金日成回顧録―世紀とともに』
 「革命の新たな高揚に向けて」より

女性闘士たちの革命的節操
金日成

金日成同志は生前、祖国解放の日を見ることなく、戦場や絞首台で壮烈な最期を遂げた女性闘士たちと、最後まで革命的信義に忠実であった女子隊員たちについてもしばしば回想した。この節では、朝鮮革命が最大の困難に直面していた日々に、一命をなげうって革命の利益を守り、共産主義者の栄誉を固守した女性闘士たちにかんする金日成同志の回想談のうち、その一部をまとめた。

新たに造営された革命烈士陵を見て回り満足に思います。その間みなさんは陵を造営するのにさぞかし苦労したことでしょう。安置された闘士のうち女性闘士は何人ですか。女性闘士が十余名も安置されたのなら、りっぱなことです。彼女たちはみな胸像を立て、碑石にその名を刻むに値する人たちです。

李順姫は共青幹部としてりっぱにたたかいました。一時、汪清地方で児童局長を務めた彼女をわたしはよく知っています。李順姫は節操の堅い女性でした。敵は若年の彼女を見くびり、地下組織の秘密を吐かせようとしましたが、無駄でした。彼女はひどい拷問を受けながらも秘密をもらしませんでした。このような闘士は、当然、次代の前におし立てるべきです。

張吉富女史は遊撃隊員ではありませんでしたが、馬東熙を生み育てた革命家の母らしく一生をりっぱに生きぬきました。彼女は娘と嫁も遊撃隊に入隊させ、自身は革命家たちの世話をやきました。彼女の息子と娘、嫁はみな武装闘争に参加して戦死しました。武器を手にして抗日闘争に参加した人はみな英雄です。当時は英雄称号を授与する制度がなかったのでしかたがありませんが、そういう制度があったならば、張吉富女史の息子、娘たちはみな英雄になっていたはずです。英雄を三人も育てた母親なのですから、当然、革命烈士陵に安置すべきです。彼女は高齢の身で社会主義建設にも積極的に参加しました。張吉富女史を除いた他の女性はすべて、武器を手にとってわれわれとともに抗日革命の道を歩んできた女子隊員です。

金策、姜健たちの列に二人の女性闘士が安置されていますが、これは抗日革命闘争における女性の地位と役割を示しているといえます。金一、林春秋、崔賢などの老闘士たちはわたしに、人民と戦友たちの一致した願いだといって、金正淑をそこに安置することを懇請しました。

崔希淑をその列dに安置するよう推薦したのはわたしです。彼女は第一列に安置するに値するりっぱな闘士です。金正淑と崔希淑を同列に安置したのは、抗日革命の日々に結ばれた二人の友情を考えてもごく自然なことだといえるでしょう。金正淑が桃泉里一帯で困難な敵中工作の任務を遂行していたとき、崔希淑は腰房子という村に潜入して彼女の活動を陰から助けました。金正淑が新坡に渡って組織建設活動にうちこむことができたのは、崔希淑が腰房子で彼女の活動を積極的に援助したからです。崔希淑は1939年の秋、烏口江一帯で大量の軍服の製作にあたったときも、金正淑と力を合わせて仕事をりっぱにやりとげたものです。軍服の製作で発揮した崔希淑の強い責任感と功労を評価し、わたしは彼女に金の指輪と時計を贈りました。

崔希淑は朝鮮人民革命軍の女子隊員のうちでも古参兵に属していました。彼女が入隊したのは1932年だったと思います。1932年といえば、東満州の各県で反日武装隊伍が続々と生まれていた時期です。朝鮮人民革命軍には女子隊員が少なくありませんでしたが、1932年に入隊した女性はさほどではありません。1932年に入隊したのなら、古参兵の処遇を受けて然るべきです。

