなはだしい」といって心配する人がいるかと思うと、「まだ汪清の味を知らないのだ。キム隊長は安図の人間なのだから」という人もあり、「とにかく度胸のある人だ」と用心深く誉める人もいたという。

わたしの一区党事務所での言動は、事実上「民生団」問題をめぐるわたしと極左分子との論争の発端となった。この論争は1933年に入っていっそうはげしくなった。1933年は東満州地方の遊撃区で民生団にかかわる粛清がもっともひどくおこなわれた年である。この年に、民生団の嫌疑をかけられた朝鮮人出身の少なからぬ軍・政幹部と革命家が殺害されたり逃避したりした。

わたしもまたあやうく民生団のわなにかかるところだった。「粛反」を極左の極限にまでもっていった排他主義者と分派・事大主義者は、わたしを民生団と結びつけようと執拗に企んだ。彼らがもちだした「証拠」なるものは、なんの信憑性もないものであった。その「証拠」の中には図們地主拉致事件というのもあった。

当時、柳樹河子地方に常駐していた百余名の中国人反日部隊は軍服が調達できず、われわれに援助を求めてきた。そこでわれわれは、救国軍が義援金募集工作に利用しようと人質にしておいて逃した地主を連れもどして説得し、彼の助力を得て500着分の軍服用布地と綿を手に入れたのだが、これが図們地主拉致事件と呼ばれていた。われわれはその布地と綿で汪清地方の反日部隊の将兵全員に新調の軍服を着せた。当時の状況からして、真冬に軍服すら着せてやれないなら、反日部隊の将兵が敵に帰順または投降する恐れが大きかった。救国軍のような友軍の協力を得ず、革命軍の力だけで孤軍奮闘しては、遊撃区を維持するのが困難であった。

李容国の後任として汪清県党書記に登用された金権一は、東満特委の幾人かの幹部とともに、遊撃隊が地主を利用して救国軍の冬季用軍服を調達したのは右翼投降主義的な行為だと非難し、軍隊を統率している金日成は民生団の働きを放任し助長した責任を負うべきだと主張した。彼らがわたしの名まで引き合いに出して責任を云々するのは、事実上、東満州で発言権をもっている朝鮮人出身の幹部を最後の1人まで除去してしまおうとする下心からであった。彼らははなはだしくは、金日成が反民生団闘争を怠ったため汪清遊撃隊の内部に民生団がはびこるようになったとまで言いふらし、なんとかしてわたしを「粛反」の審判台に引きずりだそうとした。こうして、わたしは彼らと真っ向から衝突するようになった。わたしは、地主を通じて救国軍の軍服を調達したのが右傾になるはずはなく、まして民生団の働きかけになるはずがないと主張し、ついで反民生団闘争にたいする見解もためらうことなく公開した。

――反民生団闘争はとりもなおさず反スパイ闘争であるから、それは誰であれ避ける権利はない。わたしとしてもわれわれの部隊内に民生団が浸透するのを望まない。けれども民生団の粛清にかこつけて罪なき人を手にかけることにたいしては黙って見ていることはできない。罪のない味方の人間を手当たり次第殺害することこそ革命を破壊する利敵行為であるのに、そういう行為を見ながら、どうしてわれわれが口をつぐんでいられるというのか。見よ、あなたたちに民生団という汚名を着せられた人たちがどういう人たちなのか。この遊撃区でわれわれと生死も苦楽もともにしてきたえりぬきの戦士たちではないか。そういう戦士たちがなんのために革命に反対する民生団になるというのか。あなたたちの言うことは理屈に合わない――

極左分子たちはわたしの話を聞くや怒り心頭に発して、「それなら、きみは反民生団闘争路線に反対するのか?」と大声を張り上げて問い返した。

「革命に忠実な味方を殺すのがあなたたちの追求する反民生団闘争路線なら、わたしはそれを支持することはできない。民生団を摘発するなら科学的な根拠をもって摘発すべきなのに、なぜこの山中で飢えに耐えながら革命のために苦労している人たちを1人ひとり消してしまうのか。おかしいではないか」

わたしはこう論駁した。わたしが鋭く問いつめていくと、東満特委の極左分子たちは「金日成は民生団にたいする認識が欠けている」と非難した。わたしは「欠けているとしよう。それなら、あなたたちが民生団と決めつけた人たちにわたしが直接会ってみる。拘禁者の陳述が聞きたければ一緒に立ち会うがいい」と言った。

梨樹溝谷の民生団監獄に拘留されている人の中には、張捕吏(本名張竜山)と呼ばれる中隊長がいた。彼の父親は汪清地方の名猟師だった。張竜山は父親が狩りに出かけるときについて歩いて射撃術に習熟した。彼はうどん粉をこねておいてから、猟に出ては一度に8頭のノロ鹿を捕ってきてすいとんをつくったというほどの名射手だった。小汪清防衛戦闘のとき、彼が1人で撃ち倒した敵の数だけでもおそらく百人はこえるであろう。彼はわたしがもっとも大切にした指揮官のうちの1人だった。そういう人物が一朝にして民生団のレッテルを貼られ、畜舎にひとしい監獄につながれているのだから、それを目にするわたしの気持がどうであったかは言わずもがなのことである。

「張捕吏、はっきり答えるんだ。きみは本当に民生団なのか?」

民生団監獄に行くなり、わたしは張竜山に単刀直入に尋ねた。すると、彼は別にためらう気配もなく「民生団です」とあっさり認めてしまった。

「それなら、民生団だというのに、なぜ日本軍を大勢撃ち殺したのだ?」

張竜山の陳述を聞こうとして監獄までついて来た極左分子たちはみな、鼻息を荒くしてわたしを見守っていた。わたしは高ぶった胸を鎮め、条理を立てて張竜山を諭した。

「張捕吏、民生団というのは日本人を擁護するものだし、また日本人がつくりあげた反動組織だというのに、きみが民生団なら、彼らを百人以上も撃ち殺したというのはおかしい話ではないか。のど首に刀をつきつけられても、物はまっすぐに言うべきではないか。正直に話してみなさい」

こう言われてはじめて、張竜山はわたしの手をとって肩を震わせ、涙声で訴えるのであった。

「隊長、わたしがなんで民生団になるというのです。違うと言っても聞いてくれず、やたらに殴りつけるので、仕方なく民生団だと言ったんです。隊長の顔に泥をぬって申し訳ありません」

「わたしの顔に泥をぬろうと墨をぬろうと、そんなことは問題外だ。問題はきみが、ひどい仕打ちをする暴君の前では民生団だと答え、わたしの前ではそうでないと言う骨なしだということだ。二枚舌をつかう卑怯者はわたしには必要ない」

わたしがはげしく怒って「監獄」の外に出てきたので、極左分子たちはあえて口をきくことすらできなかった。その日、わたしは童長栄に会って強く抗議した。

「わたしの見るところでは、あなたがたのやり方に問題がある。反民生団闘争はそんなやり方で進めるべきではない。どうして罪もない人たちを民生団にして拘留するのか。反民生団闘争は民主主義的方法でやるべきだ。上層の一部の権力者の独断ではなく、大衆の討議をへて敵味方を正確に区別すべきだ。拷問と脅迫によってありもしない民生団をつくりだしてはならない。いまこの汪清で張捕吏を民生団とみなす人はあなたがたしかいない。張捕吏はわたしが命をかけて保証するから即刻釈放してもらいたい」

わたしは極左分子たちに、遊撃隊内の「民生団」は政治部の承認なしには連行できないと宣言した。そして部隊に帰ってからは、張竜山を「粛反」指導部に勝手に引き渡した指揮官を処罰した。その日、東満特委はわたしの要求どおり張竜山を釈放した。張竜山はその後、寧安県周家屯という所に派遣され、食糧工作にあたって最後までりっぱに戦った。

世に広く紹介された朴昌吉事件も1つの試練であるといえば試練に違いなかった。それは、われわれが嘎呀河に駐留していたときのことである。ある日、われわれは図們付近から引いてきた民会の牛をつぶして軍人と村人たちを接待した。ところが、その牛肉を食べた多くの人が下痢を起こして苦労した。戦友たちはわたしの宿所になだれこんできて、民生団が井戸にまいた毒薬のため全員中毒にかかっているが、皆殺しになるのではないかと大騒ぎした。それが事実なら、中隊は全滅しかねなかった。

