金日成主席を錦繍山記念宮殿に生前の姿のまま安置したのが昨日のことのようですが、すでに5年がたちました。きょう、主席をたずねてみると、主席の姿はそのときも今も変わりありません。錦繍山議事堂を記念宮殿として整え、主席を生前の姿で安置する事業をりっぱにおこないました。わが党と人民の崇高な道徳信義によって、金日成主席を生前の姿のまま戴く事業が完全無欠に、りっぱにおこなわれたといえます。
わたしは、金日成主席が思いもよらず逝去されたあと、どうすれば主席を永遠に高く戴くことができるか、どうすれば主席の偉業を輝かしく継承完成していくことができるかということについて、多くのことを考えました。
金日成主席はチュチェ革命偉業の開拓者であり、社会主義朝鮮の始祖であり、天才的な思想理論家、傑出した政治家、百戦百勝の鋼鉄の霊将であり、一生涯、祖国と人民のためにすべてをささげてきた、朝鮮人民の慈愛深い父でした。それほど偉大な主席を、もっとも純潔な心で千年も万年も高く戴いて、主席が開拓された革命偉業を継承完成していこうとするのは、わが党と人民の変わることのない信念であり意志です。それでわたしは、わが党と人民の信念と意志をこめて「偉大な領袖金日成同志は永遠にわれわれとともにおられる」、「偉大な領袖金日成同志を千年も万年も高くおし戴こう!」、「偉大な領袖金日成同志の革命思想で徹底的に武装しよう!」というスローガンをうちだしました。このスローガンは、わが党と人民が代をついで永遠に実現していくべき革命的スローガンです。
わが党のこの革命的スローガンを実現していくうえで、もっとも先に提起された課題は、主席を生前の姿そのままにりっぱに安置することでした。
主席を生前の姿で安置するうえで重要な問題は、主席をどこに安置するかということでした。わたしは錦繍山議事堂を記念宮殿として整え、ここに主席を生前の姿で永遠に高く戴くことを決心しました。幹部たちの意向はどうかと聞いてみると、彼らは世界的に公認された慣例にそって、主席を金日成広場か万寿台の丘、あるいは万景台地区に陵を新しく建設してそこに安置してはどうかと考え、弔意の行事が終わり永訣式をおこなった後には、わたしが錦繍山議事堂で仕事をしなくてはならないと言いました。しかし、わたしは彼らの意向を受け入れることはできませんでした。
錦繍山議事堂は、人民が至誠をつくして主席のために建設した贈物であり、主席が長い期間にわたってすごされ、朝鮮革命と人類の自主偉業を賢明に指導された歴史的な建物でした。錦繍山議事堂は名実ともに偉大な主席の主席宮でした。主席がおられた錦繍山議事堂を、主席の偉人像と陵としての特性に合わせて記念宮殿としてりっぱに整え、ここに主席を生前の姿で永遠に安置することは、主席の戦士、弟子であるわれわれの当然の道徳であり、信義です。
錦繍山議事堂を記念宮殿として整え、主席を生前の姿で安置する事業は、わが民族の歴史にかつてなかったもっとも崇高な事業であったがゆえに、わたしはその事業を初めから終わりまで直接指導しました。わたしは主席を生前の姿で安置することを基本にして、錦繍山記念宮殿を最高の水準で完璧に整えるようにしましたし、錦繍山記念宮殿を整えるために1日もかかさず出かけて、提起される問題をすべて解決しました。
