金日成回顧録―世紀とともに』 
第21章「大部隊旋回作戦の銃声」より

密営に訪ねてきた女性 
金日成

1956年の秋のことであった。金日成同志の秘書は、咸鏡北道人民委員会の書記長から長い電話を受けとった。それは、鶴浦ハクポ炭鉱託児所に勤めるある女性が、解放前、朝鮮人民革命軍で戦った者だといって金日成同志に会わせてほしいと懇願するので、ピョンヤンへ行かせるという内容であった。

数日後、その女性が内閣庁舎へ訪ねてきた。用件を尋ねる秘書に、彼女は「ただ、ぜひともお会いしたくて…」と涙ぐむだけであった。そのとき金日成同志は外国代表団との活動で多忙をきわめていた。代表団との活動を終えた金日成同志は、秘書からその女性が訪ねてきたという話を聞き、「姜興錫の妻、池順玉が…彼女は生きていたのか」と深い追想にふけるのであった。

池順玉とはどういう女性であろうか。金日成同志は1972年5月、朝鮮革命博物館を見てまわったときと、1976年3月、音楽舞踊叙事詩劇『大部隊旋回作戦』を観覧したとき、そして1985年十月、大城山革命烈士陵を訪ねたとき、池順玉について語ったことがあるが、その回想談をここにまとめて紹介する。

われわれが茂山地区進攻作戦を成功裏に終えて白頭山東北部で軍事・政治活動をくりひろげるかたわら、第八連隊の活動を指導していたときですから、多分1939年の夏だったと思います。ある日、第七連隊長の呉仲洽がわたしを訪ねてきて部隊の実態を報告しました。報告を終えた彼は、司令部に来る途中、烏口江上流で姜興錫の妻と出会い、第八連隊の密営に連れてきたと言いました。それが池順玉でした。彼女が、夫に会いたくて訪ねてきたと言って密営にあらわれたとき、われわれはひとしく、その情熱に感嘆したものです。松花江や烏口江流域の山岳地帯は、敵の軍警と密偵がいつもうろつきまわる危険な遊撃戦区でした。ややもすれば流れ弾の犠牲になりかねず、「通匪分子」として処刑されるおそれもありました。そういう危険を冒して女性の身で、しかも一人で夫を訪ねてきたというのですから、感嘆せざるをえませんでした。

池順玉の夫の姜興錫は名射撃手としても名を馳せていましたが、愛妻家としてもうわさのある人でした。そのうわさによれば、彼の背のうには妻宛の手紙が何通もしまってあるとのことでした。十代の少年期に結婚した彼は、間もなく革命を志して家を出ました。それ以来十年近く、妻に一度も会っていませんでした。妻の方もやはり夫を非常に恋しがりました。あとで知ったことですが、情報ルートを通してそのような事実を内偵した日本帝国主義者は、池順玉を脅迫してスパイ活動に引き入れたのです。

ともあれ、姜興錫が妻と劇的な再会をすることになったのですから、喜ばしいことであるのは言うまでもありません。あいにく姜興錫は食糧工作に出かけていたので、わたしが彼女に司令部へ来るようにと連絡しました。池順玉に会って見ると、身だしなみが端正で礼儀作法をわきまえた女性でした。わたしは彼女と昼食をともにしました。戦友たちは彼女に、このイワナは将軍が夫人のために自ら釣ったものだから遠慮せずに食べるようにとすすめました。そう言われて、池順玉はかなり驚いた様子でした。どうしたわけか、彼女はご飯を少ししか食べませんでした。たくさん食べるようにといくらすすめても無駄でした。

わたしは彼女に、話相手として女子隊員を一人付けてやりました。二人は同じ毛布にくるまって夜明けまで語り合ったようでした。この夫婦の再会をひかえて、隊員みなが祝い事でも迎えたようにはしゃぎました。十年近い歳月、困難な武装闘争をつづけた末の再会だったので、わたしも祝福してやまない気持ちでした。戦友のすべてが姜興錫の帰りを待ち遠しく思っていたものです。

ところが池順玉に会ってみて、疑わしいことが一つありました。彼女が夫の居所をどうして知り、死地にひとしい山中をどう訪ねてきたのかということです。言うなれば、われわれの部隊の位置をどうして正確に探し当てることができたのかということです。池順玉と話を交わした人たちも、彼女の話すことはつじつまが合わないというのでした。