わたしは万が一の場合を考えて中隊の全員を裏山に移し、ありうる敵の来襲に備えて万端の戦闘準備をととのえさせた。ところが不思議なことに、かなりの時間が経過してもわたし自身は全然腹痛が起こらないのである。当然あるものと予期した敵の出動もなかった。わたしは中隊長と政治指導員、共青書記、青年幹事など中隊の指揮官を集めて、「きみたちも本当に民生団が井戸に毒薬をまいたと思うのか」と聞いてみた。指揮官たちは深く考えもせず、「そうだと思います」と答えた。

「ところが、わたしは昨晩も今日の朝も牛肉汁を食べたが、腹に異常はない。他の人が腹痛を起こせば、わたしも中隊長も例外にならないはずなのに、痛くならないのだから、これはどう説明すべきなのか?」

「指揮官用の汁はきれいなものを使ったからでしょう」

中隊長がこう答えた。

「それは理屈に合わない。同じ釜の汁を使った以上、指揮官のものだからといって毒が及ばないというわけはないではないか」

しばらくして、村を巡察していた小隊長が、井戸に毒薬をまいた民生団を捜し出したといって、背丈が歩兵銃ほどの子どもをわたしのところに連れてきた。その子が問題の朴昌吉であった。小隊長の話では、彼が村人の前で自分の罪を率直に認めたというのである。村中は犯人がつかまったといううわさでもちきりだった。そいつは許せないやつだとののしる人もあれば、その子の母親を処刑せよと叫ぶ人もいた。昌吉は中国人地主の家で豚飼いをしながら苦労して育った子であった。兄たちの中には遊撃隊で中隊の給養責任者を勤める人もおり、党支部に勤める人もいた。そういう子が遊撃隊の一個中隊を全滅させかねない悪事を働いたというのは、とても信じられないことであった。わたしは昌吉と数時間ものあいだ話をした。昌吉はわたしの前でも自分の「罪」を認めた。だがしまいには泣きながらそれを否定した。彼が最初、村人の前で自分の「罪」を認めたのは、毒薬をまいたという濡衣を無理に着せようとした村の女性たちにたいする反発からであった。

わたしは中隊を率いてただちに山から下りてきて大衆集会を開いた。そして朴昌吉の無罪を宣言した。

「この子は毒薬をまいていない。では誰がまいたのか? みなさんの中には毒薬をまいた人は1人もいない。毒薬を飲んだ人もいない。いるとすれば、下痢を起こして1日、2日苦労した人がいるだけだ。腹痛を起こしたのは、久しぶりに牛肉を食べ過ぎたせいだ。だから、ここに民生団問題というものはありもしないし、ありうるはずもない。わたしは今日この場で、みなさんが民生団扱いにした昌吉を遊撃隊に入隊させることを宣言する」

村の女性たちはわたしの演説を聞いて肩を震わせながら泣き出した。朴昌吉を民生団扱いにした人たちもみなすすり泣いた。

極左分子たちは朴昌吉事件にたいしてもやはり、右寄りの立場で処理されたといって問題視した。その後、遊撃隊に入隊した朴昌吉は、小汪清防衛戦闘で勇敢に戦った。このように、わたしは極左分子の包囲の中でいくつかの大きな冒険をした。民生団監獄から張捕吏と梁成竜を救出したのが1つの冒険であったとすれば、いま1つの冒険は朴昌吉の無罪を宣言し、彼を遊撃隊に入隊させたことであった。

権力に目のくらんだ浅薄で愚鈍な人間たちが、色メガネ越しに人びとの真価をはかり、検事や判事、刑吏の真似ごとをしているとき、人間を人間とみなし、同志を同志として接し、人民を人民として誠実に仕える信義の政治、愛の政治をおこなうというのは、正直に言って当時としてはきわめて危険な行動ではあったが、命をかけてでも挑まねばならないたたかいであった。万事を民生団の仕業とみなす不信の監視網のもとで、自分を救う最大の保身術は、何事にもかかわりをもたず、見ても見ぬふりをすることであった。しかしわたしは、不正を不正とする勇気がないなら、それは生きていてもこと絶えた命にひとしく、ことさら生きる必要すらない生命なき生命にすぎないという覚悟で、不正とみなされるすべてのことに反抗した。一身の安危のみを気づかうなら、それがなんの革命家といえようか。わたしは「粛反」の旋風がいかに猛威をふるおうとも、それは一時的な現象であり、われわれが一命を賭してたたかうならば、必ずそれを退けることができると確信した。

民生団ならぬ民生団の粛清で権力の味を知った「左」翼排他主義者と分派・事大主義者は、はなはだしくは、東満州遊撃区につくられた党と遊撃隊の組織体系とそっくりの東満党の民生団体系と人民革命軍の民生団体系なるものまで考案し、それを公表するにいたった。極左分子たちはわれわれに、遊撃隊内にも民生団がかなり浸透しているという印象を与え、反民生団闘争に歯止めがかからないように、わたしとわたしの配下の隊員たちとのあいだにもくさびを打ち込もうと策した。

ある日われわれの部隊を訪ねてきた某幹部が、わたし宛の東満党組織部長の手紙をもってきた。封を切って手紙を読んだわたしは唖然とした。どこから入手した資料なのかはわからないが、韓鳳善という隊員が民生団の手をのばしてわたしを殺害しようと企てており、罪状からして当然逮捕すべき対象であるから、ただちに連行すべきだというのである。韓鳳善の「罪状」は許しがたいものであったが、なぜか手紙に書かれている内容には信用できないところがあった。まず、彼が民生団の策動を大がかりにくりひろげるということが芝居じみていた。これまで命を惜しまず戦ってきた韓鳳善が、いったいなんの魔がさして民生団に加担するというのであろうか。人格のうえから見ても、彼は自分の上官を陥れたり殺害するという悪だくみのできる凶悪な男ではなかった。むしろ他人からそねまれるほど善良で礼儀正しい好男子であった。日ごろのわたしとの親交も非常に厚かった。そういう人間が、格別目をかけてくれる上官に危害を加えようとしているというのは信じられないことだった。だからといって、手紙に書かれていることを頭から否定することもできなかった。まさか組織部長がそんなつくりごとを書いてよこすはずはない。いずれにせよ、わたしの心中は穏やかでなかった。手紙を言付かってきた幹部には、わたしがじかにもっと点検してみて処理するから、安心して帰るようにと言った。

「いつ事が起こるかわからないというのに…。あなたはまったくおかしな人だ」と言って、彼はしぶしぶ立ち去った。

わたしの頭には複雑な思いがつぎつぎにわき起こった。韓鳳善が本当にわたしを殺害しようとしているのだろうか? なぜわたしを殺害しようとするのだろうか? わたしを手にかける理由はないではないか。彼を特委に引き渡さなかったのはよかった。だが、彼をそのままにしておいて、なにか事が起こったら大変ではないか。

数日後、わたしは韓鳳善を指揮部に呼んだ。彼はいつもと変わらずにこにこ笑いながらわたしに尋ねた。

  「隊長、なんのご用でしょうか。敵中工作の任務をくださるつもりではないのですか」

  「そのとおりだ。今日ただちに三岔口へ行って、密偵を1人捕らえてきてもらいたいのだ。きみは勘のするどい人だ」

  「そういうわけではありません。昨夜、図們見物に出かけた夢を見たのですが、中隊の同僚たちの夢占いによれば、敵中工作に出る兆しだというではありませんか。夢占いがずばりと適中したわけですよ」

  「では、護身用の拳銃を一挺やるから、持っていきたまえ」

  「銃は持ち歩きが面倒なのでおいて行きます。口でうまく言いくるめて連れてきますから心配ご無用です」

  「それなら銃はどこかに埋めておいて、帰ってくるとき持ってきたまえ」

韓鳳善は言われたとおりにモーゼル拳銃を途中で埋め、三岔口市内に行ってわたしの指名した密偵に会った。そして、「共産区域に一度行ってみないか。身辺の安全はわたしが保証する」と言いくるめて、密偵を遊撃区に連れてきた。

 密偵の尋問はわたしが直接担当した。

「われわれはおまえが日本の手先であることをよく知っている。だが、おまえを殺しはしない。そのかわり、われわれの仕事を少し手伝ってもらいたい。憲兵隊に名前をのせて誓約もしたのだから、日本人に指図される任務はそのままやりながら、討伐隊が来るときだけあらかじめ知らせてくれ。他の任務は与えない。それだけを首尾よくやりとげれば、後日革命家として認めてやる。できるか?」