今、主席が生前の姿で安置されている部屋は錦繍山記念宮殿の高いところにありますが、錦繍山議事堂を記念宮殿として整えるとき、主席をどの部屋に安置するのかという問題についても、わたしは多くのことを考えました。幹部のなかからは、主席に人民が弔意を表した忘れられないホールに安置しようという意見も提起され、その横にある大きな部屋に安置しようという意見も提起されました。わたしは錦繍山議事堂に出かけて内部をすべて見回って、主席を錦繍山議事堂のもっとも高いところにあり、主席がいつも仕事をされていた部屋に安置するようにしました。その部屋は錦繍山議事堂でもっとも良い位置にあり、そこには父なる主席の匂いが熱くこめられています。主席はその部屋で各国の首脳と外交使節、われわれの活動家と人民に会い、大きな信頼と愛をめぐらされました。わたしは主席が生前にいつも利用していたその部屋を、主席の偉人像にあわせて壁と床の色、照明、土台石、腰壁、装飾品をはじめとするすべてのものが調和しながらも簡潔で重みがあるようにりっぱに整え、主席を生前の姿で安置するようにし、主席と対面する人々の視線がただ主席の姿にだけ集中できるようにするために、華麗な装飾はしないようにしました。錦繍山記念宮殿のもっとも高いところにある部屋に主席を安置して、人々が記念宮殿の下から階段を上がっていって主席にあいさつをするのは、わが国の礼儀道徳にも適っています。われわれはみな主席の導きのもとで育った戦士であるがゆえ、当然そうすべきです。先代の領袖を、いつも仕事をされていたところに丁重に安置するのは、歴史にかつてなかったことです。
わたしは、錦繍山記念宮殿の立像ホールに立てる主席の大理石像の形象に格別の関心をめぐらしました。創作家たちは最初、大元帥服を着た主席の姿を大理石立像として形象しようとしたので、主席が大元帥服を着て人民の前に出られたことはないのだから、そのように形象するのではなく、わが人民に広く知られている姿で形象しなくてはならないといいました。そうして、主席が錦繍山議事堂で来客と会見され、彼らと記念写真を撮られたときの姿がわが人民に広く知られているので、その姿で形象し、そのような姿の主席が荘厳に立っている姿で形象するのが良いだろうと言いました。創作家たちが主席の立像をとてもよく形象しました。主席の立像の背景も朝焼けを形象した照明をほどこす方法で処理したので、主席の立像が偉大な太陽の姿としての象徴性がより強く感じられ、立像と後ろの壁面の間も宇宙空間が広がっているようにかぎりなく広く深く見えます。
主席の立像を立てたホールが優雅で落ち着いた雰囲気になるように朝鮮式に築きました。立像ホールの奥行きを深くし、主席の立像を立てるようにしましたが、それは人々がホールに入り、立像を仰ぐとき、主席の慈愛深い姿がさらに荘厳に感じられるようにするためでした。立像ホールの広い大理石の床にじゅうたんを敷けるように一定の幅をとり、その両脇に深い灰緑色の数珠石で太い模様を入れましたが、そうすることによって、立像ホールが勇壮に見えながらもあたたかくふくよかな感じを出して良いのです。勇壮で荘厳でありながらも、静かで奥ゆかしい感じを与える立像ホールは、錦繍山記念宮殿を訪ねる人々に深い印象を抱かせています。
錦繍山記念宮殿内に音響設備を設けて、追悼歌ではなく革命頌歌『金日成将軍の歌』と『首領は永遠にわれわれとともに』の旋律がほのかに流れるようにしましたが、錦繍山記念宮殿を訪ねる人々はこの歌を聴いて、主席が今日もわれわれとともにおられ、チュチェ偉業の完遂へと手をとって導かれているという、変わらぬ信念をさらに深くするでしょう。『首領は永遠にわれわれとともに』の歌は、主席を永遠に高く戴こうとするわが党と人民の信念と意志を反映した時代の記念碑的傑作です。同志たちはわたしが『首領は永遠にわれわれとともに』のような歌を作るためにどれほど心を砕いたか、たぶん分からないでしょう。この歌は、聴けば聴くほどさらに聴きたくなります。歌が荘重でありながらも親しみを与えます。この歌は完全に成功した歌です。