彼女が密営に来て3、4日経ったとき、呉仲洽と呉白竜が息せき切ってわたしのところに駆けつけてきました。呉仲洽は、人情にかられて確認もせずに日本の密偵を司令部へ連れてきてしまった、と青天のへきれきのような報告をし、自分の失策をわびたのです。呉白竜は、革命軍の小隊長の妻たるものが遊撃隊を援助できないまでも、日本帝国主義の手先となって来たのだから、こんなひどいことがどこにあるか、すぐさま銃殺してしまおう、と息まきました。

彼らの話によると、姜興錫の妻と寝起きをともにしている女子隊員が、池順玉の挙動にいぶかしいふしがあり、話もつじつまが合わないので怪しみ、夜中に彼女の服を手探りで調べたところ、縫い込んだ毒薬袋を発見したということでした。敵の毒薬攻勢をうんざりするほど体験していたので、隊員たちはそれをすぐ判別できたのです。毒薬の袋が発見されたことを本人は気づいているのかと問うと、気づいていない、それで、ただ監視だけつけておいたと言うのでした。

わたしは、その話を聞いて大きな衝撃を受けました。しばらくのあいだ心を鎮めることができませんでした。日本の密偵や破壊分子がわれわれの部隊に潜入して摘発された実例は、もちろん以前にもありました。摘発されたスパイのなかには、われわれとは敵対関係になりえない勤労者階級の出身も少なくありませんでした。日本帝国主義者は純朴な作男や労働者にもスパイの任務を与えて派遣したのです。しかし、革命軍に夫を送り出した女性を、それも革命軍で小隊長を務めている人の妻を密偵に仕立ててわれわれの軍営に送り込んだ前例はありませんでした。革命軍小隊長の妻がスパイの任務を受けてあらわれたというなら、それこそ重大事件です。日本の諜報謀略機関の要員は、じつにたちの悪い連中でした。わたしは、姜興錫がこの知らせを耳にすれば、どんなに驚くだろうかと思いました。まかり間違えば、家庭がめちゃめちゃになるおそれがありました。

わたしは、呉仲洽と呉白竜の反対を押しきって、もう一度池順玉に会いました。そして、彼女と比較的長い時間、話を交わしました。姜興錫の家庭の近況や革命軍を訪ねてくるときの苦労、そして彼女の実家の様子などを聞きました。話題は自然に姜興錫の話に移りました。わたしが、姜興錫は明日か明後日あたり工作地からもどるはずだと言うと、池順玉は急に顔をおおってわっと泣き出してしまったのです。そして自分の手でチョゴリの縫い込みを解いて毒薬袋を取り出すと、「将軍さま、わたしは天罰を受けるべき女です。殺されてもなんとも言えない女です!」と全身をわなわな震わせました。わたしは彼女に水を一口飲ませて気を落ち着かせました。そして、あなたが自白したのは幸いなことだ、自分の罪を正直に告白する人にたいして革命軍は寛大に処理する、ましてあなたは姜興錫小隊長の妻ではないか、だから怖がらずに話したいことは全部話しなさい、どういう経緯でスパイになり、スパイになってからどんな訓練を受け、革命軍を訪ねてくるときにどんな任務を受けたのか詳しく話してみなさい、と言いました。すると池順玉は、スパイにさせられたいきさつと訓練の内容、任務と入山の経緯などを具体的に自白しました。

後日、この光景を目撃した呉白竜は、そのときのことを回想してこう語っている。

「あのときわたしは、寿命が十年も縮む思いだった。背筋が寒くなり、全身に冷汗をかいた。毒薬を持ってあえて将軍の前に現れるとは…それを炊事釜か食器にそっと入れたとしたら、どんなことになっただろうか。あのちっぽけな女が朝鮮革命をすっかり台無しにするところだった。考えただけでもぞっとする」