密偵は、隊長さんの言いつけはなんでもやるから、革命組織のメンバーが自分を殺さないように身辺の保護をしてもらいたいと哀願した。密偵が帰るときにも、わたしは韓鳳善を呼んで、彼を三岔口まで連れていくように命じた。韓鳳善がこの任務もりっぱに果たしたことは言うまでもない。

こういうことがあったあとで、わたしは東満特委の幹部たちに話した。

「韓鳳善を点検するため銃を持たせたが、逃走しなかった。日本人の手先を捕らえてこいと命じたところ、任務を果たした。銃と弾丸をやったのだから、わたしに危害を加えるつもりならいくらでもできたはずだ。けれどもそんなことはしなかった。こういう人が果たして民生団だろうか?」

東満党の幹部たちは、民生団もそういう芝居はうてる。彼が銃を携帯しながら逃走もせず、あなたを手にかけなかったのは、幹部の信用を得て隊列に深く潜入し、民生団の働きを大がかりにやろうとしたからだ。だから彼を信頼することはできない、と言うのであった。

わたしは韓鳳善に第2の任務を与えた。図佳線鉄道に爆発物をしかけることであった。彼は今回もためらう気色もなく笑顔で工作地に向かった。「きみは冒険好きなのが欠点だ。捕えられないように気をつけろ」と言うと、彼は「つかまったらつかまったでかまいません。そんなことは平気です。つかまっても裏切りませんから、わたしを信じてください。せいぜい銃殺されるくらいが関の山でしょう」と言うのだった。

わたしが韓鳳善を突撃隊に入れたのはそのつぎのことであった。われわれはそのとき汪清周辺のある集団部落を襲撃したのだが、戦闘は苛烈をきわめた。突撃隊の責任者となった韓鳳善は先頭に立って砲台を攻撃中、不幸にも片手を失った。だが、その代償としてこの勇敢無双の楽天家は、民生団の嫌疑から完全に解放されることになった。わたしは3回の点検によって、彼が民生団ではなく革命に忠実な人間であることを証明した。あのときわたしが彼を点検せずに組織部長に引き渡していたなら、間違いなく反動分子のレッテルを貼られて処刑されていたはずである。わたしが極左分子の指図を保留させ、点検を通じて彼を救い出したのは、命がけの冒険にひとしかった。もしあのとき、彼が銃を手にしてある幹部を殺害するか、敵地に逃走していたなら、わたしは彼を信頼した責任をまぬがれることができなかったであろう。これがわたしの3度目の冒険であったといえる。こういう冒険はその後もつづいた。

某幹部の一言の命令や1回の手振りによって、数十数百の人間の運命が決まる険悪な「階級闘争」の場で、革命家の冷静な理性と分別はおろか、初歩的な人情や道義すら捨てた木石も同然の人間たちの挑戦に直面しながらも、いかなる圧力にも屈せず自分の信念にもとづいて最後まで正々堂々と行動することができたのは、白紙のように汚点のないわたしの経歴と遊撃隊指揮官としての戦果と理論的裏付けによるものだったといえる。また、間島で指導部を占めていた中国人幹部の中に吉林時代からわれわれの影響を多分に受けてきた人物が少なくなかったので、彼らもわたしだけは民生団にして排除することができなかったのである。

反民生団闘争のすさまじい旋風が東満州の遊撃区を吹きまくっているときに、わたしは病床を払って大荒崴に向かう準備をした。数十日間も病みつづけた体だったので、会議に参加するほどの気力はなかったが、わたしが要求した会議なのでぜひとも行かなければならなかった。ところが、第4中隊長と政治指導員をはじめ軍隊内の多くの同志たちは、わたしの大荒崴行きに必死になって反対した。

「隊長、満州省党からも共青満州省委からも派遣員が来たそうですが、どうもただごとではなさそうです。いくら真理が隊長の側にあるとしても、とにかく隊長は1人だし、彼らは多数を占めているではありませんか」

第4中隊の政治指導員がそれとなく言うのだった。伝令の呉大成さえも、わたしの大荒崴行きに憂慮を示した。大荒崴会議がわたしに微笑を投げかけ、祝福の挨拶を送るだろうという期待をもって励ましてくれる楽天家はただの1人もいなかった。彼らが出発をひかえてそれほど不安がったのも無理はなかった。1935年2月といえば、満州省党が東満州の各級党組織とすべての党員に、全党のボルシェビキ化をめざして粛反工作と「左」右両翼に反対する闘争を強力に展開し、党内に潜入した反革命分子をすべて除去し、派閥主義、民族主義、社会改良主義を清算せよという秘密指令を示達したあとだった。この指令が示達されて以来、東満州の各級党組織は反民生団闘争をいっそう極左的に容赦なく展開していた。

「民生団」問題をめぐるわたしと極左分子たちとの論争は、それまで非公式の場で自然発生的な形でおこなわれてきた。しかし、党と軍隊、共青の主要幹部が全員集まる大荒崴会議では、論争が公式的な形で鋭く展開されるであろう。極左に反対する勢力がわたし1人であるとすれば、わたしに反対する勢力は10名、20名を越えるであろう。なぜなら、「民生団」問題が上程されると、言いたいことがあっても口をつぐんで素知らぬ顔をするのが通例だからである。したがって、わたしは極左の包囲の中で全員を向こうにまわしての力に余るたたかいをしなければならないはずである。論争の場はわたしを断罪する弾劾場となり、会場はわたしを葬り去る裁判の場になりかねない。民生団だといって、わたしを政治的にも肉体的にも葬ろうとする極端な企図もなきにしもあらずだった。戦友たちはこの点をいちばん憂慮した。「粛反」を主管している者たちが血も涙もない木石漢であることをよく知っていたからである。それで彼らは真っ青になって、大荒崴に行かないでくれと懇願した。だが、わたしはそれを振り切って出発した。

「諸君、これは死のうと生きようと発たねばならない道だ。もしもわたしが大荒崴へ行かなかったら、それは自滅をまねくだけだ。われわれには朝鮮の共産主義者の運命を救い、朝鮮革命を危機から救い出す絶好の機会が訪れた。対決は避けられず、黒白はぜひとも明らかにしなければならない」

わたしは呉大成ともう1人の伝令に付き添われて、会議が開かれて2日目の日に大荒崴に到着した。人民革命軍隊員のきびしい警備陣が布かれている第8区農民委員会の事務所で、王潤成、周樹東、曹亜範、王徳泰、王仲山などの東満党・団特委の幹部たちとともに、満州省党派遣員の魏拯民がわたしを迎えてくれた。このだだっ広い事務所の建物で、中国人側が東満党・団特委連席大会と名づけた会議が開催されていた。わが国ではこの会議を大荒崴会議と呼んでいる。ひところ一部の歴史家が朝鮮人民革命軍軍・政幹部会議とも言っていたが、それは正確な名称とはいえない。

大荒崴会議は10日ほど続行された。会議の期間に出入りする人もいたので、出席者の数は一定していなかった。中国人が大部分で、朝鮮人出身としては、わたしと宋一、林水山、趙東旭など数名の幹部だけだったと記憶している。趙東旭は会議の全期間、中国語を解さない朝鮮人幹部のために通訳の役目を果たした。わたしは東満党特委委員の資格でこの会議に参加した。

大荒崴で会議が召集されることになった動機は、共青満州省委の巡視員の資格で間島地方の活動状況を調べに出向いてきた鐘子雲(俗称小鐘)が、東満州地方の朝鮮人の70%が民生団であるという偽りもはなはだしい報告を省党組織に提出したことにあった。それが事実だとすれば、東満州の革命はどうなるだろうか。満州省党が東満州へ代表を急派して収拾策を講じようとしたのも当然のことである。論争は夜昼となく展開された。論争が熱気をおびはじめたのは、鐘子雲がその報告で、東満州にいる朝鮮人の70%、朝鮮人革命家の80%ないし90%は民生団かその嫌疑者であり、遊撃区は民生団の養成所だという従来の見解を繰り返した瞬間からだった。会議の雰囲気は鐘子雲の報告を支持する側に傾いた。粛反工作委員会を強化すべきだと発言する者もいれば、民生団の粛清は革命によって隊列内の反革命を包囲せん滅する特殊戦だという美辞麗句を並べる者もおり、また民生団がまき散らした種をより徹底的に容赦なく根絶やしにすべきだと主張する者もいた。

わたしは彼らにいくつかの質問をつきつけた。東満州で活動している朝鮮人革命家の大部分が民生団であるというなら、この会議に参加しているわたしと他の朝鮮の同志たちもみな民生団だということになるが、だとすれば、あなたたちはいま民生団と対座して会議をしているのか? われわれが民生団であるなら、なぜ獄につなぐなり殺すなりせず、ここに呼んで政治問題を論じ合おうとするのか? あなたたちが示したその数字の中には、戦場で戦死した革命家も含まれているのか? もし含まれているとするなら、彼らが抗日戦争で命をささげたことをどう説明すればよいのか? だとすれば日本人が自分の味方を大勢殺したことになるが、彼らがわざわざ育てた民生団員たちをそのように殺す必要があったというのか? この会場の警護にあたっている第1中隊の80%ないし90%も民生団とみなすのか?