わたしが彼女にはじめて会ったのは1936年の春だったと思います。その年の春に延吉、和竜地方の各部隊から多くの女性がわれわれの主力部隊に編入されましたが、金正淑もそのときに主力部隊に移ってきたのです。女子隊員たちはみな崔希淑をお姉さんと呼んだものです。男の隊員のなかにも彼女を姉さんと呼ぶ人が少なくありませんでした。崔希淑は年齢からしても隊員たちの姉にあたりました。彼女はわたしよりいくつか年上でした。女子隊員のなかでは金明花や張哲九につぐ年長者であったようです。崔希淑が戦友たちからお姉さんと呼ばれたのは、たんに年のためだけではありませんでした。彼女は日常生活と任務の遂行でつねに隊員たちの模範となったばかりでなく、よく戦友たちの世話をやいたものです。地方組織で何年ものあいだ共青や婦女会の活動、反日部隊の工作などをしてきた彼女は、政治的資質も高く、統率力もありました。それでわたしは彼女になにかと困難な任務を与えたものです。崔希淑が小哈爾巴嶺会議以後も朝鮮人民革命軍の裁縫隊の責任者としてひきつづき活躍したのは、彼女にたいするわれわれの信頼のあらわれだといえます。

主力部隊のすべての指揮官と兵士は、崔希淑の並々ならぬ忠実性と革命性にたいしいつも驚異の目を見はったものです。彼女のすることなすことは、いつも戦友たちを感動させました。わたしが彼女の崇高な信義と人格に感服したのも一度や二度ではありませんでした。苦難の行軍時に目撃したことですが、ほかの隊員がみな寝入っている真夜中に、彼女は焚き火で凍えた手をあたためながら戦友たちの軍服を縫っていました。彼女は水で空腹をまぎらしながら、二日でも三日でも課された任務を果たすまでは絶対に休みませんでした。それでいて、活動の成果について論じるときはつねに戦友たちに花を持たせました。軍服の製作が終わって功労者を表彰するときに金の指輪と時計をもらい、「軍服をつくるのに苦労したのは一人や二人でないのに、わたしだけがこんな特典にあずかっては…」といって恐縮していた彼女の姿が思い出されます。

小哈爾巴嶺会議後、小部隊工作に参加していた崔希淑は、重要な情報を携えて司令部に向かう途中、敵の「満山討伐」に遭いました。「満山討伐」とは櫛でくしけずるように山中をくまなく捜すという意味です。小部隊を発見した敵は、遊撃隊員を生け捕りにしようとやっきになって追撃してきました。崔希淑は包囲されて脚に貫通銃創を負い、敵に捕らえられてしまいました。敵は秘密を吐かせようと彼女に言うにいわれぬむごい拷問を加え、しまいには両眼までえぐりだしました。しかし、いかなる拷問や威嚇も崔希淑のかたい節操をくじくことはできませんでした。彼女は死ぬまぎわにこう叫びました。

「わたしにはいま目がない。しかし、わたしには革命の勝利が見える!」

この叫びに度胆を抜かれた敵は、崔希淑の心臓をえぐりだしました。共産主義者の心臓がどんなものであるかを見きわめようとしたのです。革命家の心臓だからと特別なものであるはずはありません。心臓には革命家のしるしもなければ反逆者のしるしもないのです。ただ革命家の心臓が祖国と民族、革命同志のために脈打つものだとすれば、反逆者の心臓はつねに自分自身のためにのみ脈打つものだといえるでしょう。敵は崔希淑を逮捕するやいなや、わたしが表彰として彼女に与えた金の指輪を取り上げたとのことです。しかし、敵は彼女の心臓に脈打っているわれわれにたいする信頼と信義は決して奪いさることができなかったのです。敵は彼女の心臓をえぐりだしはしても、このようなものの道理は解せなかったはずです。祖国を心から愛することのできない人は、革命的節操がどんなものであるかわからず、共産主義者の生命観に秘められている気高く美しい精神世界の高さも理解することができないのです。

崔希淑が犠牲になったという悲報に接したわれわれは、彼女があれほど夢見た祖国解放の日を見ることなく倒れたことに愛惜の念を禁じえませんでした。女子隊員たちは悲しみのあまり食事もとろうとしませんでした。

わたしも長いあいだ悲しみを振り払うことができませんでした。しかし、彼女が遺した言葉にわたしは大きな力を得ました。敵に両手を縛られ、両眼を奪われた最悪の状態にあっても、革命の勝利が見えると叫んだ崔希淑の言葉には、なんと烈々たる誇らしい革命的気概が脈打っているではありませんか。「革命の勝利が見える!」―これは誰しも口にできる言葉ではありません。それは自己の偉業の正当性と真理性を確信する人のみが口にできる言葉であり、革命的節操の強い闘士のみが吐ける名言です。この言葉は女性闘士崔希淑の一生の総括でもあったのです。