抗日革命闘士たちが池順玉を回想することすら嫌う理由は、まさにここにあった。

琿春駐在の日本領事が作成した情報機密資料には、池順玉をスパイとして派遣した目的とその状況についてつぎのように記されている。

「三 派遣ノ状況

1 指令ノ内容

姜興錫ノ獲得ニヨル内部分裂工作

幹部ノ毒殺

匪ノ取調ニ対シテハ父母ノ強要ニ依リ夫ニ面会ノ為メ入山セルモノナルコトヲ告グルコト

2 連絡ノ方法

本人並ニ本人ノ獲得セル匪側人物ニ於テ特務科片田警佐或ハ南警尉ニ直接連絡スルコト

3 入山日時及場所

父母ニ対シ本工作ヲ承諾セシメ八月五日ヨリ同九日迄五日間延吉ニ於テ本人ニ対シ各種必要知識ニ務メ八月十日係員同行匪ノ潜伏地ト目セラルル和竜県孟河洞西南方一〇八八高地並ニ西方依蘭溝方面ニ目標ヲ置キ(八月八日午后十時金日成主力部隊一二〇名ガ和竜県竜沢村ヲ襲撃シ西南方密林地帯ニ逃走シタルニ依リ斯ク判断セリ)入山セシメタリ

4 帰来予定

不明ナルモ概ネ二、三箇月ヲ要スル見込」(「琿領情機密第186号、昭和15年7月26日琿春領事木内忠雄報告」)

日本の特務機関では池順玉を「生間」と呼びました。「生間」とは『孫子兵法』に出てくる言葉で、必ず生還すべき間諜という意味です。池順玉を「生間」に選んだことからして、敵は彼女に相当の期待をかけていたようです。彼女を職業スパイとして利用しようとしたのかもしれません。

彼らは池順玉に、おまえの夫は遊撃隊の機関銃射手になって多くの皇軍を殺したのだから、その罪は三代を滅尽してもなお拭いきれない、しかし、おまえが共産軍部隊を訪ねていって夫を帰順させ、われわれが与える任務さえ遂行するならば賞金もたくさんやり、よい暮らしができるようにしてやる、と言いました。三代を滅するというのには池順玉もどうすることもできませんでした。わたしは彼女の自白を聞いて胸が痛んでなりませんでした。彼女が哀れにも思われました。わたしは女性の心に秘められた清らかな愛情と純情まで、われわれとの対決にためらうことなく悪用する日本帝国主義者の卑劣さと悪らつさに怒りをおさえることができませんでした。革命を圧殺するための帝国主義者の手段と方法には限りがありません。革命隊伍を内部から分裂、瓦解させるためには父母妻子の愛情、兄弟の愛情、師弟の愛情までも悪用するのが、まさに日本帝国主義者の習性なのです。彼らは朝鮮民族の魂を踏みにじってもなおあき足らず、朝鮮人民の美しい人情の世界まで焦土化しようとしました。いわば、朝鮮人を野獣化しようとしたわけです。

われわれの武装闘争は、外部勢力によって強奪された領土と国権を取りもどすたたかいであったばかりでなく、人間を守り、人間的なすべてのものを守るための野獣との対決でもありました。人間を野獣化するのが帝国主義者の本性です。妻にスパイ訓練を与えて夫の仕事の邪魔をさせ、夫の司令官と戦友を毒殺するよう強要するのが野獣化でなくてなんでしょうか。

この惑星に住む人びとは、いま環境汚染について大騒ぎしています。もちろん、環境汚染が人類を脅かす大きな頭痛の種であることは確かです。しかし、それよりもっと大きな危険は、帝国主義者によって加速化されている道徳の崩壊と人間汚染です。この世界の下水道とごみ処理場では、毎日のように帝国主義反動派とその手先によって、人間の仮面をつけた野獣が生みだされています。人間汚染は歴史の発展を妨げるもっとも大きなブレーキです。

わたしは、うつぶせて泣く池順玉をなだめながら、心配することはない、遅ればせながら自分の罪を悟ったのだから、われわれはあなたを少しも違った目で見ない、強要されてやむをえずしたことなのだから仕方ないではないか、起ちなさい、と言いました。

池順玉がスパイの任務を受けてきた女性であるということが部隊に知れわたるや、密営にいた人たちはみな目を丸くしました。もとよりわたしは池順玉の問題を秘密に付しておくつもりでしたが、呉仲洽と呉白竜が部隊の安全を思い、事を公にして警戒心を高めさせたのでした。

司令部に駆けつけた姜興錫は、密営でひそかに広まっているうわさを耳にして気も触れんばかりの状態でした。彼が自分の手で妻を処刑するといって拳銃を手に息まくので、わたしは何を仕出かすかわからないと思い、彼を説得して自分の連隊のいる紅旗河の奥地へ送りだしました。久方ぶりに会う夫婦をこうして別れ別れにしなければならなかったので、わたしも気が沈みました。