この質問のためざわめいていた会場はたちまち、わたし自身も不思議に思えるほどの冷え冷えとした静寂につつまれた。誰もが黙然として執行部の席に座っている魏拯民に視線をそそいだ。

「承知のとおり、どんな物質であれ、本来の構成要素とは異なる要素が80ないし90%以上を占めるようになれば、その物質は他の物質に変わってしまう。これは科学である。東満州に住む朝鮮人の70%が民生団だということは、老人と児女を除いた朝鮮人の青壮年全部が民生団だということにひとしいが、だとすれば東満州では民生団が革命をしており、民生団が自分の主人である日本との血戦を展開しているというのか。一部の人は東満州で活動している朝鮮共産主義者の大部分は民生団だと公言しているが、これもやはり理屈に合わないことだ。もしも彼らが民生団だとするなら、なんのために3年ものあいだ恒常的な封鎖状態におかれている遊撃区で、きびしい冬のさなかに家もなく、着るものもなく、食べるものも満足に食べられず、敵と力に余る戦いをしてきたというのか。朝鮮人革命家の80ないし90%はおろか、その10分の1の8~9%だけが民生団だとしても、われわれはここで安心して会議を開くことはできないだろう。なぜなら、いまこの会場の周辺には、朝鮮人で編成された第1中隊が完全武装をしてわれわれを警護しているからだ。この席には数年前から敵が一掃できずに手をやいている東満州地方の名だたる革命家と指導中核がみな集まっている。あなたたちの主張が正しいとすれば、第1中隊のメンバーもほとんど民生団であるはずだが、彼らが銃器をもっていながら、われわれを襲撃して一網打尽にしないというのはおかしいではないか」

誰も彼も民生団だと強弁していた主唱者たちは、この問いにもやはり口をつぐんだままだった。

「第1中隊はもともとあなたたちが民生団中隊と断じた浮かばれない中隊だ。わたしが約20日間、中隊で調べたところによれば、中隊全員を民生団とみなす根拠はなに1つなかった。むしろ20日間の指導と点検の過程で第1中隊は模範中隊となり、そこから第7中隊が新たに誕生しさえした。実践闘争を通じて点検された結果によっても、東満州遊撃区に住む朝鮮人や朝鮮人革命家の大部分が民生団でないことはあまりにも明白な事実である。報告では遊撃区を民生団の養成所だと指摘し、党・団組織も民生団組織だとし、李容国は民生団の汪清県党責任者、金明均は民生団の汪清県組織および軍事責任者、李相黙は民生団の東満党組織担当者責任者、朱鎮は人民革命軍第1師の民生団責任者、朴春は人民革命軍の民生団参謀長だとしているが、それなら東満党も汪清県党も人民革命軍第1師もすべて民生団の組織とみなしてよいのか? 東満党の幹部を民生団の操縦者、指導者とみなしてもかまわないのか?」

参会者はこの問いにも沈黙をもって答えた。

省党の派遣員としてこの闘争を客観的に正しく分析、総合し、評価すべき使命をになっている魏拯民1人だけが、党・団組織そのものを民生団組織とみなすのは誤りであり、部分と全体は必ず区別すべきだという見解を述べて、場内の緊張を若干やわらげた。

わたしは、東満州人民の大部分が民生団だと烙印を押すのは朝鮮人にたいする冒涜であり、こうした見解は今回の会議で即刻是正されなければならないと強く主張した。わたしの主張は即座に曹亜範の反撃をまねいた。

「あなたはあたまから民生団はいないと主張しているが、それは主観というものだ。監獄にはいま数百名の民生団嫌疑者が収容されている。彼らは自分の口で民生団に加入したことを自白しており、自分の手で自白書まで書いているが、その自白と自白書はなにを意味するのか。あなたはそういう証拠資料を認めないというのか」

「あなたたちの言うその自白や自白書なるものをわたしは認めない。その証拠資料というのは大部分、拷問という強制手段によってつくりあげたものだからだ。わたしは監獄へ行って、自白をしたという数10名の嫌疑者に会ってみたが、その自白を認めた人は1人もいなかった。わたしはあなたたちのそんな証拠資料よりも、活動と生活の過程で発揮された彼らの忠実性を信じる。正直に言ってみたまえ。あなたたちが自白と自白書をどのように強要したのかを…。あなたたちが民生団扱いにしている嫌疑者の大多数は、『粛反』の執行者によって加えられる肉体的苦痛に耐えられず、偽りの自白をした人たちだ。あなたたちはいま、民生団ならぬ民生団をほしいままにつくりだしているのだ」

突然、曹亜範が「プトイ(違う)!」と叫んだ。その「プトイ」という言葉に、わたしの神経はピンと張り詰めた。他の人ならいざ知らず、曹亜範がこの席であえて「違う!」と言えるというのか。 「なにが違うというのだ」

わたしは拳で床板をドンと叩いた。

「間島の朝鮮人はいまあなたを注視している。あなたが職権を悪用して理不尽な人殺しをしたからだ。安図遊撃隊の政治委員金正竜は誰に殺されたのか。和竜県党書記の金日煥は誰の手にかかって死んだのか。この席で正直に答えてみたまえ。吉林時代の曹亜範は暴悪でもなく、出世欲もない人間だった。金日煥が死んだといううわさを聞いてわたしは口惜しくて泣いた。金日煥はあなたの革命先輩ではないか。あなたが彼を救い出せないまでも、どうして手にかけるようなことまでしたのだ」

わたしは金日煥の死を深く悲しみ、痛いたしい気持で弔った戦友の1人として、彼を痛烈に批判した。金日煥はわたしが東満州地方を開拓するとき、はじめてかちとった革命家のうちの1人で、呉仲和と双璧をなす人物であった。彼とのはじめての出会いの場所が曹亜範の家であったか、李青山の家であったかはよく思い出せない。だが、明月溝会議のとき、彼とともに夜を明かして虚心坦懐に語り合ったことだけはいまなお覚えている。その最初の対話が非常に印象深かった。年齢の隔りがあったにもかかわらず、金日煥は格式ばったり偉ぶったりせず、わたしを同格として謙虚に応対した。わたしに呉仲和を紹介してくれたのが金俊、蔡洙恒であったように、金日煥を紹介してくれたのも吉林、竜井界隈を双子のようにいつも連れだって歩いていた金俊、蔡洙恒のグループであった。「サッカーに勝って牛をもらった人」、これは蔡洙恒が人に金日煥を紹介するときの決まり文句だった。明月溝会議の参加者たちに金日煥を紹介するときも、彼はこの宣伝文句から先に披露した。運動選手として知られた蔡洙恒は、サッカーがどれほど上手なのかを基準にして人を評価するくせがあった。考えようによっては、それもなるほど面白い基準といえる。蔡洙恒の紹介で、金日煥はともかく東満州地方の多くの革命家のあいだで才能ある運動選手として広く知られるようになった。金日煥は老練で経験豊かな政治幹部だった。呉仲和と同様、彼は間島一帯の共産主義者の中でも手本となりうる家庭革命化の先駆者であった。彼の一家はいずれも名を残した革命家であり、革命の道で国に殉じた熱烈な愛国者であった。金日煥の母呉玉慶は、革命家の世話をやくことに一生をささげた古い共産党員であり、妻の李桂筍は最期の瞬間まで革命家の節操を守り、勇敢に戦って倒れた朝鮮人民の誇るべき娘であった。弟の金東山は地下工作員として活動中、敵の討伐にあって犠牲になった。和竜遊撃隊の金正植も金日煥の従兄弟である。金日煥の妻の実家の人たちも、革命に一生をささげている。義弟の李芝春はつとに吉林時代にわたしを訪ね、闘争方針を受けて活動した人たちの1人である。