主席の立像を立てたホールから主席を生前の姿で安置した部屋に上がっていく大階段は、人民に対する主席の愛の懐を形象して作りました。もともと設計家たちは、中央玄関ホールのエスカレーターがあった場所に規模を少し広くする方向で階段を新しく作ろうとしました。それを錦繍山議事堂1階左側にあった大応接室から主席を安置した部屋までの長い区間に階段を作り、階段が広くても荘厳で重みがあるようにしました。錦繍山議事堂は主席の執務室であると同時に、愛の家でもありました。主席はここで各界各層の数多くの人々と会見し、見送ってくれましたが、そのたびに彼らを親しく抱擁してくれました。そのような意味で、下の階の階段は広くし、上にあがるほど次第に狭くなるようにし、人々を両手を広げて抱きかかえるように階段をつくることにしました。大理石階段が非常に見栄えが良くなりました。階段の欄干をわが国で生産する黒大理石で作りましたが、品位があります。わたしは階段を作るために大理石を1つ使うにしても、錦繍山記念宮殿の全般的風格を考慮するようにしました。
錦繍山記念宮殿に事蹟車保存室と勲章保存室を設けて、人民が子孫代々主席の労苦と不滅の業績を熱く思い起こすことができるようにしたのも良いことです。
主席が利用した乗用車と列車は、主席の革命活動において非常に重要な意義をもつ事蹟物です。錦繍山記念宮殿に保存した乗用車は、主席が生前に特別に愛用された乗用車であり、列車は執務室にほかなりませんでした。主席は、列車と自動車に乗って祖国のいたるところをたえず現地指導され、列車でヨーロッパと中国、モンゴルをはじめ世界各国を訪問されました。主席が列車に乗ってわが国と世界各国を見て回った路程をみな合わせると36万8,000キロメートルにもなりますが、わが主席のように、列車にたくさん乗って活動した領袖はいません。事蹟車保存室にある世界地図に列車と飛行機で外国を訪問した路程をみな表示しましたが、主席の対外活動が世界的範囲でどれほど幅広くおこなわれたかが一目でわかります。錦繍山記念宮殿に主席の事蹟車保存室が整ったことによって、わが人民は祖国のかぎりない繁栄と、世界の自主化偉業のためにささげた主席の不眠不休の労苦と、主席がなしとげた不滅の業績をさらに熱く思い起こすことができるようになりました。
錦繍山記念宮殿に勲章保存室を整えて、主席がわが国から授与された勲章、メダルと、外国から授与された勲章、メダル、名誉称号証書を展示したことも良いことです。主席が受けた表彰を国際親善展覧館に展示しようという意見もありましたが、そうするよりも、主席を生前の姿で安置した錦繍山記念宮殿に保存するのがより意義があります。主席は、わが革命と世界の自主化偉業遂行につみあげた不滅の業績によって、生前に多くの勲章とメダル、名誉称号を受けられました。わが主席のように、世界各国から勲章とメダル、名誉称号をたくさん受けた偉人はこの世にいません。主席が外国の勲章をたくさん授与されたのは、わが国、わが民族の大きな誇りであり栄誉です。主席が外国で勲章を授与される写真まで勲章保存室に置いたので、主席が今も生きておられ、対外活動をしておられるようです。人類は、主席がつみあげた世界史的功績と不滅の業績を、歳月が流れても永遠に忘れないでしょう。
錦繍山記念宮殿の「慟哭のホール」を規模を大きく荘厳にりっぱに築きました。わたしは昨年7月8日に、生前の姿で安置された主席にあいさつしたあと、主席が逝去されたとき血の涙を流したことを思い出し、弔意を表した1階の中央ホールに入りました。ホールに立つと、主席を亡くしたわが人民が血の涙を流して慟哭した姿がありありと思い起こされました。それで、そのホールを「慟哭のホール」と呼ぼうと言いました。その後で、彫刻家たちがさまざまな図案を作ってきたのを見て、一番心にかなった図案を完成するように言ったところ、「慟哭のホール」をりっぱにつくりました。彫刻家たちが「慟哭のホール」に掲げる太陽の像を真心を込めてりっぱに形象しました。人民軍と人民、南朝鮮人民と海外同胞、世界の人民が悲しみと敬意を表したそのときの姿も生き生きとよく形象しました。「慟哭のホール」の床の石をよく選択し、加工と施工もよくおこないました。黒い大理石の床にきらめく白点は、人民が流した血の涙がそのまま石の中に固まり宝石のように輝いているようです。「慟哭のホール」は、主席を失ったわが人民が血の涙を流し、悲しみを力と勇気にかえた歴史的な場所です。