軍長の職責をになっていた陳翰章のような人でさえ、自分を帰順させようと訪ねてきた父親に乱暴を働こうとしたというのですから、姜興錫の心情は理解して余りあるものでした。度量があり人情にもろい安吉も、どの年だったか、帰順をすすめにきた親族の者を自分の手で処刑しようとし、いさめられて止めたことがあります。

そのようなことが起こるたびにわたしは、むやみに銃をふりまわしてはならない、考えてもみよ、人民のために戦う軍隊が革命的原則を守るのだと、自分の肉親を撃ち殺すならば、そんな軍隊を誰が支持してくれるというのか、敵はまさしく革命軍がきみのような思考方式で親子同士、兄弟同士が互いに敵となって骨肉相争うことを望んでいるのだ、なぜこうした道理をわきまえず、先走ったことをするのかと諭したりしました。しかし、姜興錫の場合はそうした説諭が通じませんでした。そんな事情があって、しばらくのあいだは密営のほとんどの隊員が池順玉を疑って警戒しました。さらには、彼女を当然厳罰に処すべきだとさえ主張しました。

けれどもわたしは池順玉を信じました。彼女は一家を救うために仕方なくスパイの任務を引き受けたのであり、強要と欺瞞宣伝に乗せられ、革命軍にたいする正しい認識をもてなかった女性でした。階級的に目覚めなければ、そういう落とし穴に陥ることもありうるのです。池順玉は革命組織を通じて系統的に教育された女性でもありませんでした。しかし彼女は、わたしと人民革命軍の真の姿を知ると、即刻死を覚悟して罪過を包みかくさずうち明けたのです。もし彼女がひきつづき悪意を抱いていたなら、自白どころか、われわれの食べ物に毒薬を入れたはずです。その機会はいくらでもありました。しかし、池順玉はその道を選ばず、遅ればせながらも自白をしたのです。このような女性は必ずわれわれの味方になるはずであって、敵の味方にはなりえません。

いつだったか金策から、李啓東殺害事件のいきさつを聞いたことがあります。李啓東は金策とともに獄中生活をし、珠河遊撃隊も組織した古い党員です。雲南講武堂出身の彼は戦闘指揮にもすぐれていたとのことです。ところが、そういうりっぱな軍事・政治幹部を周光亜というスパイが殺害してしまったのです。周光亜は遊撃隊に潜入したのち、一部隊の秘書長の地位にまで昇進した者でした。彼は部隊の規律がゆるんだすきをねらって李啓東を暗殺しました。

こうした実例を見ても、隊員たちが池順玉を警戒したのは当然なことです。しかし、わたしは池順玉を赦しました。なぜ赦したのか。自分の罪を自ら告白した彼女の良心を読み取ったからです。人間がこの世でもっとも高貴な存在となるのは、理性と良心、道徳と信義をもった存在であるからです。人間は良心を除いてしまえば見るべきものがありません。人間は良心を汚せば、社会的存在としての人間の価値も失うことになります。

池順玉は一時、良心を汚しはしましたが、自分自身とたたかってその良心を取りもどしました。彼女はわれわれにたいする善意をもって自分の汚点をうち明けた女性です。人間はいったん泥沼にはまるのは簡単ですが、そこから抜け出すのは容易ではありません。しかし、池順玉はわたしに助けられ、苦しい自分との闘争を通じてそこから抜け出したのです。これは彼女に更生する力があることを意味します。だというのに、自分の過ちを正直に反省し、再出発しようと決心した人を泥沼に押し込む必要はないではありませんか。革命は人間の良心を守り、輝かすたたかいでもあります。わたしは池順玉のその良心を守ってやりたかったのです。

日本帝国主義者は、家門に革命家が一人いても、その革命家を肉親から孤立させ切り離そうと画策しました。われわれの愛国勢力を手当たりしだい圧殺し、分解させ、各個撃破しようとするのが彼らの終始一貫した策略でした。彼らは、朝鮮民族内部の血縁的つながりを「帰順工作」に悪用したりもしました。彼らの終局的な目的は、共産主義者を民衆から切り離すことです。そのためのもっとも悪らつな方法の一つが、骨肉を互いに警戒させ、憎悪させ、殺し合うようにすることでした。敵のこうした奸計と手法を知りながら、われわれがそれに巻き込まれるならば、これほど愚かな行為がどこにあるでしょうか。それゆえわれわれは、たとえスパイの任務を受けた人であっても、国と同胞を売り渡す大罪をおかさない限りはみな赦し、改心させる措置をとったのです。