金日煥の印象を一言でいうなら、実のある人だといえる。彼は勉学にいそしんだ見識の高い知識人であった。和竜で金日煥と一緒に多年間地下活動をしてきた金一と朴永純は、彼は活動作風がよく活動方法が老練で、大衆性のある人であったとしばしば回想している。金一と朴永純はいずれも金日煥の影響下で党活動家に育った人たちである。金日煥がたびたび中国人救国軍工作に派遣されたのは、そういう長所のためであったと思う。当時、和竜地方の救国軍は誰もが金日煥を尊敬し優遇した。一度は安図の李道善部隊が救国軍を討伐しようとして、突如、車廠子を襲ったことがあった。靖安軍は救国軍を捜し出そうと村中をくまなく捜索した。そうしているうちに、金日煥の家からビラの束を見つけだした。それは金日煥の母が他の地方組織に届けることになっていた重要なビラであった。李道善は共産党をつかまえたといって、金日煥の家族一同を捕らえて尋問をはじめた。金日煥の母は見知らぬ人から預かったものだともっともらしく弁明したが、敵はそれを信じなかった。李道善の目は殺気だってぎらついた。金日煥一家の運命にどんな災難が降りかかるか知れない危急のときに、近くに住んでいた地主が現れ、彼らは共産党ではなく正真正銘の農夫であることを口をきわめて保証し、李道善を説き伏せた。これもやはり、金日煥が平素から地主に影響力を及ぼしてきたおかげであった。

金日煥の特徴のうちできわだっているのは、不正にたいする非妥協性とゆるぎない革命的原則性であった。そうした性格上の特質のために、後日、彼は民生団の濡衣を着せられて迫害を受け、ついには極左分子の手にかかって犠牲になったのである。「左」翼排他主義者と分派・事大主義者は、権力に追従せず、他人の笛に踊らず自分の信念をもって原則を貫いていく人を毛嫌いした。原則が貫かれている所では不正がまかりとおることはできず、妖怪などが勝手に寄りつくこともできないからである。金日煥が住んでいた村に李億万という党組織の責任者がいた。彼は革命隊列内に偶然まぎれこみ、堕落した生活を送っていたアヘン中毒者であった。金日煥は李億万が職権を悪用して多くの女性とみだらな関係をもっていることに同志的な忠告を与え、アヘンを切るよう勧告した。李億万が理性のある人間であったなら、この批判を心から受けとめたはずである。しかし、彼は上部の極左分子らをそそのかして金日煥に民生団のレッテルを貼りつけ、県党書記のポストから放逐する方法で批判にたいする報復をした。金日煥は県党書記の職責から解任させられた後も忠実に活動した。極左分子らは彼を点検するため、資本家の経営する炭鉱に労働者工作の任務を与えて送りこんだ。金日煥は点検される期間中に、極左分子から受ける苦痛をまぬがれ、家族と一緒に敵地(敵に統治されている地域)へ行くこともできた。しかし彼は、民生団の嫌疑を晴らせないまま遊撃区の人民の前で無念の死を強いられることがあっても、革命隊伍を捨てて逃げだす逃亡者という恥辱に甘んじようとはしなかった。

「わたしは逮捕されて殺されるだろう。わたしが日本人の手先団体である民生団であるはずはないし、またそうなろうと考えてみたこともない。けれども、革命家の節操を最後まで守って、ここで民生団にされて死ぬ方がむしろ妥当だと思う。もしわたしが生き延びようとして敵に投降し、変節するならば、革命により大きな損失を与えることになるからだ。そうなれば、革命を裏切ったわたしの罪悪は万代にわたってそそげなくなるだろう。最後にわたしが頼みたいのは、家族がみな朝鮮の解放と独立が達成される日まで、屈することなくたたかってもらいたいということだけだ」

これは金日煥が自分の最期が迫っていることを予感したときに、母と妻に語った言葉である。

1934年11月、極左分子らはついに彼を裁判の場に引きだした。李億万の悪意に満ちた論告は虚偽とでっちあげに終始していた。

「この男は反動のうちでももっとも悪どい反動だ。長期間尋問したが、一言も吐いていない。腹に大蛇が入っているのか毒蛇がはいっているのか知れたものではない。こういう男を生かしておいては、われわれの革命は10年足らずで破滅してしまう。生かすべきか、殺すべきか」

これに答える者は1人もいなかった。ああいう人を全部殺してしまって、これからどうやって共産革命をするというのか、とささやく人はいても、正面きって彼の無罪を叫ぶ正義感はいなかった。車廠子の人たちは権力者の仕打ちが不当であることを知りながらも、それを口にすることができなかった。金日煥の無罪を主張すれば、彼ら自身も民生団にされてしまうからである。極左分子らは和竜遊撃隊創建者の1人である金日煥に死刑を宣告した。

「いまに見ろ! 誰が本物の民生団で、誰が真の共産主義者なのか…。歴史は必ずや黒白を分けるだろう」

金日煥は、刑吏たちをにらみつけて叫んだ。この叫び声を聞いて憤激した孫長祥部隊の救国軍隊員たちが、あちこちで銃をかざして立ち上がった。「金日煥をなぜ殺すのだ。あの人はわれわれの先生であり恩人だ。ああいう革命家が民生団だというなら、いったい民生団でない人は誰なのか。金日煥はわれわれが保証する。銃殺刑を取り消さなければおまえたちをただではおかない」極左分子らは救国軍の圧力に押されて死刑宣告を取り消し、金日煥を釈放したが、その日の夜のうちに彼を暗殺してしまったのである。

「わたしはあなたたちに尋ねたい。あなたたちは本当に金日煥を民生団だと思っているのか? 民生団でないことを知りながら、他の目的から意図的に銃殺したのではないのか。金日煥のような人が民生団だというなら、この間島で民生団でない人はいったい誰なのか?」

わたしは曹亜範を凝視し、のどをからしてこう主張した。そして語調をゆるめて話をつづけた。

「みなさん、もうこれ以上、人間の運命をもてあそぶのはやめよう。人間を人間として扱い、同志を同志として扱い、民衆を民衆として扱うのだ。われわれは人間愛と同志愛、民衆愛を武器にしてこの世の中を改造し変革するために立ち上がった闘士ではないか。この愛という武器がないなら、われわれはブルジョアジーや馬賊と変わるところがないではないか。これ以上『粛反』の名をかりて人びとを愚弄するなら、人民は永遠にわれわれを遠ざけるであろうし、次の世代はわれわれを許さないであろう。民生団の濡衣を着せられて非業の死を遂げた数千の烈士の犠牲を償う道は、ただわれわれがこの無意味な殺りくを中止し、愛と信頼と団結の政治をもってすべての力を抗日に集中させることだ。敵が投げた民生団の餌を吐きだし、われわれの隊後にセクト主義、排他主義、冒険主義がはびこるすきを与えるな。そうしてのみ、ここ数年来民生団のために生じた傷をいやし、民衆を救い、革命を救い、朝中両国共産主義者の国際主義的連帯を新たな段階に発展させる道が開かれるであろう。われわれ両国革命家の真の和合は、相手側にたいする尊重と相互理解、階級的信頼を基礎にしなければならず、兄弟的友愛を根底にすえなければならない。われわれがもっとも警戒しなければならないのは、共同闘争における覇権の追求である。ある一方が自己の利益を追求したり、その利益のために相手側を犠牲にするなら、そのような合作は強固なものになりえない。一言でいって、われわれの和合は信頼と愛情を原動力とするとき、永遠に不抜のものとなるだろう」

大荒崴会議では幹部問題についての論争も熾烈に展開された。この論争の発端となったのは、少数民族は幹部になれない、幹部になれるのは多数民族のみだ、少数民族が多数民族を指導するのは不当かつ不合理であるという特委指導部の一部の人の主張であった。彼らは、朝鮮人は少数民族であるから多数民族を指導できないし、そのうえ朝鮮人革命家は分派的習癖と動揺が多く、反動化しやすいから幹部には適さないという主張を持ち出してきた。