「革命の勝利が見える!」という言葉はこんにち、朝鮮人民と青少年にとって革命的楽観主義を象徴する金言となっています。女性闘士のあの叫び声は、いまも朝鮮人民の耳に生き生きとこだましています。わたしは楽観主義を主張し、楽天的な人間を愛します。天が崩れ落ちても抜け出る穴はあるというのは、わたしが重んじていた座右の銘の一つです。わたしが辛酸をなめつくしながらも、いかなる動揺や偏向もなしに、つつがなく革命と建設を指導してくることができたのは、この楽観主義のおかげです。わたしは、一条の光さえ見ることのできない失明の状態で遺した崔希淑の最後の言葉をいまでも忘れていません。それは、その言葉に朝鮮の共産主義者の強靭な意志と不変の信念が秘められているからです。重ねて強調しますが、崔希淑はきびしい試練をのりこえてきたわれわれの革命隊伍の第一列に堂々と立たせることのできる女性革命家です。彼女の夫朴元春は西大門刑務所で獄中生活をしました。

崔希淑のような最期を遂げた女子隊員は一人や二人ではありません。安順和の最期にしてもそういえます。人間がそういう最期を遂げるというのは容易なことではありません。安順和は李鳳洙の妻です。李鳳洙が軍医を務めていたとき、彼女は同じ部隊で裁縫隊の責任者を務めました。もともと彼らには五人の子どもがいました。しかし、その五人の子どもはみな、遊撃戦争の過程で死んだり、父母と生き別れになったのです。凍傷のために両足の指を全部落とした長男は重患とともにソ連に入り、長女はハシカで死に、次男は遊撃区に攻めてきた日本軍の銃剣にさされて死にました。次女は飢え死にし、三男は他人の家に預けたのですが、その生死も行方もわからないとのことです。李鳳洙の回想記がいくつか世に出たので、三男が生きているなら父を訪ねてくるはずなのに、わたしはまだそういう話を耳にしていません。2歳にもならないうちに他人に預けられたのなら、実の父母が誰であるかもわからないでしょう。養父母がその子に実の親がいることを教えなかったのかもしれません。

1938年の春、安順和は敵に逮捕されました。密営にいた遊撃隊員たちが司令部の命令によって南満州へ発つ準備をしていたある日、「討伐隊」が密営を襲撃したのです。当時、その密営には主に病院のメンバーと裁縫隊の隊員がいました。敵に逮捕された彼女は言いしれぬ苦しみをなめました。敵は遊撃隊員の行方と食糧倉庫、弾薬庫、薬品倉庫の位置を言えと、彼女に残忍な拷問を加えました。「討伐隊」の隊長は、勝ち目のない戦いに血と青春をささげるのが惜しくないのかと甘言で彼女をとき落とそうともしました。もしあのとき安順和が拷問に屈して口を割っていたなら、敵は彼女を殺さなかったでしょう。敵は帰順した者を処刑せず、「優遇」する方法でわれわれの革命隊伍を瓦解させようと狂奔しました。帰順申請書に保証人を記し、拇印でも押せば、昨日まで「打倒日帝」を唱えて、武力抗争をしていた人でも命を落とさずにすんだのです。安順和が女性の身で敵の懐柔と拷問に屈しなかったのは、じつに驚嘆すべきことです。最初、敵は彼女を蹴ったり踏みつけたりしたあげく、髪を引き抜きました。それでも安順和が「こいつら!」「何をいうか!」と怒鳴りちらしてますます頑強に抵抗するや、弾がもったいないといって彼女の胸部と腹部にクヌギの棒ぐいを打ち込みました。掌にとげがささっても顔をしかめるのが人間の本能なのに、頑丈な棒ぐいが肉と骨を裂いて深く打ち込まれたときの彼女の苦痛はいかばかりであったでしょうか。しかし、安順和はそんなたえがたい苦痛を味わいながらも、最後まで革命家の節操を曲げなかったのです。彼女は言いたいことは言いつくし、守るべきことは守りぬいたのです。クヌギの棒ぐいが体に打ち込まれる瞬間には、最後の力をふりしぼって「朝鮮革命万歳!」「女性解放万歳!」を唱えたのです。