あるとき、総督府から派遣された密偵がキリスト教徒を装って、われわれを訪ねてきたことがあります。密偵は何袋かの小麦粉を持参し、他郷で苦労している革命軍のためにと朝鮮から持ってきた贈物だから、ギョーザでもつくって召し上がってくださいと言いました。わたしは、その小麦粉を全部使ってギョーザをつくるよう炊事隊員に指示しました。やがて炊事隊員が皿にギョーザを盛ってわたしの前にあらわれました。密偵は、わたしのすすめるギョーザを辞退しました。重ねてすすめると、顔色が真っ青になりました。小麦粉に毒薬を混ぜて持ってきたのですから、当然のことでした。わたしは彼に、あなたは何がそんなにねたましくて、国を取りもどそうと野天で苦労しているわれわれを害しようとするのか、朝鮮人として生まれたからには朝鮮人らしくふるまうべきであって、そんな汚れた生き方をして何になるのか、いまからでも心を入れ替えて再出発することだと諭しました。われわれは彼を山小屋に置いて十分もてなして帰らせました。その後、ある雑誌にその事実が載ったそうです。

わたしは呉白竜の反対にもかかわらず、池順玉を密営にそのまま置いて教育することにしました。そして、しばらくして彼女を裁縫隊へ送りました。大部隊旋回作戦をひかえて六百着の軍服をつくる任務が課された裁縫隊では、人手が足りなくて困っていました。姜渭竜も裁縫隊に動員されていましたが、彼もやはり池順玉が来るのを快く思いませんでした。それで崔希淑をはじめ女子党員たちに池順玉をあたたかく見守り、正しく教育する任務を与えました。彼女たちは池順玉を真心をこめて世話し教育しました。

わたしは中秋の節日をすごして花拉子方面に向かうとき、紅旗河の奥地にいる姜興錫をそこへ呼び出しました。こうして花拉子の深い密林で、ついに彼ら夫婦の劇的な再会が実現したのです。

われわれは、しばらく花拉子にとどまって軍事・政治学習をしました。そのとき池順玉は、われわれがつくった学習教材で熱心に学習しました。彼女は小学校に通ったことのある識字者でした。その後、行軍期間にもへこたれず部隊と行をともにし、炊事当番も務めました。不慣れで骨のおれる生活ではありましたが、彼女の顔はいつも明るく輝いていました。

ところが、万事上々に運んでいたことが突如、悲劇へと急転しました。姜興錫が六松戦闘で無念にも戦死してしまったのです。われわれは最初、池順玉にこのことを告げませんでした。彼女がこの大きな衝撃にたえられないのではないかと思ったからです。

池順玉は行軍のたびに、金雲信が肩にしている機関銃をときおりじっと見つめたりしました。それは姜興錫が生前に所持していたものでした。戦友たちは、彼が地方工作に行くとき機関銃を金雲信に預けていったのだと言いましたが、それは事実上なんの効き目もない言葉の遊びにすぎませんでした。六松戦闘後、われわれは松花江のほとりの森の中で演芸公演を催しました。わたしはそこで、物思いに沈んでいる池順玉の姿を目にしました。

夫を亡くした池順玉をそのまま部隊に残すことはできなかったので、われわれはその後、家へ帰らせることにしました。彼女を帰さないと、その一家親族が禍をこうむりかねないからです。彼女が密営を発つときは、もちろん旅費も与え、道案内も付けてやりました。密林の彼方に姿を消すまで何回となく振り返ってはわたしを見つめていた彼女の姿が、いまでもありありと目に浮かびます。

停戦(朝鮮戦争)後、池順玉がわたしを訪ねてきたということを聞きました。そのときはあまりにも忙しくて彼女に会うことができませんでした。彼女は多分、心さびしい思いをしたはずです。その後はあれやこれやで、時間をつくることができませんでした。ピョンヤンまで来て、わたしに会えずに帰った人は一人や二人ではありません。池順玉が悪びれずにわたしに会いに来たのをみると、われわれと別れてからも祖国と民族にたいし、罪となるようなことはせずに生きてきたようです。あのとき彼女に会っていたら、山を降りてからの彼女の生活について詳しい話を聞くことができたでしょう。幸いにも当該部署から『現代史資料』という本が届けられたので、書物を通してではあっても、その経緯の一端を知ることができました。その本を見ると、池順玉が家に帰ってから、自分をパルチザン密営に送り込んだ敵の前でどのようにふるまい、革命軍の内部生活についてどう説明したかが推測できます。