錦繍山記念宮殿の広場はたいへん趣きがあります。錦繍山記念宮殿の広場は万年大計の大広場であり、その規模は金日成広場の2倍にもなります。わたしは錦繍山記念宮殿の広場建設を人民軍部隊にまかせ、遠い将来においても遜色のないように建設の質をもっとも高い水準で保障するようにしました。広場を建設してみると、錦繍山記念宮殿がさらに重みをもって勇壮に見えます。かつては、父なる主席を仰いで金日成広場で大きな行事をおこないましたが、今はそのような大きな行事を錦繍山記念宮殿の広場でおこなうと主席を戴いておこなうのと変わりなく、主席が逝去された後でも、いつも人民とともにおられることになります。
錦繍山記念宮殿の回廊をとてもりっぱに建設しました。わたしは人民が路面電車に乗って来て、雪や雨にぬれて錦繍山記念宮殿に入ってくるのを見て、彼らにわずかな不便も与えないようにするために、手間がかかっても錦繍山記念宮殿に入る回廊をりっぱに建設すべきだと決心するようになり、屋根も葺いてガラス窓もつけ、エレベーターと冷暖房設備もある回廊を建設するようにしました。記念宮殿の回廊が建設され、人民が生前の姿で安置された主席にまみえようと路面電車に乗ってきて錦繍山記念宮殿に入るとき、雪や雨に濡れないようになりました。錦繍山記念宮殿の回廊を建設したことは、主席を生前の姿でりっぱに安置するうえでも良いことです。人々が雨や雪にあたって服が濡れたまま入っていけば、室内の温度と湿度を適度に保つことができず、そうなれば、主席を生前の姿で安置するうえで支障を与えかねません。
錦繍山記念宮殿の石の正門と石垣を、主席を生前の姿で安置する記念宮殿としての特性に合わせて、万年大計の重みをもってりっぱに建設しました。以前にあった鉄の垣根は記念宮殿に不釣合いでした。錦繍山記念宮殿の正門と垣根を石で特色をもって見栄えよくりっぱに作ったので、錦繍山記念宮殿がさらに荘厳になり、明るくなりました。
錦繍山記念宮殿の石の正門の形象案は朝鮮人民軍創作社で作りましたが、着想をよくしました。とくに、錦繍山記念宮殿の石の正門に大元帥星を形象したのは良いことです。宝石を置いて立体で作った大元帥星と大元帥霊将模様で装飾したことも良く、金属工芸の引き手もりっぱに作りました。人民軍創作社で、生涯をささげて反帝闘争を勝利へと導いてきた主席の不滅の業績について考えながら、錦繍山記念宮殿正門に大元帥星を形象するように着想した、その心がりっぱです。
錦繍山記念宮殿の石垣は、万寿台創作社で作った形象案をもって作りましたが、非常に見栄えがよくりっぱです。錦繍山記念宮殿の石垣に雲の中から飛び立つ鶴の彫刻を透かし彫りにしたのが特色があり重厚です。元来、鶴は長寿と幸福を象徴しますが、石垣を雲と鶴で形象したその意味についてよく解説すべきです。錦繍山記念宮殿の石垣は、石垣というより造形芸術的によく形象された1つの芸術作品といえます。わたしは石垣を作るとき、鶴が際立って現れるようにし、筒石にするようにしました。石垣を筒石で作ったので、数千年たっても変わらないでしょう。錦繍山記念宮殿の石垣を、主席の永生を祈願するわが人民と全人類の念願を刻みこむように、入念にりっぱに築きました。このような石垣はわが国にしかないでしょう。錦繍山記念宮殿の石垣は、わが民族の貴重な国宝として後世に引き継ぐことのできる大傑作品です。