安順和が犠牲となったあと、戦友たちは彼女の背のうを解いて遺品を整理しました。遺品のなかには、彼女の夫李鳳洙が1920年代の末にウラジオストックで埠頭の人夫をして稼いだ金で買ったセル地のチマと、編みかけのテーブル掛けがありました。セル地のチマは10年間、一度も身に着けないまま背のうの中にしまっておいたものだそうです。なぜ彼女はセル地のチマをそれほど大事にしたのでしょうか。祖国が解放されたのちにそれを身に着けようとしたのに違いありません。われわれはこの一つの遺品を通しても、彼女が革命の勝利する明日をいかにかたく信じていたかがわかります。古シャツをほどいた糸であいまあいまに編んでいたというテーブル掛けもやはり、祖国が解放されたのちに夫の机にかけようとしたのでしょう。妻のなきがらをセル地のチマで覆ってやろうとした李鳳洙は、10年前につけられたチマのひだがそのまま残っているのを見て、胸の痛みをこらえることができず涙にくれたとのことです。

崔希淑、安順和のような女性は北満州の抗日武装部隊にも少なくありませんでした。北満州で戦った朝鮮の女性たちがいかに革命的節操を守りぬいたかは、韓珠愛の実例をみてもよくわかります。裁縫隊の責任者であった彼女は、後方密営で遊撃隊員の綿入れをつくっていたときに「討伐隊」の襲撃を受け、幼い娘とともに敵に捕らえられました。戦友たちを逃がすために彼女はわざと自分を敵の目にさらし、勝算のない応戦をつづけているうちに「討伐隊」に捕らえられてしまったのです。彼女は数か月も鉄窓に閉じ込められていました。敵は母子が同じ監房にいるのはぜいたくすぎるといって、母と子を別々に収監しました。そして彼女の心を揺さぶるために、ときたま娘を連れてきては面会もさせました。母性愛を悪用したのです。しかし、いかなる術策をもってしても韓珠愛の節操をくじくことはできませんでした。敵はウスリー江のほとりで彼女を銃殺しました。日本憲兵隊の刑吏らは彼女に一言でも罪を悔いたら生かしてやると言いましたが、彼女は最後まで屈しなかったのです。

北満州の遊撃隊で活動した安順福、李鳳善をはじめ8名の裁縫隊員は、包囲網を狭めながらにじりよる敵と決死の覚悟で奮戦し、生け捕りにされそうになると牡丹江の深い水中に身を投じてうら若い命を散らしました。これに似た話は東満州の女子隊員たちにもみられました。7名の女子隊員が内島山へ向かう途中、敵に包囲されると、富爾河に身を投じて青春をささげたのです。彼女たちの悲壮な最期は、抗日革命史の一ページに新たな伝説をとどめました。

何年度だったか、わたしは中国を訪問したとき、牡丹江八烈女の闘争を題材にした映画を見て深い感銘を受けました。北満州の女性たちだけでなく、南満州の遊撃隊員たちの親しい姉であった李順節も革命家らしく節操を守りぬきました。金寿福は長白県の朱家洞で地下工作にあたっていたときに逮捕され、犠牲となりました。英雄というのは特殊な人ではありません。崔希淑や安順和、東満州の七烈女のような人たちを指して英雄というのです。

碧城郡女性同盟委員長であった趙玉姫が朝鮮戦争の一時的後退の時期、敵地でパルチザン闘争を展開し、敵につかまって虐殺されたとき、われわれは彼女に共和国英雄の称号を授与しました。彼女も崔希淑や安順和のように革命的節操をあくまで守りぬいた強い女性でした。敵は手足の爪を引きはがし、両眼と乳房をえぐりだし、焼き火箸を生身に押しつけましたが、彼女は屈することなく大声で敵を断罪し、「朝鮮労働党万歳!」を唱えて壮烈な最期を遂げたのです。趙玉姫がパルチザン闘争で敵兵を討ち取ったにしても、その数は知れたものでしょう。われわれは彼女が殺傷した敵兵の数を重くみたのではなく、刑場に引かれながらも顔を上げて敵の滅亡を宣告した、その高い気概と革命的節操を大切に思い、彼女を表彰すべきだと考えたのです。農事に携わり、女性同盟の活動を何年かしたにすぎない平凡な女性が、かくもりっぱな最期を遂げたというのは驚くべきことではありませんか。わたしは全国の人民と世界の良心の前に趙玉姫をおし立てたいと考え、彼女をモデルにした映画をつくらせ、彫像を立て、彼女の故郷の農場に趙玉姫の名を冠するようにしたのです。