満州省党が東満党指導部の幹部抜擢と配置にさいして、従来の朝鮮人中心主義から中国人中心主義に切り替えるという秘密指令を発していたことは周知の事実である。この指令の趣旨は、これまで朝鮮人は民族運動でも失敗し、共産主義運動でも失敗し、また動揺したり反動化しやすいうえに、言語風俗が違うので「少数民族の革命基盤」が強固でなく、「少数民族の指導による独立運動と共産主義運動の成功は不可能」である、したがって「東満州においては朝鮮人の基盤を中国人の基盤に切り換える」べきだというものであった。この指令の要求するところは、東満特委の書記以下、主要幹部はすべて満州省委が任命し、朝鮮人は特殊な場合を除いてはなるべく人民革命軍の中隊長クラス以上の指揮官に登用するなということであった。当時はもちろん、いまでもわたしはこの指令が中国共産党中央の意思によるものではないと確信している。指令が下されたのは、中国共産党中央の指導中核が蒋介石軍の包囲を突破して25,000里の長征を敢行している時期であった。荒波のように襲いかかる内戦の陣痛のさなかに、革命戦争の重荷をになって孤軍奮闘していた中国共産党の中央は、自国の東北地方で起こっていた出来事に注意を向ける余裕はなかった。

満州省党の措置の中には、王明と康生が主管していたコミンテルン東洋部の指令をそのとおり受け入れるか、その指令に準じて作成されたものが少なくなかった。満州省党の所在地であるハルビンから、コミンテルン東洋部の機関が位置していたイルクーツクやウラジオストク、ハバロフスクへ行くのは、井崗山や延安へ行くよりはるかに近かった。

少数民族は多数民族を指導できないという一部の人の主張は、われわれの自尊心をひどく傷つけた。そういう主張は共産主義者の幹部抜擢・配置原則にも合致せず、当時の東満州の幹部構成実態にもそぐわない不当な論理であった。わたしは再び論争に加わらざるをえなかった。

「朝中両国の共産主義者は共通の敵、日本帝国主義との闘争で勝利する日までともにたたかうべき崇高な任務をになっている。したがって、朝中人民の戦闘的団結と反日共同闘争の強化に資するよう幹部問題を解決すべきであり、マルクス・レーニン主義的な立場に立って、革命にたいする忠実さと能力を基本にして幹部を抜擢し、配置する原則を堅持すべきである。あなたたちも認めているように、朝鮮人は東満州地方で共産主義運動をきりひらいた先駆者である。東満州地方の幹部と党員の構成をみても、朝鮮人が圧倒的多数を占めている。こうした現実をみようとせず、数年間共同闘争をしてきて、いまさら少数民族にたいする多数民族の指導だの、多数民族の幹部による少数民族幹部との交代だのと主張する理由はなにか。われわれは民族主義的な見地から朝鮮民族優越論を唱えるものでも、多民族劣等論を主張するものでもない。しかし、能力も資質もない人を多数民族出身だからといって、登用する傾向は必ず是正し根絶しなければならない。国籍や所属、人口の数が幹部抜擢の基準とされてはならない。少数民族であれ多数民族であれ、幹部の表徴がそなわっていれば幹部になるのであり、そなわっていなければ幹部にはなれないのである」

すると誰かが、朝鮮人革命家はかつて大部分が民族主義運動か分派とかかわりのあった人たちだから幹部にはなれない、と発言した。わたしは即座に論駁した。

「東満州で活動している朝鮮人革命家の絶対多数は、いかなる分派ともかかわりをもったことのない清新な新しい世代だ。われわれが一意専心して育て上げた勤労者階級出身の若い共産主義者が人民革命軍の主力をなしていることは、あなたたちもよく知っているはずである。この若い世代は、党、政府、大衆団体でも幹部として活躍している。かつて民族主義運動に参加したり、派閥に属していた人もいるが、彼らもすべて革命的に改造されている」

わたしが話を終える前に、また別の人が新しい論拠をもって反撃してきた。彼は、民生団の親は分派であり、分派の親は民族主義であり、民族主義の親は日本帝国主義だという奇怪な主張で会議場を呆然とさせた。その主張を裏返せば、かつて民族運動に参加したり派閥に加わったりした人はすべて日本帝国主義に養われた息子ということになる。これはなんの理論的妥当性もない奇弁であり、教育改造された派閥経歴者と民族主義者を包容している朝鮮共産主義運動の隊列にたいする不信の表示であった。わたしはそういう奇弁に打撃を加えるべきだと考えた。

「思想というのは固定不変のものではない。以前、民族主義思想をもっていた人でも、地道な改造過程をへて共産主義者になることができる。過去の経歴に民族運動に参加した事実があるからといって、そういう人を分派の親だ、日本帝国主義の息子だとみなすのは、それこそ言語道断である。もともと民族主義という理念の基礎は愛国愛族といえるのだから、それを反動視するのはとりもなおさず愛国主義を反動視することになる。民族主義だからといって、みだりに異端視すべきではない。民族主義がブルジョアジーの思想的道具に利用されないかぎり、それを排斥する必要はない。民族主義が歴史の反動とされるのは、ただ全民族の利害ではなく、ブルジョアジーの利害のみを代弁するときである。かりに、民族、民権、民生の 三民主義を創始した孫文先生を帝国主義の息子だと断じたなら、あなたたちはそのような暴言が受け入れられるのか。民族主義に反対するというそのこと自体が、はなはだしい民族的偏見である。朝鮮の分派分子や民族主義者の中には敵に寝返った者もいるが、それは少数であることを銘記すべきである。なかには、派閥争いがあたかも朝鮮民族のもって生まれた気質であるかのようにみて、朝鮮の共産主義者といえば分派となんらかの関係があるかのように色メガネで見ようとする人がいるが、これもやはり、もってのほかというしかない。率直に言って、分派は朝鮮の共産主義隊列にのみあったのではない。分派はドイツやソ連にもあったし、中国にも日本にもあり、コミンテルン内にもあった。にもかかわらず、なぜひとり朝鮮人だけが分派的な習癖を気質としてもっている民族とみなされ、なぜ朝鮮共産主義者という名が分派の代名詞のように呼ばれなければならないのか。いま一部の人は、朝鮮民族はかつての独立運動と共産主義運動で失敗した少数民族であり、独立運動と共産主義運動での成功は不可能であるとか、革命闘争で動揺が多く、反動化しやすい民族だとか、幹部として採用できない論拠をあげているが、これはいずれも朝鮮人の幹部を排除するための不当な論拠にすぎない。こういう排他主義的な立場から、あなたたちはすでに東満州の軍・政関係の幹部の中から、あなたたちとともに多年間、同じ陣地で忠実にたたかってきた朝鮮共産主義者を幾十幾百名も除去したり、民生団と断じて殺害した。多くの指導中核が少数民族という理由でポストからはずされたが、それでもまだ除去しなければならないというのか。もしも現在のように朝鮮人を排斥し虐待する道をあえて進もうというのなら、われわれはそんな同居生活はこれ以上しないだろう」

爆弾同様の言葉に、人びとの視線はいっせいにわたしにそそがれた。固睡を呑む音が聞きとれるほど会場の空気は緊張した。そのとき、もし誰かがわたしの言葉に反駁したり、われわれの自尊心を傷つけるような発言を少しでもしたなら、論争は収拾しがたい局面にいたっていたはずである。幸いにも、幹部問題についての討議はそれ以上の激論を呼ばなかった。しかし、会議の進行にともなって、わたしと極左分子らとの論戦はいっそう激烈になった。会議場には朝鮮人の幹部が幾人かいたが、彼らはなにも言えずもっぱら沈黙を守っていた。だが、彼らも心の中ではわたしの立場を支持した。極左の代理人役を勤めて胸のうずく傷跡を少なからず残していた宋一でさえ、わたしを訪ねてきては、誰にもできないことを1人でやってのけたと、わたしを励ましてくれた。魏拯民と王潤成も公式的には自分たちの意思表示をしなかったが、内々にはわたしの主張に理解を示した。とくに、魏拯民の理性的な判断と公正な態度は、わたしにとって少なからぬ助けとなった。

1日3食とも大豆がゆをすすりながら、昼夜の別なく論争をつづけたため、わたしは骨と皮しか残らないほどやせてしまった。1日中会議に参加しては夜更けて宿所にもどり、病気に苦しめられては、朝になるとまた論争の場に出なければならなかった。独りで大勢を相手にしなければならなかったわたしにとって、欠席など考えられないことであり、棄権というのもありえないことであった。わたしは数千数万の間島の朝鮮共産主義者と人民の運命を思って、論争の場に身を置かなければならなかった。