木内琿春領事が上司に提出した報告には、朝鮮人民革命軍の幹部はすべて思想が堅実で、終始革命勝利のための努力に熱中し、隊員はこれに自然とひきつけられ、もっぱら幹部を信頼し、命令に絶対服従していて諸般の工作の実行が容易であるということと、第二方面軍が士気旺盛で団結力があるのは、軍指揮の金日成が猛烈な民族的共産主義思想を有し、頑強で健康なうえに統制の妙術を心得ているところにある、というようなことが指摘されていました。それくらいなら、われわれの部隊の実相が比較的公正に述べられていると思います。それは、池順玉が人民革命軍の生活と隊員たちの精神状態について、偏見をもたず正確に説明したことを意味します。

池順玉が家に帰ったのち、敵側が彼女をいかに取り扱ったかは、木内領事の報告内容のうち、つぎのような事項を見ても十分にうかがうことができるであろう。

「一 所見並ニ処置

1 所見

本人ノ供述ハ現下ノ各種情勢ニ照シ理路整然トシテ一応首肯スルコトヲ得ザレド本人ハ入山当初毒薬ヲ隠匿携行セルヲ発見セラレタルニ不拘何等処刑ヲ受ケズ一個年余ヲ匪団ト行動ヲ共ニシタルノミナラズ無事放遺セラレタルハ或ハ匪ノ内意ヲ受ケ偽装帰来シタルモノニ非ズヤトモ思料セラレ今後ノ言動慎重注意ノ要アリ(中略)

2 処置

池順玉ノ身柄ハ在安図片田工作班長ニ引渡シ隠密ニ監視シツツ偽装帰来者トノ前提ノ下ニ懐柔ニ努メ補足的取調ヲ進ムルト共ニ特別工作ニ別セシメアリ」(琿領情機密第186号、昭和15年7月26日 琿春領事 木内忠雄報告」)

日本帝国主義者は、池順玉がなんの制裁も受けることなく無事にもどってきたことに、かなり神経を使ったそうです。人間を単なる物言う動物としかみなさない彼らの思考方式では、その秘訣を探り出せるはずがありません。

池順玉を懲罰すべきだと主張する人もいましたが、わたしは彼女の罪を問わず許してやりました。もしわれわれが彼女を処刑していたら、どうなったでしょうか。彼女の婚家と親類はすべて反動家族という濡れ衣を着せられたはずです。われわれが進める革命は人間を葬るためのものではなく、人間を愛し、保護し、人間性を固守し、それを最大限に発揚させるための革命です。人間を葬るのは容易なことですが、救うのは非常にむずかしいことです。しかし、われわれはいくら骨がおれても、過ちを犯した人に再生の道を開き、人間として真の生活が営めるよう信頼し助力すべきです。人間を人間らしく処遇し、復活させるのがもっとも誉れ高く偉大な革命です。

帝国主義者は人間を石ころのように簡単にすてますが、われわれはもっとも貴い存在として大事にし救いだすべきです。また、いったん信頼した人を見捨ててはなりません。わたしがいつも言うことですが、金正日同志の品性のうちでいちばんりっぱな点の一つは、まさに人をとても大事にし愛することであり、一度信頼した人は絶対に見捨てないことです。

いつだったか、金正日同志は下部の幹部に、ナポレオンは「汝ら予を信ずるがゆえに、予また汝らを信ずる」と言ったが、自分はそれとは反対に「わたしはきみたちを信ずる。きみたちもわたしを信ぜよ」と言っていると話していました。これは金正日同志の哲学的信念となっています。つねに人民を信頼し、人民を愛し、人民のために献身する金正日同志に会うたびに、わたしは、わが国と朝鮮人民の将来について安心できると思うのです。

帝国主義者が人間を汚し、人間の運命を台無しにするのを生業としているとき、金日成同志は、共産主義者がもっとも大切に扱い、保護すべきなのは、まさしく人びとの政治的生命であり、人間関係は積極的な愛の原理、信頼の原理、救援の原理で一貫した気高い道徳と信義で結ばれるべきであることを実践を通して示した。これは朝鮮革命の神聖な倫理道徳である。