ある日、朝鮮革命博物館を訪れた金日成同志は抗日革命闘士李桂筍の遺髪の前で長らく足をとどめた。それは彼女が16歳のとき、革命に身を投じる決意をこめて母に送った垂れ髪であった。李桂筍の遺髪を長らく見つめていた金日成同志は、貴重な遺物だから大事に保存するようにと念を押し、その後しみじみと彼女の思い出を語った。

髪にまつわる話によっても、李桂筍が非常にりっぱな革命家であったことがよくわかります。わたしはその遺髪を見ると、われわれの母と姉、わが国の女性革命家たちの清純かつ強固な節操について考えさせられます。

元来、朝鮮の女性は外柔内剛で節操がかたいのです。わたしは抗日革命の過程でそれをいっそう深く体験しました。李桂筍の遺髪は女性革命家の節操を象徴しているといえます。

わたしが満州で地下活動をしていたとき、わたしの母は靴底に髪の毛を敷いてくれました。それは母が朝鮮で暮らしていたときから何年ものあいだ大切にしておいた髪でした。寒さのきびしい冬に、吹雪が荒れ狂う無人の境を行軍していたのですが、どうしたわけかいくら歩いても足が凍えませんでした。歩けば歩くほど足の裏がほかほかとしてくるのでした。目的地に着いて靴をぬいでみると、底に髪の毛が敷かれていたのです。そのときわたしは、この世に愛情というものがいくらあっても、母の愛にまさる愛はないと思ったものです。あのとき母が敷いてくれた髪の毛は母性愛の表現でした。上海に朝鮮人の臨時政府が樹立され、中国の東北地方に正義府だの参議府だの新民府だのといった独立軍団体が生まれ、人民から税金を取り立てていたとき、少なからぬ女性が髪を売って独立献金に供したという話を聞きました。そのころの髪は愛国心のあらわれでした。

わたしが李桂筍について話しながら髪にまつわる過去の話をするのは、その遺髪一つをみても彼女の人間像を十分に把握することができるからです。李桂筍のことは彼女とともに戦った金一と朴永純がよく知っています。彼女にかんする資料を収集するには、金一第一副首相と朴永純に会って取材する必要があります。金一第一副首相は寡黙なので取材する面白味がないという人もいるそうですが、それは彼をよく知らないからです。彼は自分の自慢はしたがりませんが、人のこととなると多弁になります。

李桂筍を革命の道に導いたのは彼女の兄李芝春でした。李芝春はわたしが毓文中学校に通っていたとき、吉林の師範学校でわれわれの指導のもとに革命闘争に身を投じた人です。その後、彼は両親が住んでいる和竜に帰って共青活動の指導にあたったのですが、敵に捕らわれて虐殺されました。敵は彼を銃殺したあと、その遺体を焼き捨てました。結局、彼は二度殺されたわけです。漁郎村遊撃区で兄の訃報に接した李桂筍は、翌日の未明に垂れ髪を切り落としました。彼女はその髪を母に送って頼みました。

「お母さん!わたしが家を発ったあと兄さんまで亡くしてさぞかし辛いことでしょう。しかし、悲しまないでください。…敵に涙を見せないでください。…お母さんにわたしの髪を送ります。長いあいだお目にかかれないかもしれませんが、この髪をわたしだと思ってください。革命が勝利するその日まで、くれぐれもお体を大切にしてください」

これは母に送る李桂筍の永別の挨拶ともいえました。そのとき彼女は一生を革命にささげようと決心したのに違いありません。和竜で数年間、地下活動をした朴永純の話によると、李桂筍は幼いころから革命にたいする感受性と知恵が人並外れていたので、みんなに可愛がられたそうです。

1933年の夏、李桂筍は党組織から竜井市内に入って地下工作をするよう指示されました。彼女の主な任務は、破壊された地下組織を立て直すとともに、新たにつくりあげることでした。敵の重要な支配拠点の一つである竜井地区には軍警や密偵が密集していました。この地方に根城を構えていた諜報機関の触覚はきわめて鋭敏でした。遊撃区の革命組織がこれといった地下工作の経験もない李桂筍をそんな土地に派遣したのは、彼女にたいする信頼のあらわれといえます。当時、竜井市内の党組織と婦女会、少年先鋒隊をはじめ大衆団体の大部分は破壊され、組織のメンバーはほとんど検挙されていました。