会議でいま1つの論争の的となったのは、朝鮮共産主義者がかかげている民族解放のスローガンをどう評価するかという問題であった。言いかえれば、中国の領土で活動している朝鮮の共産主義者が祖国解放のスローガンをかかげてたたかうことがコミンテルンの一国一党制の原則に合致するのかどうか、そのスローガンが民生団の標榜していた「朝鮮人による間島自治」の反動的スローガンと本質上同じなのかどうか、という問題であった。一部の人は、朝鮮の共産主義者が唱える民族解放というスローガンは民生団がつくりだした「朝鮮人による間島自治」のスローガンと同じであり、コミンテルンの一国一党制の原則にも反していると主張した。こういう見解をもっている幹部は1人や2人ではなかった。これは、われわれとはまったく相反する危険な見解であった。もしこの見解にしたがうなら、われわれは朝鮮革命のためにではなく、他国の革命のためにその使い走りをするか、国際軍の一部隊の使命のみを果たさなければならないことになる。わたしは、朝鮮革命を大国の革命のたんなる付属物としか考えないそうした見解を容認することができなかった。

「『朝鮮人による間島自治』のスローガンは、日本帝国主義者が朝中人民を離間させ、共産主義者の隊列の内部分裂をはかり、彼らの植民地支配に有利な条件をつくりだす目的で民生団に唱えさせたスローガンである。それが間島の朝鮮共産主義者のかかげている民族解放のスローガンとは縁もゆかりもないことは論議するまでもない。われわれの民族解放のスローガンは、日本帝国主義の植民地支配をくつがえして祖国を解放し、朝鮮人民が搾取と抑圧のない自主的な新しい社会で真の自由と権利を享有できるようにする目的で示したものだ。しかるに、朝鮮の共産主義者が他の国で同居生活をしているからといって、自分の祖国を解放し、自国人民の自由と幸福のためにたたかう神聖な権利まで放棄しなければならないというのか。われわれが自国の革命のために働かず、他国の革命に従属するだけなら、なんのためにこの満州で衣食に事欠きながら幾年ものあいだ朝鮮の民衆を結束し訓練したというのか。中国革命が勝利すれば、おのずと朝鮮革命も勝利すると言う人がいるが、それは途方もないことだ。それぞれの国の革命には各自のコースがあり時間表がある。自分の力が準備されなければ、隣国の革命が勝利しても、その国の革命の勝利は絶対におのずともたらされるものではない。したがって、すべての国の共産主義者は、他人が自国の革命を助けてくれるのを待つのではなく、自分の力でそれを遂行するためにたたかわなければならない。これがほかならぬ革命にたいする主人としての態度である。一部の人は、コミンテルンの一国一党制の原則を論拠にして、朝鮮の共産主義者は民族解放のスローガンをかかげるべきでないと主張しているが、これは事実上、他国の共産主義者に故国の革命から手を引かせようとする見解としか他に言いようがない。フランスで活動している中国の共産主義者に、フランスの共産党員たちが中国革命のスローガンをかかげるなと言うなら、それを甘受することができるだろうか。共産主義者はどこへ行って活動しようと、自国の革命のスローガンをかかげてたたかうべきであり、それによってその国の革命を助け、世界革命にも貢献すべきである。朝鮮の共産主義者が祖国の解放のためにたたかうことは、誰も阻むことができず、代行することもできない自主的権利であり、神聖な義務である」

大荒崴会議ではじまった論争は、その年の3月に開かれた腰営口会議でもつづけられた。会議に参加した多くの人はわたしの主張を支持し、自分たちの誤りを認めた。だがこの会議でも、意見の相違は完全に解消されず、未解決として残された。われわれは両会議の論点で核心をなすいくつかの問題をコミンテルンに提訴し、その結論をもらうため、魏拯民と共青東満特委の幹部である尹丙道をモスクワへ送った。

「民生団」問題によって生じた間島地方の混乱は一種の悪夢にひとしいものであった。極左分子らの無分別な「粛反」運動のため、朝鮮の共産主義者が困難な闘争によって築きあげた革命の基礎はほとんど崩れ去った。それでは、彼らがすべて民生団であったというのか? 違う。敵の文書には、民生団はせいぜい7、8名であったという記録がある。その7、8名を剔抉するため、「粛反」運動は2000余名の味方を民生団と断じて殺害したのである。これは世界の共産主義運動史に前例をみない大きな悲劇であり、愚昧と無知と非常識の極みであった。朝鮮と海外の各地から星雲の志をいだいて間島地方に集まってきた頼もしい人たちが、2、3年のあいだに「粛反」の刃になぎ倒されてしまった。この不幸な受難者の中には、さまざまな人材がいた。才人といわれる人物はみなそろっていた。「粛反」という狂風は、われわれの抗日革命が生み出した民族の誇るべき寵児たちを容赦なくさらってしまった。

民生団事件で死んだ人の数が戦場で倒れた人の数をしのぐといえば、新しい世代はおそらく信じようとしないであろう。だが、それは事実なのだ。抗日戦争の歴史は敵との無数の交戦を記録しているが、1回の戦闘で2、30名の戦死者を出した例はない。しかし、東満州の遊撃区では2、30名の革命家が民生団という罪名を着せられて皆殺しにされる日が多かった。われわれは彼らの霊前に墓碑すら立てることができなかった。合掌して涙を流し、いくら丁重に冥福を祈ったところでなんの役に立とうか。彼らは地に埋もれてもなお殺人者たちを呪いつづけたであろう。

民生団が解体された間島に民生団が存在したのかしなかったのか? わたしはこの問いに答える必要すら感じない。処刑を恐れて遊撃区から脱出した人たちの中にも民生団はいなかった。朱鎮は民生団だったのか? 違う。朴吉は民生団だったのか? 違う。朴吉は独立軍運動から抗日救国の聖戦に参戦した人物であった。彼は早くから沿海州地方へ行き、共産主義思想によって自己の理念を定立し直し、民族解放をめざす聖戦がもっとも熾烈に展開されていた間島に駆けつけ、地下政治工作にもあたり、武装闘争にも参加した。彼はわれわれが秘密遊撃隊と呼んだ小規模遊撃隊のころに早くも大衆に信望のある政治指導員となり、反日人民遊撃隊が正式に創建されたのちは、延吉大隊で大隊政治委員として活動した。延吉地方の革命を開拓した先駆者であった朴吉は、大衆の胸に火を点ずる有能な政治活動家、アジテーターであり、すぐれた軍事指揮官であった。彼の一家は5、6名もの抗日革命烈士を輩出した愛国的な家柄であった。朴吉の父朴曽元(あだなはトラ)は革命軍への援護活動で特出した模範を示したりっぱな農民であった。彼はもともと小作をしていたころから独立運動に献身した人物で、手間賃のかわりにもらった子牛を成牛に育て、それを援護基金として差し出してまで遊撃隊を誠心誠意支援したほどである。こういう家柄の朴吉を民生団扱いにするのは、それこそ理不尽である。にもかかわらず、極左分子らは朴吉が以前独立軍であったということと、姉が強引に巡査の妾にされ、逃げ出してきたいきさつがあることを問題視し、とうとう殺害してしまった。

金明均は民生団だったのか? 違う。金明均は汪清遊撃隊創建者の1人である。県党軍事責任者であった彼が、どんな野望をいだいて民生団に入るというのか。敵の手で作成された公判記録には、彼が民生団監獄に拘禁される前まで、日本人射殺20余件、日満官憲襲撃20余件、武器奪取8件を起こしたと記載されている。彼がもし民生団であったなら、こういう功績を立てることができたであろうか? 遊撃区から脱出したあとも訓導となり、子どもたちに民族の魂を吹き込むことができたであろうか? 敵に銃殺刑に処されるはずがあるだろうか?