錦繍山記念宮殿の風格に合うように、錦繍山地区がりっぱに整えられました。記念宮殿の前から大道路がまっすぐに伸びているうえに、道路の周辺の緑化がよくおこなわれ、錦繍山記念宮殿がさらに品がよくなりました。錦繍山記念宮殿を金星通り側から眺めると奥行きが深くて見えないので、文徳通りから宮殿正門側に道路を広げて建設しましたが、そうして文徳通りから見ると奥行きが深くなり、錦繍山記念宮殿がさらに勇壮に威厳をもってみられます。錦繍山記念宮殿地区に樹木と芝生、草花を真心を込めて植え、公園と緑地もりっぱに整えました。錦繍山記念宮殿の近くにわが国の珍重な樹木と外国から送られてきた各種の樹木を植え、100町歩の樹木園を作りましたが、錦繍山記念宮殿周辺の風致がさらに美しくなりました。樹木園に針葉樹の林を造成したので、錦繍山記念宮殿周辺が冬にも青々として良くなるでしょう。
錦繍山記念宮殿は主席を生前の姿で戴こうとするわが人民の切々たる念願に合わせて、すべてが最高の水準で完璧に整えられました。錦繍山記念宮殿は主席が生前の姿で安置された永遠の太陽の家であり、チュチェの最高聖地です。錦繍山記念宮殿のような大記念碑的創造物は世界のどの国にもありません。錦繍山記念宮殿を訪れた外国の人々も、錦繍山記念宮殿こそは永遠の太陽の聖地であり、世界に聖地というものは多いが、錦繍山記念宮殿のように人々の心と心が合わさって大河のように流れる聖地は存在しないと言いながら、感嘆を禁じ得ないといいます。
錦繍山記念宮殿は、主席にたいするわが党と軍隊と人民の忠誠と至誠の最高精華であります。錦繍山記念宮殿の1つ1つの施設物と広場、その周辺には、父なる主席を永生の姿で千年も万年も高くおし戴こうとする人民軍軍人と人民の清らかな忠誠心と道徳信義、熱い至誠が込められています。わが人民が自分の領袖をどのように戴くのかについては全世界がみな認めています。軍人建設者は最高司令官の命令を受けて、主席にたいする忠実性を高く発揮し、錦繍山記念宮殿を短期間に最高の水準でりっぱに建設しました。軍人建設者がこの間、多くの汗を流して錦繍山記念宮殿をりっぱに整えましたが、これについて知る人はいくらもいないでしょう。
錦繍山記念宮殿を整えるために捧げたわが人民の忠誠の情がいかに熱く崇高であるかということは、記念宮殿を整えるうえで必要な高級石材をとどこおりなく保障した事実だけをみてもよくわかります。元々、錦繍山記念宮殿を整えるうえで必要な高級石材を他の国が提供しようと言いました。これは非常にありがたいことでした。しかしわたしは、わが人民の忠誠の心をまず先に見て、人民が知れば記念宮殿を整えるうえで必要な高級石材をいくらでも自力で解決できるはずだと考えました。人民を信じ、人民の力に依拠すれば天下をも取ることができるというのが、わたしの固い意志です。錦繍山記念宮殿を整えるために高級石材が要求されていることが全国に知れると、人民は一致して立ち上がり必要な高級石材をみな探し出しました。外国が提供しようと言った石材を受け取って錦繍山記念宮殿を整えたなら、人民から罵られたかもしれません。この世界に、わが人民のように党と領袖を真心でおし戴く人民はいません。
わが人民は「天のように信じ従います」という歌をうたい、党に従っていますが、実にわが人民は高尚な思想精神世界をもつ人民です。わたしは、人民とわずかな隙間もなく、つねに党と領袖を真心でおしいただく人民の純潔な心から力と勇気を得ています。わたしが何年か前に路面電車に乗って錦繍山地区を見回ったことがありましたが、そのとき、道路周辺に芝を植えていた女性と小学生、大学生をはじめ、各界各層の大衆がわたしを見つけ、路面電車に駆け寄って歓迎しました。路面電車に向かって拍手をし、歓呼しながら駆け寄ってくる彼らの目の輝きには、自己の指導者に従う真心がこもっていました。だれかが組織したのでは、そのような真実の光景が展開されることはないでしょう。わたしはその光景を見ながら、わが人民は本当にりっぱな人民であることを改めて感じ、彼らのために、革命をもっとりっぱにおこなわなければならないという決心をさらに固くしました。われわれはりっぱな人民をもっていることを誇りとし、人民のためにさらにりっぱに服務しなくてはなりません。