李桂筍は万事を自分の力で解決しようという決意をかため、人の出入りが多いそば屋の雑役婦になりました。顔を煤だらけにしてそば屋の手伝いをする田舎くさい女が共産党の派遣した地下工作員だと見る人は一人もいませんでした。そのそば屋は工作拠点としてもうってつけでした。李桂筍は水汲みや洗濯、皿洗いなど主人から言いつけられる仕事はなんでもやりこなしました。主人は思わぬ拾い物をしたものだと、ほくそえみました。ところが、破壊された組織を立て直し、新たな組織を設けるためには、日がな外を出歩ける仕事に就かなければなりませんでした。それに適した仕事はほかならぬそばの出前持ちでした。当時は裕福な家や権勢をふるう家ではそばを注文したものです。家にいながらノンマ麺を何人前持ってこいと言いつけると、出前持ちがそばと汁を別々に出前箱に入れて家まで届けるのです。女主人の信用を得た李桂筍は出前持ちになりました。彼女はそばの出前に出るたびに、暇を盗んで組織のメンバーに会いました。そうして少年先鋒隊の組織から建て直しました。ところが、どんぶりの入った出前箱を頭に乗せて一日に数里も足を運ばなければならない出前の仕事は口で言うほどたやすいものではありませんでした。ある日、出前箱を頭に乗せて道を急いでいた彼女は、疾走してくる日本警察の自動車を避けようとした瞬間に出前箱を落とし、どんぶりを割ってしまいました。そのため李桂筍は主人に叱られ、出前持ちをやめさせられました。しかし、彼女は気を落とさず、その日の営業が終わると、疲れもいとわずそば屋の裏庭に出て、石を入れた出前箱を頭に乗せ、真夜中まで歩く練習をつづけました。李桂筍のいちずな熱意が主人の目を引かないわけはありません。当時、彼女は17歳くらいだったと思います。

女性闘士たちは、15、6歳にもなると政治工作をしたものです。彼女たちは10代にしてアジ演説や敵中工作をおこない、組織建設活動も展開しました。その年で彼女たちは世情に通じていたのです。国を奪われ苦労を重ねたので、いまの青年より早熟であったのは確かです。しかし、苦労を重ねたからと、誰もが先覚者となり、闘士となるわけではありません。肝心なのは思想です。思想的な準備ができてこそ、早くから革命闘争に参加することができ、革命活動をするにしてもりっぱにすることができるのです。思想が堅実でなければ革命はできません。李桂筍が革命に忠実であったのは、思想が堅実であったからです。

いま一部の人は、20歳ならまだ乳臭いといって、彼らの声に耳を傾けようとしません。幹部の人事に携わる人たちも、20代はまだ世間知らずの子どもだとみなす場合が少なくありません。そういう人たちは、30代か40代、50代にならなくては幹部になれないものと考えていますが、それははなはだしく間違った見解です。20代の青年でもまかせさえすれば、重大な任務を十分遂行することができます。わたしは解放直後、建党、建国、建軍の偉業を遂行する時期にこのことを身にしみて体験しました。抗日革命の時期には20代の青年が県党書記を務め、省党書記、師長、軍長も務めました。わたしは20代で革命軍の司令官になったのです。若い人たちを登用せずには幹部陣営の老齢化をまねき、そうなれば、われわれの前進運動が活力を失うようになります。幹部の人事ではあくまでも老・中・青を組み合わせなければなりません。

李桂筍が東満州の人たちの話題の的となったのは、和竜県党書記を務めていた夫の金日煥が「民生団」の濡れ衣を着せられ、排外主義者の手にかかって死んだときでした。そのとき、間島地方の人たちはこぞって、金日煥を虐殺した主犯を憎悪し、未亡人となった李桂筍にたいしてはみなが同情を寄せました。多くの人たちは、李桂筍が東満州党指導部の処置に幻滅し、革命活動から手を引くか、遊撃区を去るのではないかと考えました。当時、間島地方の組織メンバーと遊撃隊員のなかには、東満州党指導部の極左的妄動に見切りをつけて遊撃区を去った人が少なくありませんでした。反「民生団」闘争が極左的に展開されたために、共産主義者のイメージが損なわれたのは確かです。普通の女性なら革命に嫌気がさし、遊撃区を立ち去るか、落胆して自分の身の上を嘆きながら歳月を送ったことでしょう。しかし、李桂筍は反対に覚悟を決めて立ち上がり、自分に与えられた任務をよりりっぱに遂行することによって革命に利益を与え、夫が革命にたいしていささかも恥じるところのない潔白で良心的な人間であったことを証明しようとしたのです。