では、李雄傑はどうなのか? 彼も民生団ではない。わたしは李雄傑という人間をよく知っている。われわれが汪清にはじめて入城した1932年10月、わたしを迎えるため軍馬2頭を引いて小北溝に真っ先にやってきたのが、ほかならぬ民生団として殺されそうになったことのある一区党組織部長の李雄傑であった。年若いパルチザン隊長のため、一度に軍馬を2頭も引いてきたこの大男の思いやりに、わたしはその日忘れがたい感銘を受けた。李雄傑は和竜県で共青の書記を勤め、竜井とソウルで獄中生活も体験し、李光指揮下の別働隊で政治委員としても工作した経歴をもつ、政治的感覚が鋭く闘争歴の古い革命家であった。わたしは彼を通じて区党の活動を指導し、その模範を一般化する方法で汪清地方の党活動に深く関与した。1933年の夏、彼は民生団の嫌疑がかかって極左分子らに逮捕されたが、「わたしが民生団というのはもってのほかだ!」という書置きをして遊撃区から脱出し、朝鮮国内に入った。富寧地方に活動拠点を置いた彼は、咸鏡北道、咸鏡南道一帯で愛国的な青壮年を結束して共産主義同盟を結成し、軍用道路建設反対闘争、供出反対闘争、徴用反対闘争などの反日闘争を指導中、日本警察に逮捕され、ソウルで獄中生活を送った。懲役12年というのが彼に言い渡された判決であった。日本の法官たちは彼の値打ちを十分承知していたようである。こういう人が民生団として処刑されなければならないのだろうか?

大荒崴での論争の意義は、まさに李雄傑のような闘士たちの経歴から民生団という汚名をそそいでやったことにある。この会議での論争と、その後コミンテルンが下した結論によって、処刑された人たちも無罪と判明した。肉体的生命は回復されようがなかったが、政治的生命は復活した。この会議のいま一つの意義は、日本帝国主義の陰険な謀略の悪らつさ、そしてそれにたぶらかされた連中の政治的拙劣さを告発することによって、極左分子らの政治クーデターに歯止めをかけ、その手足を縛り上げたことにある。「粛反」の「左」翼化はとりもなおさず、職権の強い者がそれより職権の弱い者を肉体的に抹殺するために公然と断行した政治的暴力行為であり、天下り式のクーデターであった。

大荒崴会議を機に、東満州に居住する朝鮮人のあいだで、われわれの活動がより広く知られるようになった。わたしがこの章で「民生団」問題にかかわる過去を長々と回想するのは、そういう悲話をつくった張本人たちをことさら天下に告発しようとするためでもなければ、彼らが犯した罪の決算をしようとするためでもない。それは、革命隊伍を内部から分裂、瓦解させようとする敵の謀略と奸計は昨日だけでなく今日もあり、明日もあるはずであり、民族排他主義と極左分子らの政治的拙劣さは現在もわれわれの周辺を幽霊のように徘徊していることをあらためて認識させることによって、次の世代に朝鮮革命の主体性の確立と民族の自主性について教訓を残すためである。

わたしは反民生団闘争とその総括としての大荒崴会議の過程を通じて、自主性は民族の第1の生命であり、この自主性を堅持するためには、民族をなすすべての構成員、とくにその先覚者たちの犠牲的な闘争が必要であることを痛感させられた。

人間の第1の属性が自主性であるように、民族の生存を保障する第1の源も自主性にある。個々の人間の生活においても、民族をなす大集団の生活においても、その運命を左右する基本的な生存条件は自主性であるといえる。われわれが抗日革命を民族的自主権を取り戻す聖戦とするのは、自主権の復活こそは朝鮮人民が数10年間、切々と夢見てきた第1義的な願望であり、朝鮮共産主義者がその綱領とした至上の課題であったからである。一言でいえば、これは民族解放闘争の総体的目標であった。したがって、朝鮮共産主義者のすべての活動は、この目標の実現に服さなければならなかった。われわれは思考と実践において自主性の擁護を生命とし、そのためならいかなる環境のもとでも猛虎となり雷雨とならなければならなかったのである。

自主性というのは、誰かがつくりだして贈ってくれるものでもなく、時間の累積とともにおのずから実現するものでもない。それは闘争によって自らがかちとらなければならない。自らをかえりみない不屈の犠牲的な闘争精神を発揮する人であってこそ、自主性を獲得して、その永遠なる主人となることができるのである。なぜなら、地球上には多民族の自主権を踏みにじる反動勢力があまりにも多いからである。自分たちが自主性をもつのは当然のこととしながらも、他人が自主的に生きようとすることにたいしては神経をとがらせ、妨害する人間もたくさんいる。自主性を自分たちだけの専有物と考えるのは、時代錯誤的な帝国主義、支配主義の傲慢である。

自主性を踏みにじる勢力が、共通の目的をもってたたかってきた闘争隊列内に存在したということは、常識からはずれた歴史の気まぐれであった。この気まぐれのために、朝鮮革命は深刻な苦悩と挫折に直面した。われわれは挫折から突撃へと移行するため、犠牲をものともせず朝鮮民族と朝鮮共産主義者の自主的権利を侵害する人たちと猛虎のごとくたたかった。大荒崴会議は、朝鮮共産主義者が自主の旗をかかげ、朝鮮革命の主体的路線を堅持し、その権利を固守するために展開した一大思想戦であった。もしわれわれが情け容赦のない極左の鉄拳の前におじけづいたり、犠牲を少しでも恐れたなら、無軌道に疾走するその極左のキャタピラの下敷きになっている革命を救うことはできなかったであろう。革命を危機から救い出したのは、正義を守るためなら水火をもいとわぬ朝鮮共産主義者の剛毅な犠牲的精神と共産主義的原則性、自己の偉業の正当性にたいする不動の信念であった。

帝国主義者が社会主義の終焉について喧伝し、わが共和国をチュチェの軌道から逸脱させようと政治的心理戦に熱を上げている今日、自主性をひきつづき固守することは、依然として朝鮮民族とわが共和国の生死存亡にかかわる死活の要求となっている。朝鮮の共産主義者は、人民大衆中心の朝鮮式社会主義を固守し、自主性を擁護するための帝国主義との対決においても、やはり勝利者となるであろう。

わたしは反民生団闘争の過程を通じて、日常生活においても革命闘争においても、謀計と謀略がいかに有害であるかを骨身にしみて感じると同時に、分派行為を働く者とは革命をともにすることができないという深刻な教訓をくみ取った。謀計、謀略、派閥争いの弊害と反動性を理解するには、李朝500年の歴史をふりかえってみるだけで十分である。権力のためなら親子、兄弟が殺し合いをするのが、まさに反動化した人間の本性であり、分派の悪弊なのである。

解放後、敵は日本帝国主義が適用した民生団の手口を利用して、われわれの内部を瓦解させようとはかった。彼らはひところ、にせ手紙を送る方法で、白南雲、姜永昌、崔応錫など、党に忠実な南朝鮮出身の幹部を陥れようとした。われわれがそういう策略にのらなかったのは、遊撃区における反民生団闘争の経験のおかげだといえる。この体験がなかったなら、われわれは治安隊の加担者とそのまきぞえになった人たちにたいする処理で極左的偏向を犯していたかもしれない。われわれは革命の利益をはかる方向で、それらの人たちの政治的運命を寛大に処理した。

わたしは社会安全相が新たに任命される度に毎回、右寄りの偏向を犯してはならないが、極左を警戒し、民生団の教訓を忘れてもならないと戒めている。極左は政治的ペテン師や野心家に新たな民生団騒ぎを案出させる温床である。この温床の主人たちは、他人より10倍、20倍も高い声で党を云々し、革命を云々し、忠実性を云々する。こういうはねあがった革命性は、かつて遊撃区で人びとの政治的生命を意のままに翻弄した極左分子らの言動となんら異なるところがない。右翼が公然たる反革命であるなら、「左」翼は隠蔽された反革命であり、右翼がガンであるなら、「左」翼もそれに劣らぬ毒キノコである。右翼と「左」翼は革命という1つの巨木に寄生しながらも、互いに背を向け合って、同床異夢をしているかのようにみえるが、実際には1つの脈絡に深くつながっているのである。個人が極左に走れば集団を害し、政権党が極左に走れば人民を失い、革命を敗北させかねないという真理を銘記しなければ、社会主義を守ることもできない。これは反民生団闘争の歴史がわれわれに教えている教訓であり、極左の侵害によっておびただしい血をみた一連の国々での骨身にしみる体験が、全世界の共産主義者に発する訴えである。

過激な言動の裏にかくれた極左に反対し、それを警戒し、その侵害から人々の政治的運命を保護するのは、政権を掌握した国の共産主義者がその活動においていっときもゆるがせにしてはならない永遠の課題である。