錦繍山記念宮殿への参観の組織をりっぱにおこなわなければなりません。錦繍山記念宮殿は万民の慈父である主席が生前の姿で安置された聖地であるので、だれでもみな訪ねて来て、主席に会うことができるようにしなくてはなりません。
わが人民はだれもがみな、主席の懐のなかであたかい愛と温情を受けながら生きてきました。歴史には、わが主席のように人民の慈父として高く称賛される領袖はいなかったし、わが人民のように自己の領袖のあたたかい愛と温情のなかで生きてきた人民もいませんでした。錦繍山記念宮殿を訪ねて、生前の姿で安置された主席に会いたいというのは、人民すべての切々たる心です。わが人民は日が経つほどに主席を懐かしみ、錦繍山記念宮殿を訪ねて主席に会いたいと思います。詩や歌で主席を万民の慈父であると称賛し、錦繍山記念宮殿を万民が訪ねる太陽の宮廷であると言いますが、錦繍山記念宮殿は人民の記念宮殿にならなければなりません。それでこそ、主席は人民の永遠の領袖として永生されます。錦繍山記念宮殿の1日の参観能力が制限されているためすべての人々が一度にやって来て参観することはできないだけに、きょうはどの単位で参観し、明日はどの単位で参観するという式に組織活動をよくおこなって、だれもが錦繍山記念宮殿を訪ねてきて、生前の姿で安置された主席に会えるようにしなくてはなりません。そうしてすべての党員と勤労者が主席にたいする尊敬心を心に深く刻んで、党の周りにさらに固く結集し、主席の崇高な志を実現するために積極的に闘争するようにしなくてはなりません。
錦繍山記念宮殿の広場を広く利用するようにしなくてはなりません。錦繍山記念宮殿の広場をたくさんの物資を投じてりっぱに建設しながら、よく利用しないならば意味がありません。錦繍山記念宮殿の広場を開放して、多くの民衆が訪ねてきて賑わうようにしなくてはなりません。
主席は生前、いつも人民のなかにいて、人民と喜びも悲しみも、生死苦楽もともに分かちあいました。以民為天の思想を座右の銘とみなした主席は、生前に自分はつねに人民を信じ、人民のために闘争し、人民のなかで生きてきたと言われながら、今後もつねにわが人民とともにいるだろうと熱く述べられました。主席の心のなかにはつねに人民がおり、人民の心のなかにはつねに主席がいました。われわれは、主席が永遠に錦繍山記念宮殿で人民とともにおられるようにしなくてはなりません。
わたしがすでに言ったことですが、祝日ごとに錦繍山記念宮殿の広場の門を広く開けておかなくてはなりません。そうすれば、人民が意義深い祝日を迎えるたびに、主席にたいするつきない懐かしさと熱い敬慕の情を抱いて、錦繍山記念宮殿に家族単位でも、また機関、企業所単位でも訪ねてきて、生涯あらゆる風雪苦難を経験しながら人民に限りない幸福と栄光を抱かせた主席を深く追憶することでしょう。
主席は錦繍山記念宮殿に赤旗とともにおられます。主席の生涯がこめられている赤旗はわれわれ革命家の信念であり良心です。革命家の一生は赤旗を固く守り、翻していくものとならなくてはなりません。
われわれは、偉大な主席の生涯がこめられている赤旗を固く守り、代を継いで力強く翻さなくてはならず、主席をチュチェの太陽として永遠に仰ぎ、主席の遺志通りに仕事をりっぱにおこない、金日成民族の栄誉と尊厳を全世界にさらに高くとどろかせ、チュチェの革命偉業を最後まで完成していかなくてはなりません。