車廠子遊撃区が飢餓に見舞われたとき、李桂筍は臨月の体でしたが、栄養を満足にとることができませんでした。しかし、彼女は自分自身と生まれてくる新しい生命を気づかったのではなく、空腹のあまり身動きさえできない遊撃区の人びとのことを心配して、毎日のように山菜を摘み、木の皮をはぎました。それさえも底をつくと、蛙を捕り、その卵を集めて、栄養失調にかかった人たちに与えたりしました。その後、李桂筍は出産しましたが、乳が出ませんでした。かてて加えて、そんなときに遊撃区が解散したのです。彼女は幼い娘を姑に預けて敵地に送り、自分は遊撃隊に入隊しました。その乳飲み児は金日煥が虐殺された後に生まれた遺腹だったのです。親子の別離は涙ぐましいものであったといいます。乳飲み児は母の懐から離れまいと泣きすがり、姑も泣き、李桂筍自身もわが子がかわいそうで何度も立ちもどっては抱きしめてむせび泣き…それが涙ぐましい別離にならないはずがありません。遊撃区の解散とともに家族や親戚、知ち己き、革命戦友が四方八方に散っていったあの当時は、すべての人が彼女たちのように涙のうちに惜別の情を分かちあったのです。

李桂筍の姑が孫娘を生かすためにたいへん苦労したそうです。もらい乳も一、二度であって、いつも人の世話になるわけにはいきませんでした。それで麦やトウモロコシの粒を噛みくだいて幼児の口にふくませたそうです。

このように、李桂筍は女性としてはたえがたい大きな不幸と苦痛を胸に秘めて銃をとった戦士だったのです。彼女は撫松でわれわれの部隊に入隊しました。その後しばらくして、わたしは李桂筍を後方病院に送りました。そのとき彼女は凍傷を負っていたので、戦闘部隊で戦えない状態だったのです。最初、彼女は病院には行かないと拒みました。第一線で戦わせてほしいと涙ながらにせがむのでした。しかし、わたしは彼女のためを思って、その願いを聞き入れませんでした。凍傷がどれほど恐ろしいものであるか知らないようだが、これから戦う機会はいくらでもあるから、いまは病院に行って治療を受けなさい、わたしの父も凍傷のために亡くなった、足の指が腐乱して杖にすがらなければならない身体障害者になってしまったらどうするのか、と諭してはじめて、彼女は病院で治療を受けることを承諾しました。

彼女が治療を受けていた遊撃隊の後方病院は黒瞎子溝密営にありました。そこから白頭山は目と鼻の先でした。1937年の旧正月にわたしは横山地区の後方密営を一巡りしました。朴永純を責任者とする兵器修理所の隊員たちが空かんで製麺機をつくり、ノンマ麺をつくってわたしにもてなしてくれた旧正月というのが、そのときのことです。後方病院を訪ねたとき、李桂筍は料理をつくってわれわれをもてなそうとかいがいしく働きました。宋医師の話では、彼女は治療を受けるよりも、すすんで看病係や炊事係の役目も果たし、体を酷使しているとのことでした。わたしは病院を発つとき李桂筍に、他の仕事にはいっさい手をかけずに治療に専念しなさい、そうしないと病気を治すことができない、と言い聞かせました。その後は一度も彼女に会うことができませんでした。ただ連絡員を通して、病院の人たちに手紙と給養物資を何回か送ったことはあります。

われわれがしばらく白頭山地区を出払っていたあいだに、敵は後方密営に「討伐隊」を投入しました。そのとき宋医師を責任者とする後方病院も襲撃されたのです。激戦の末、朴順一は戦死し、李桂筍はつかまって長白県に護送されました。生き残ったのは李斗洙だけでした。そんなことになったとはつゆ知らず、わたしは金正弼と韓初男に食糧をもたせて病院に送りました。病院で治療を受けている患者たちも全快しただろうから、全員連れてくるようにと指示したのです。ところが、彼らは獣とも人間とも見分けがつかないほどひどい格好をした李斗洙だけを連れて部隊にもどってきました。そのときになってはじめて、わたしは後方病院に降りかかった災難を知ったのです。わたしは四方に偵察班を送って李桂筍の行方と生死を調べさせました。ところが彼らがひとしくもたらしたのは、彼女が敵に捕らわれて十余日後に虐殺されたという悲報でした。ある偵察班は、李桂筍の最期を目撃したという長白の住民にも会ったということでした。

李桂筍が銃殺されたのは市の立つ日だったそうです。敵はその日、「転向」した女子共産軍の反省演説があるという触れを回して住民を学校の運動場に集めました。恵山方面からやってきた商人も残らず運動場に引き出されました。では、李桂筍がなんのために住民たちの前で演説する合法的機会をつくってくれと要求したのかということです。わたしはここに、共産主義者としての彼女の真面目があると思います。彼女が運動場に住民たちを集めてくれと言ったのは、反日革命の宣伝をもって人民との永別の挨拶に代えようとしたためです。彼女が数言の反省演説をすれば、敵は彼女を生かしたかもしれません。しかし、李桂筍はそんな卑劣な道を選びはしませんでした。彼女は死を覚悟していたのです。死を覚悟した人は銃剣を恐れず、なんでも言えるものです。

李桂筍は、わたしは死んでも朝鮮人民革命軍は健在であり、その司令官も健在である、朝鮮人民革命軍を打ち破る力はこの世にない、日本帝国主義が敗亡し、祖国が解放される日は遠くない、みなが一致団結して敵の暴圧をはねのけ、反日抗戦に立ち上がろう、という内容の演説をしたとのことです。彼女は最期まで人民の忠実な奉仕者、教育者、宣伝者としての使命と本分を果たそうと努めたのです。反省演説をすると紹介した女子共産軍が反日を扇動する革命宣伝をしたのですから、敵の狼狽ぶりはどんなものであったでしょうか。長白地方の人たちは、いまでもそのときの光景をはっきりと覚えているというのですから、彼女の演説は住民たちに非常に大きな衝撃を与えたに違いありません。

李桂筍が有名な女性闘士となったのは、このようにりっぱな最期を遂げたからです。彼女の生涯における頂点はまさにこの最期にあるのです。生涯の頂点とは、人間の精神力と活動力が最高潮に達した時期を意味するといえます。そういう頂点が訪れる時期は人によって異なると思います。20代に迎える人もあれば50代に迎える人もあり、60代か70代に迎える人もあるでしょう。一時、名声を博しながら中途で恥ずべき一生を終える人より、李桂筍や崔希淑のように人生の終わりを毅然としめくくる人たちを歴史はいつまでも忘れないものです。わたしが李桂筍を忘れられないのはそのためです。李桂筍のような女性闘士は世界に向かって堂々と誇ることができます。彼女が歩んできた英雄的な生涯は、革命的な小説や映画のりっぱな素材になります。李桂筍は朝鮮民族が生んだ真の娘であり、女性革命家のりっぱなモデルの一人です。

李桂筍の母親は長いあいだ孫娘の生死がわからず、心を痛めていました。そうして、停戦後にやっと総合大学(金日成総合大学)に通っている孫娘に会い、娘の遺髪を手渡したのです。三代にわたって伝えられたその遺物はたんなる遺髪ではなく、烈女李桂筍の誉れ高い人生の象徴だったのです。2歳のときに生き別れを強いられ、顔も声も記憶にない母親が一握りの遺髪となって娘の前にあらわれたのですから、この世にこんな出会いがまたとあるでしょうか。娘は母の遺髪にほおずりしながら、とめどなく涙を流しました。李桂筍の娘はいま、両親が命をなげだして切り開いてきた革命の代を忠実に受け継いでいます。

一命をなげうって革命家としての尊厳と節操を守りぬいた女性の例は枚挙にいとまがありません。

女性が革命の片方の車輪を受け持っているというわたしの主張は、抽象的な概念ではありません。それは血に彩られた抗日革命史と、わが国の女性解放運動の参加者、実見者としての生きた体験にもとづいているのです。